虹の彼方に
いよいよユリウスのお産が佳境に差し掛かった。
荒い息遣いと時折うめき声を挙げて産みの痛みに耐えているユリウスにかける言葉もなくレオニードはレバーを握るユリウスの手を握ってやることしか出来ない。
ふとユリウスとレオニードの目が合う。
レオニードの顔に浮かんだ戸惑いと、そしてほんの僅かの恐れをユリウスは苦痛の中でも見逃さなかった。
「…レオニード…、はずかしいから…おねがい…、あっちで…まってて…」
苦痛に喘ぎながら、ユリウスがレオニードに産室の衝立の向こうのソファを指さした。
「だが…」
「おねがい…」
― うまれたら…すぐ、きて。…ね?
「わかった…」
ユリウスの懇願をのむと、レオニードは分娩台の上の妻の顔を優しく撫でた。
ユリウスが小さく頷き、目だけで微かに微笑んだ。
産室の、衝立に隔てられた小さなスペースで、レオニードは精神的に消耗する長い待ちの時間を過ごす。
衝立の向こう側では今まさに妻が、引き返すことの出来ない命がけの大仕事に挑んでいる。助産師や看護師のユリウスを励ます声、荒い息遣い、時折聞こえる痛みに耐えるうめき声…緊迫した空気が衝立越しにひしひしと伝わってくる。
ユリウスの苦しそうな声が聞こえる度に、レオニードの腰がソファから僅かに浮き上がる。
― 待つのが…ただ待つのが、こんなに苦しいとは…。ああ、頼む。どうか無事に乗り切ってくれ…。
それからどれぐらいそんな時を過ごしたのだろう…。
時間の感覚がすっかり鈍って来て、ただ一心に衝立を凝視していたレオニードの耳に、元気な産声が飛び込んできた。
その声に弾かれたように、レオニードが衝立から飛び出す。
「ユリウス!」
分娩台に歩み寄ったレオニードに、ユリウスがうっすらと微笑む。
「レオニード…。おまたせ…」
「無事で…無事で…本当によかった」
ユリウスの手を握りしめてそう言ったレオニードの声が微かに涙声になる。
「おめでとうございます。お父様。元気なお嬢様でしたよ。ほ~ら、パーパですよ~」
助産師がタオルに包まれた子供を抱きあげ、レオニードに差し出してみせた。
その小さな娘の顔をそっと覗き込む。
「小さくて…しわしわだな」
助産師の腕の中の赤ん坊に呟いたレオニードの姿をユリウスは満足げに眺めていた。
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一方隣室のアルラウネとアレクセイ。
「アルラウネ!頑張れ!!大丈夫だ!俺がついてるぞ」
やはり一人目の分娩が始まって苦痛に喘ぐアルラウネの手をギュッと握りしめたアレクセイが激を飛ばす。
「…いたい…」
「そりゃ当然だ。耐えろ!」
「…そうじゃなくて…手…そんなに強く握らないで…」
「あ?え?あ、悪かった!これでいいか?」
強く握り過ぎた手を少し緩めると、アルラウネは少し微笑んで小さく首を縦に振った。
― ふぎゃ~~
やがて第一子がアルラウネの胎内からこの世に生まれ出た。
「よし!!」
生まれた子供の産声と夫の歓喜の絶叫が産室に響き渡る。
「元気なお嬢さんですよ」
小さいながらも元気の良い産声を上げている赤ん坊が、助産師からアルラウネに手渡される。
「小さくて…可愛い。わたしの…わたしたちの赤ちゃん…」
「そうだ…。おれたちの…三人の子供だ」
生まれたばかりの子供を胸に抱いたアルラウネの手に、アレクセイ大きな手がそっと重ねられた。
一人目が生まれると次の子供まで陣痛の波が引いて行き、束の間の息抜きの時間が訪れた。
「だいじょうぶか?」
手を握り、優しく問いかけたアレクセイにアルラウネがこくりと頷く。
「今はちょっと痛みの波が引いてる…」
「少し寝るか?」
「ねえ…なんか歌って?」
妻の思いがけないリクエストに、「え?俺が、か?」と少し戸惑いながらも、アレクセイが
「じゃあ…」とばかりに、すこし掠れた甘いバリトンで囁くように歌い出した。
Somewhere over the rainbow
Way up high,
There's a land that I heard of
Once in a lullaby.
Somewhere over the rainbow
Skies are blue,
And the dreams that you dare to dream
Really do come true.
虹の向こうのどこか、
空高くに、
昔 子守歌で聞いた場所があるの。
虹の向こうのどこかでは
空は青くて、
強く信じた夢は本当に現実のものとなるのよ。
(「虹の彼方に」 ~映画「オズの魔法使い」より)
耳元で囁くようなアレクセイの甘い歌声に、アルラウネは大仕事の合間の束の間の微睡みに誘われた。
その束の間の休息を挟み、再び気力を立て直したアルラウネは、その二時間後にもう二人目を無事出産した。
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~~おまけ 妹嬢とその両親~~
母親のベッドの隣に置かれた小さなベッドで眠る生まれたばかりの娘をユリウスとレオニードが覗き込む。
「なんか…この子…ビミョウ。。。」
「一体何がだ」
「何って…その…」
「容姿か?― まあ、正直、お前似ではないな。だが、この子は生まれたばかりの頃のヴェーラにそっくりだぞ?」
「ホントに?」
レオニードのその言葉に、希望を見出したようにユリウスの顔が輝く。
「ああ。そうだ。何なら、父上にも聞いてみるといい。私と同じことを言うだろう」
「あぁ…よかったぁ。将来ヴェーラみたいに成長するんだったら…安心したよ。…やっぱり、その…ちょっと母親として心配してたんだ」
少し気まずそうにユリウスが傍らの娘とレオニードを交互に見ながら弁解する。
「全く…何を言い出すやら。こんなに元気で、髪も黒々とふさふさしていて…それに瞳はお前と同じ綺麗なブルーアイだったではないか。この子は絶対将来絶世の美人になる。それはこの私が保証する」
レオニードの力強いお墨付きをもらい、ユリウスも心の底から嬉しそうに「うん、うん」と頷いた。