一カ月検診
「用意はいいか?」
「ウン!OK」
ユリウスは娘をベビーキャリーで抱き上げる。
ディアナが生まれて1ヶ月が経った。
今日はディアナの1ヶ月検診で、それは同時にユリウスの産後初めての外出を意味し、数日前からーアンドリューシャの時もそうだったがー、新生児を連れての外出に、ネットで下調べをしては、やれ寒くなり始めただの、やれオムツの替えはどれぐらい用意したら良いかだの、大騒ぎの大わらわだったのである。
ユリウスが用意したベビーバッグをレオニードが肩にかける。
「アンドレイ、待たせたな。母様はやっと支度が整ったそうだ」
外出を今か今かとエントランスのソファで足をぶらぶらさせて待ちかねていたアンドリューシャの元に、やっと父親と、妹を抱いた母親が姿を見せた。
「お待たせ。アンドリューシャ」
ー 行こうか。
ユリウスが差し出した手を、彼女と同じ碧の瞳を輝かせながらアンドリューシャが握りしめた。
レオニードが車庫から出して来たメルセデスベンツの四駆に家族が乗り込む。
「アンドリューシャ、助手席危なくない?」
助手席に取り付けられていたアンドリューシャのチャイルドシートにユリウスが少し表情を曇らせる。
「エアバッグはキャンセルさせた。ー 事故は時の運だ。第一お前のビートルの助手席に乗っていて今まで無事だったのだ。問題ない」
「ファーターの運転、上手で安心だよ。大丈夫!」
二人の返事に
「なんか…引っかかる言い方だなぁ…」
と口を尖らせてブツブツ言いながらもユリウスは後部座席のベビーシートにアーニャを寝かせると、自分のシートベルトを締めた。
「出してください!」
「畏まりました。奥様」
家族四人を乗せたベンツが、ユスーポフ邸を出た。
一方こちらはミハイロフ邸。
「アルラウネ、防寒着は入れたか?」
「入れたわ」
「オムツは足りなくないか?」
「大丈夫です。もう!ちょっとぐらい何か足りなくたって、なんとかなるわよ!そんなことより、いつまでもここでグズグズしてたら予約時間に遅れちゃう。私は行くわよ」
そう言うとアメリカ製のベビーキャリーでヴァシリーを抱いたアルラウネは同じようにマリカを抱いてマザーバッグを提げたアレクセイを置いてスタスタと車庫へと歩いて行った。
「おい!待てよ」
慌ててアレクセイが小走りでアルラウネの背中を追いかけて行った。
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車内で検診中のユリウスとディアナを待つ。
レオニードは新聞を、そしてアンドレイは持って来たDSにも飽きて父親から借りたタブレットを見ていた。
「ファーター、トイレ」
「ん。」
用を足しに院内へ入ろうと車を出た所に、やはり1ヶ月検診なのだろう。ちょうど到着して車から降りるミハイロフ夫妻に鉢合う。
双子をそれぞれ夫妻が一人ずつ抱き抱え、育児の連携もバッチリな事が一目で窺えた。
あちらもレオニード達に気づきお互いに会釈を交わす。
「こんにちは」
久々に会ったアルラウネにアンドリューシャの顔が輝く。
「こんにちは。アルラウネ。と、えーっと…」
傍らの初対面のアレクセイに何と呼んだら良いか分からず、アルラウネと父親を交互に見上げる。
「ミハイロフさんだ」
レオニードが息子に答えてやる。
「あなた方も1ヶ月検診ですか?」
「ええ。おたくも?」
「只今車で待機中です」
「ミハイロフさん、こんにちは」
「こんにちは。…俺のことはアレクセイでいいぜ」
アンドレイに挨拶されたアレクセイがニカッと笑いアンドレイの頭をくしゃくしゃ撫でた。
「綺麗な愛らしい御子たちだ」
レオニードがベビーキャリーから僅かに覗き見える、安らかな寝息を立てた双子達を褒める。
「ファーター、見せて」
せがまれてレオニードが、赤ん坊の抱かれている高さまでアンドリューシャを抱き上げる。
「わぁ!小ちゃくて可愛い!」
天使のような双子達にアンドレイが小さな感嘆の声を上げた。
「ふふ…。ありがとう。私の抱いてる方が男の子でヴァシリー、アレクセイが抱いてる方が女の子でマリカというのよ」
「アルラウネ…そろそろ」
アレクセイが駐車場の時計に目をやり、アルラウネを促した。
「あ!そうね」
「お引き止めしてすまなかった。では我々も」
大人達が再び会釈し、ミハイロフ家は別棟の産科へ、そしてユスーポフ親子は用を足しに本館へと分かれた。
本館へ向かうユスーポフ親子の背中に、ふとアレクセイが思い出したように声をかけた。
「本館の総合受付奥にプレイルームがあるぞ!」
その情報にレオニードとアンドリューシャが顔を見合わせる。
「いい事を教えて頂いた。かたじけない。…早速この子と後で行ってみようと思います」
「アレクセイ、ありがとう!」
二人の礼をアレクセイは背中で聞きながらヒラヒラと手を振ってみせ、別館へと消えて行った。
アレクセイに教わったプレイルームにアンドリューシャと二人で立ち寄る。
清潔だけどどこか無機質な会計所の奥に突然ひらけた空間が現れる。
高い天井からトンボと蝶のオブジェがぶら下り、床や本棚は無垢の木材が使われていて、どこかホッと和む空間となっている。
その中でプレイルームの中に鎮座しているカラフルな機関車型の子供トレインが一際目を惹く。
「わぁ!」
アンドリューシャがそのトレインを見るなり走り寄って中に入って行く。
プレイルーム奥には授乳などが出来るスペースと、小さなプラネタリウム設備まであるようだ。
ー なかなか見事なものだな。
感心しながらレオニードがプレイルーム内を観察する。
設備は至れりつくせりで快適この上ないが、いかんせん分かりづらい場所にある事と、子供が利用する頻度の高い小児科と別フロアにある為か、あまり知られていないようで、プレイルーム内は割に閑散としている。
ー 知る人ぞ知る…なのか。勿体無いな。
そんな事を思っていたレオニードの元へ、アンドリューシャが瞳を輝かせて汽車のオブジェから出てきた。
「あのね、あのね!電車の窓に色々な景色が映るんだ!ムッターのドイツのお家みたいな場所とか、海とか山とか、ビルがたくさんある所とか、花火とか!」
「そうか…よかったな」
かなり最新鋭の設備が整ったプレイルームのようで、その汽車の中では簡単なプロジェクションマッピングが放映される仕組みになっているようである。
またこうした最新鋭の遊具だけではなく、積み木、知恵の輪、オセロゲームといった昔ながらの玩具も豊富に取り揃えられている。
書籍類などは大人向けのものや育児書も置かれているようで、レオニードと同様子供に同伴した父親が子供と並んで読書に耽っていた。
「間も無くプラネタリウムの上映が始まります。●時●分から一階プレイルームにてプラネタリウムの上映を致します。どうぞお越し下さいませ」
院内に放送が入ると同時に職員が、「プラネタリウム●分より上映致しまーす」とプレイルームの子供たちに声をかけて回る。入院患者と思われるパジャマにガウン姿の子供たちも看護師に付き添われ、プラネタリウム鑑賞にやって来る。
「ファーター」
「楽しそうだな」
アンドリューシャがレオニードの手を引いて、二人はプレイルーム奥のプラネタリウムを上映する別室へと入って行った。
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「あ…メール」
検診後、授乳室で娘にミルクを飲ませ終えたユリウスがメッセージに気づいた。
「さっきお前のダンナと息子にあったぞ」
ユリウスより少し遅れて、同じく検診を終えた妻子に付き添って授乳室で二人分のミルクを作っていたアレクセイがユリウスに声をかける。
「あ、ほんと?どこで?」
「駐車場。アンドリューシャがすっかりお兄ちゃんの顔になってたわ」
― アレクセイ、一本頂戴。
ベビーキャリーを解いたアルラウネがアレクセイに手を伸ばす。
「ほれよ」
慣れた手つきでミルクを一滴手首に垂らし温度を確かめて、アレクセイが哺乳瓶を手渡し、自分もベビーキャリーを解き娘を抱き直すと、手つきよく娘の口に哺乳瓶を哺ませる。
「随分慣れてるね」
そんな二人の連係プレーに思わずユリウスが感嘆の声をあげる。
「うちは俺も可能な限りガンガン手ぇ出してかないと育児が回んないからな」
事もなげにアレクセイが言ってのける。
「何だか私があげるよりもよっぽど食いつきがいいのよね。もう!」
― 母親としての立場なしよ。
そういって肩を竦めて見せたアルラウネだが、言葉とは裏腹にとても嬉しそうな顔だった。
「うふふ・・・。ごちそう様」
「メール、あいつらからだろ」
「うん。カフェテリアで待ってるって。あのね。今日はあそこのハンバーガーをお持ち帰りすることに決めてたの。レオニードがぼくのお産の最中に食べてすごく美味しかったらしいんだ!だから実はすっごく楽しみにしてるんだ」
― じゃあね~。
そう言うとユリウスはスマホをコートのポケットにしまい、手早く哺乳瓶一式をバッグにしまい込むと再び娘を抱き直して授乳室を出て行った。
ユリウスが出て行った後、「クックック…」と噛み殺したような笑いを漏らすアレクセイに、「一体どうしたのよ?」とアルラウネが訝し気な顔で尋ねる。
「いやな…。…やっぱ何でもない…」
「変な人」
尚も笑いをかみ殺しながら娘にミルクを飲ませている夫の様子に「全く訳が分からない」という顔で、アルラウネは再び腕の中の息子に向き合うと「変なパーパでちゅね~」と優しく息子に話しかけながら残りのミルクを哺ませた。
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ハクション!
「ファーター、風邪ひいたの?」
「…いや。誰かが私の噂でもしているのか??」
「レオニード、アンドリューシャ、お待たせ~」
そこへ娘を抱いたユリウスがやって来た。
「あ!ムッター。今ね、ハンバーガー用意してもらってるところ」
「そう。楽しみだなぁ」
「持とう」
レオニードがユリウスの肩にかかった大きめの黒いキルティングバッグを受け取る。
「ありがと」
「ハンバーガー、お待たせいたしました」
ハンバーガーと付け合わせ、ウレタンカップ入りのコンソメスープ3人分が入った紙袋がレオニードに手渡された。
「車で食べよ!」
「食べよう食べよう!」
手を繋いだ妻と息子の後ろ姿を愛おし気に眺めながらハンガーバーの紙袋を下げたレオニードが後に続いた。
車の中で親子三人、先ほどのハンバーガーを頬張る。
「美味しいね!ムッター」
「そうだね!アンドリューシャ」
口内に広がるジューシーなパテの肉汁に二人が歓声を上げる。
「気持ちは分かるが大きな声を上げるな。…ディアナが起きてしまうぞ」
レオニードに窘められて、二人が「はぁい」とバツの悪そうな返事をする。
「そういえば、プレイルームにいたんだって?たまに行く小児科のプレイルームは知ってだけど総合受付の更に奥にそんなトコがあるなんて、知らなかったなあ」
そう言いながらユリウスが付け合わせのポテトチップの塩気のついた指先をペロリと舐めた。
「あのね!すっごく面白かったよ。窓にいろんな景色が映る汽車があったり、それとね、僕ファーターとプラ…プラ…」
「プラネタリウム」
横からレオニードが助け舟を出す。
「そう!プラネタリウムを観たんだ。暗くって、丸い天井に星がいーっぱい映ってるんだ。星がたくさんキラキラしてて、まるで別荘で見た星空みたいだったよ!」
「そうなんだ!」
楽しそうに初めて体験したプラネタリウムの事を母親に語って聞かせるアンドリューシャに、思わずユリウスの頰も綻ぶ。
アンドリューシャのプラネタリウムの話は尚も続く。
「プラネタリウムでね、星座のお話もあったんだよ。えーっとね、こと座の…何だっけな」
「オルフェウスの窓…?」
「あ!うん。そうそう、オルフェウスの窓!…ん?ムッター、窓はいらないよ。オルフェウス!オルフェウスのお話」
「あ…そうだね。ふふ」
その懐かしい窓を口にしたユリウスの脳裏に、あの窓の風景と…少年時代のやんちゃな笑顔を浮かべた元恋人の姿が一瞬掠める。
「とてもとても可哀想な話なんだ。黄泉の国へ召された妻を迎えに行くんだけどね、後一歩で元の世界へ戻れたのに、「人間の世界へ戻るまで絶対に後ろを振り返ってはいけない」っていう約束を破って、後ろを振り返ってしまったんだ。それでね、再びオルフェウスの妻は黄泉の国へ引き戻されてしまって、嘆き悲しむオルフェウスを可哀想に思ったえらい神様が、オルフェウスの竪琴を夜空の星座にしたんだ」
「そうなの…」
「ねえ、何でオルフェウスは後一歩のところで後ろを振り返ったのかなあ?妻を連れて帰りたかったのに、なんで約束を守れなかったのかな?」
「うーん。…何でだろうね?…でもね、愛していても…いくら好きでも一緒にいられない恋も、あるんだよ。それはオルフェウスの…オルフェウスとエウリディケ二人の運命だったのかもね」
言葉を選びながら息子に話して聞かせるユリウスのその顔を、穏やかで優しく慈愛に満ちた表情を、ミラー越しにレオニードが見つめていた。
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「オルフェウスの窓…というのはなんだ?」
その日の夜の寝室。
授乳を終え、レオニードの横に滑り込んできたユリウスにレオニードが問いかけた。
「え?」
夫の口から、思いがけない名前が出て来て、思わずユリウスが夫に聞き返す。
「今日、帰りの車で言っていただろう。…一体何なのだ」
― その言葉を口にしたお前の声が、いつもと少し違っていたので、気にかかっていたのだ。
そう言ってレオニードは妻の柔らかな身体を抱き寄せ、長い髪を指に絡め梳いた。
「…さすが、鋭いね」
「当たり前だ。私はお前の夫で、お前は―私の妻なのだから」
「そっか…」
「そうだ」
自分自身ですら気づかなかった心の機微を夫に指摘されて、ユリウスはフッと一つため息のような笑いを漏らし、レオニードの広い胸に額を寄せる。
そんな妻の小さな金の頭をレオニードが胸に掻き抱く。
レオニードの胸に顔を埋めながらユリウスが続ける。
「あのね…。それは、ぼくの通っていた音楽学校に昔から伝わるローカルな伝説で、…オルフェウスの窓と呼ばれる古びた塔の窓から地上をのぞいた男性が、最初に目に入った女性と必ず恋に落ちて、…だけどオルフェウスとエウリディケの伝説に倣って、その恋は最後は悲恋に終わるという…そういう言い伝え」
―ぼくも、その窓で、アレクセイと会ったんだ。彼が窓から地上をのぞいたときに、彼の目がぼくの姿を捉えたんだ。
「それで、二人は…恋に落ちた と?」
レオニードが胸に顔を埋めていたユリウスの顎をクイと持ち上げ、その碧の瞳を覗き込む。
「うん…。そうだね。…だけど、伝説の最後の、悲恋に終わる というのは、ただの迷信だった」
「お前たちの恋は…悲恋ではなかったと?」
レオニードの問いに、ユリウスは夫の顔をしっかりと見つめながら力強く頷いた。
「確かにぼくらの恋は…成就しなかった。だけど…成就しない恋が悲恋とは…限らないんだ。アレクセイは、少女の頃のぼくを大きな愛で包んでくれた。そして彼の愛を受けて、ぼくは愛というものを知った。…何より、アレクセイを追いかけてロシアへ来たお陰で、あなたと出会えた。アレクセイも色々回り道をしたけれど、今はかけがえのないパートナーと愛に満ちた人生を歩んでいる。…だから、ぼくたちのあの恋は、けっして悲恋なんかじゃなかったんだ」
そう言い切った妻の顔は、神々しい程の輝きを放ち、穏やかなオーラに満ち溢れていた。
そんな妻に魅せられたレオニードは、まるで女神を崇拝するかのように、恭しいキスを彼女の額に捧げた。
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~~おまけ その1~~
「ねえ、レオニード!こっちはどうかな?」
寝室に据え付けられた小さめのクロゼットに、今度の一カ月検診に着ていく服(の候補)がズラリと並べてかけられている。
ユリウスが北欧テキスタイルのAラインワンピースを当てて見せる。
フゥ・・・・。
そんな妻にレオニードがため息交じりの笑顔を向ける。
「ああ…よく似合っている」
「もう!ちゃんと見て!!」
― ねえ、これは?
今度はカッティングが少し個性的な黒のシルクジャージーのバルーンワンピースを当てて見せる。
「いいな」
「もう!!真面目に答えて!」
ワンピースを胸に当てたユリウスがプウと頬を膨らませて上目遣いにレオニードを睨んで見せる。
そんな妻の表情に堪らなく愛らしさを感じながらも
「それよりも、ディアナが寝ている間に、お前も少しでも仮眠を取った方がよいのではないか?」
― 全く手のかかるお嬢さんだ。
まるで小さな女の子に話しかけるような優しい口調でそう言うと、妻の手から優しく洋服を掛けたハンガーを取り、クロゼットにかけると、そのままユリウスを横抱きにして、ベッドに寝かせ、自分もその横に潜り込んだ。
「まだ…服決まって…」
「明日だ。お嬢さん」
ユリウスが言いかけたその言葉をキスで遮ると、そのまま妻の身体を抱き寄せてレオニードは瞼を閉じた。程なくレオニードの深く安定した寝息が聞こえてくる。その深い呼吸のリズムとゆっくりと上下する胸に手を当てながら、ユリウスもいつの間にか束の間の眠りに落ちて行った。
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~~おまけ その2 ~~
「ロストフスキー」
ロッカールームに入って来たレオニードが、ロストフスキーの顔を見るなり苦虫を噛み潰したような顔になる。
「…大体あのプレイルームは場所が極めて分かりにくい上に、案内も殆ど見当たらない!入退院の受付会計所の側よりも母親がよく利用する小児科や産科の近くに設置するべきじゃないのか?」
何があったのかはロストフスキーには分からないが、どうやらロストフスキーの実家の経営している、そしてこの目の前の上司にして幼馴染の細君も先頃お産で利用していた総合病院の施設が不案内であったようである。
「…だから兄上殿に、もっと分かりやすい案内を表示すべきだと伝えてほしいのだ。それと、産科や小児科こそプレイルームを設置すべきである と」
ー 産科はともかく、確か小児科近くにもプレイルームはあった気が…。ていうか、何があったんだ?
「ロストフスキー!聞いているのか?!」
「は!すみません。…兄に伝えておきます。貴重なご意見、ありがとうございます」
「そうであろう?サンクトペテルブルク記念総合病院は、実にいい病院だ。しかし、それに慢心せず謙虚に利用者の声に耳を傾ける事が大切だぞ」
一頻り憤懣をロストフスキーにぶつけたレオニードは上機嫌でロッカールームを後にした。
・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。
「なんかさ、今日リョーニャから会うなりウチの病院の不満をぶつけられたんだけど、ナースチャ、ユリウスから何があったか聞いてない?」
その日の晩ー。
ロストフスキーのアパートで二人並んでキッチンに立ち、夕食の支度をしながら今朝の話を切り出した。
「ああ。プレイルームのことかな?」
レタスをちぎりながらアナスタシアが答える。
「そう!知ってる?」
「あれね。先週末ユリウス一家が一ヶ月検診に行ってね、ホラ、生まれた日が1日違いじゃない?だからあっちで同じく一ヶ月検診のミハイロフ一家に会ったんですって。でね、その時にアレクセイがプレイルームの場所を教えてあげたみたいで、そこがとても楽しかったらしくてね。ユリウスもあの病院は産科と小児科ぐらいしかお世話になった事ないから、そのプレイルームの存在を初めて知ったらしくてね、「小児科の所に小さなプレイルームがあるのは知ってたけど、あんな所にもあったなんて知らなかった〜」って言ってたわ」
ー あ〜。要するに、自分の知らない事を、事もあろうに愛妻の元カレに教えられたのが、気に入らなかったのか。
ロストフスキーが漸くレオニードの憤懣やる方なさの真相を理解する。
「何?そんなニヤニヤして」
そんなロストフスキーの顔を訝しげにアナスタシアが見上げる。
「いや、こっちのハナシ。でも、一番の利用者であるお母さんが存在を知らないというのは…ちょっと改善の余地ありだね」
ー あ、お湯沸いた。ナースチャ、タイマーかけて。6分半。
「そうかもね。…ん。オッケー」
鍋に沸騰した湯にロストフスキーが2人分のパスタを沈めた。