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Por una cabesa

~~プロローグ~~

 

 

「…ユリウス?」

 

その女が四人の前に立ち止まると、聞き取りにくい小さな声でユリウスの名前を呼んだ。

下を向いて少しもつれた長い髪が顔に掛かり、顔が良く見えない。

ワンピースにカーディガンを羽織った姿で、ワンピースから出ている足は病的なほど細い。

伏せた顔の下の襟ぐりから見えるデコルテも、カサカサとやや皴っぽく骨ばっているのが分かる。

 

「はい?」

 

見知らぬ女に名前を呼ばれたユリウスが少し訝しげに首をかしげて、返事をした。

 

「…この淫売…疫病神…」

女は下を向いたままブツブツと呟いている。

 

その呟き声を拾ったアナスタシアが、「ちょっと…!あなた?一体何なんですか?」と声を荒げる。

 

そんなアナスタシアの声には全く反応すらせずに、その女はカーディガンの中に隠していた右手を出すと、その右手に握っていたものを両手で握り直し、

 

「死ね」

 

と一言言い放ち、ユリウスに向かって突進してきた。

 

~~Act.1~~

 

 

「アデールさん、おめでとう!」

 

「ありがとう」

 

アデールの再婚が決まった。相手はユスーポフ家とも懇意にしていて、ユリウスもロシアの父母と慕っているバシキロフ夫妻の息子、ニコライだった。

仕事の都合でパリに暮らすニコライについて、結婚後はパリで暮らすという。

 

今日は結婚が決まった彼女を囲んで、三人、アントニーナとアナスタシア、そしてユリウスは、市街のホテルにあるイタリアンレストランでランチに集っていた。

 

「わたくし、実は先輩にはレオニードさんはあまり合っていないんじゃないかと思ってましたのよ。どうせずっとお互いマウンティングし合っていたのでしょう?その点ニコライさんなら、家柄、財産、お仕事、ルックス、何一つ非の打ち所がない申し分ない殿方でありながらも、性格も穏やかで包容力もあって…。きっと先輩の全て、― そのめんどくさい性格も含めてね、優しく包み込んでくれますよ」

 

「あなた…人が黙って聞いてれば…。耳の痛いことをズケズケと…」

 

思わず祝福?されたアデールの顔がムッとなる。

 

「そうだよ!アントニーナ‼…今の言い方じゃあレオニードに、まるで包容力がないみたいな言い方じゃない!」

 

ユリウスが変な所にアンテナをひっかけて、アントニーナに抗議する。

 

ユリウスとアントニーナ、天然ツートップが場をカオスにする前に、アナスタシアが収束に入る。

 

「ブライズメイド、ユリウスと誠心誠意つとめさせていただきますね。挙式後は、あちら…パリで暮らすのですよね?」

 

「ええ。彼の仕事に合わせて。あちらでもお披露目の小さなパーティを開く予定よ」

 

「バシキロフのおば様もとても喜んでたよ。いっつもぼくやアナスタシアと顔を合わすたびに、「ニコライが未だに独身でいる」ってこぼしていたもの。「やっと私にも娘が出来た」って」

 

「そう…。そんなに喜んでくれると…私も嬉しい。これから娘として…親孝行しなくっちゃ」

 

アデールのその言葉にアントニーナが心底驚いたように、菫色の目を瞠る。

 

「…まさか先輩から…そんな殊勝な言葉を聞く日が来るなんて…」

 

「あなた…ホントいちいち腹立つわね…。でも、仕方ないわ。今までそんな生き方をしていたのは、他ならないこのわたくしだから…。ユリウス、あなたの存在が…わたくしを変えたのよ。あなたに初めて会ったあの時に、わたくしは人として、女性としていかに内面が未熟であったか…思い知らされた。そこからわたくしの目に映る世界は全く変わったと言っていいかもしれない。ありがとう。あなたに会えたから、今のわたくしがある。あなた達夫妻をお手本に…わたくしも、今度こそニコライと幸せな家庭を築くわ」

 

アデールが、この年若の前夫の妻に感謝を込めて微笑みかけた。

 

艶やかな笑みを向けられたユリウスが面映ゆそうに微笑みかえす。

 

「でも折角仲良くなったのに、パリに行ってしまうのは…寂しいなあ」

 

ユリウスが盛大に溜息をつく。

 

「パリへも遊びに来て」

 

「パリ、いいところよねー。昔留学してたんだけど、毎日刺激的で楽しかったわあ」

 

アントニーナがパリ留学時代を振り返ってウットリとした表情になる。

 

「そういえば、あなた…パリのコルドンブルーに通ってたのよね。…あなたとお料理程ミスマッチな取り合わせって、ないわね」

 

「ま!失礼ね‼これでもちゃんと卒業したのよ」

 

アントニーナが形の整った鼻をツンと聳やかす。

 

「でも、姉さんの手料理って食べたことないわ」

 

「アントニーナの家のキッチン、食材何もないしね」

 

二人がアントニーナに茶々を入れる。

 

「ふん。いいんですよーだ」

 

女子四人のテーブルに笑いが起こった。

 

そしてー

 

その様子を一人の女性が、少し離れた場所から眺めていた。

 

「そういえば、可愛い子ちゃん。あれから嫌がらせはどうなった?」

 

「うん…」

 

ドルチェをつつきながらユリウスが言葉を濁す。

 

「あら?どうしたの?」

 

「実は…、最近私たちのデュオのホームページやSNSにね、ユリウス宛の大量の嫌がらせメールやらメッセージが来るようになって…。ホームページは、セキュリティを強化したんだけど、SNSの方は、しばらく閉鎖しようかって…ね?」

 

「うん…」

 

「そうだったの…。わたくしの親戚が警察のサイバー犯罪の部署の上層部にいるから、エスカレートするようだったら、いつでも連絡して頂戴?すぐに紹介するから」

 

「ありがと…」

 

4人がドルチェの後のエスプレッソを飲み干す。

 

「楽しかった…。式の前に、また会えるかしら?」

 

「アデールさんが望むならいつでも」

 

ー ね?

 

三人が笑顔で目配せし合う。

 

「さ、出ましょうか?」

 

4人がコースを終えてテーブルを離れた時だった。

 

先ほどから4人の様子を伺っていた女が、早足で近づいて来た。

 

 

 

その見知らぬ女は、懐からナイフを取り出して両手に掴むと、ふらふらとユリウス目掛けて向かって来た。

 

女の動作はふらふらと酷く緩慢だったが、その光る物体を手に自分に向かって来たその人物の目の奥に燃える憎悪に、一瞬身体を縛られたユリウスの反応が僅かに遅れた。

その女のナイフを交わし切れず、僅かに右腕の皮一枚を銀色に光る刃先がかすめた。

 

「つっ!」

 

「キャーーーーー!」

 

ユリウスのその小さな声に、はっと我に返った後の三人が、喉の奥に張り付いた悲鳴を絞り出す。

 

その悲鳴に周りにいた男性客、ウエイターらが飛んできてその女を羽交い絞めにし、手にしていたナイフを叩き落とす。

 

「警察を!」

 

急いで出て来たマネージャーが、店の人間に通報するように命じた。

 

複数の男性に羽交い絞めにされていたその女は…、暫く放心したように力なく中空を見つめていたが、彷徨っていた視線がユリウスの― 腕から滴る赤い血を捉えた途端に、触れたように甲高い掠れた叫び声を上げた。

 

その異様な叫び声に―、その場にいた人間全てに戦慄が走る。

 

やがて店員が通報した警察と、救急車が到着した。

 

「ユリウス?大丈夫??」

 

三人が腕を押さえているユリウスを囲む。

 

「だ…だいじょうぶ…だよ。。。傷は…皮膚をかすっただけ…みたい。あ…あれ?」

駆け寄った救急隊の方へ歩み寄ろうとしたユリウスだったが、足がガクガクと震えて、その場にへたり込んでしまった。

 

「大丈夫。そのまま。動かないで」

 

救急隊の人間が担架にユリウスを乗せる。

 

「…あ…」

 

緊張感と興奮がほどけた安堵からか、そこからユリウスは気を失ってしまった。

 

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

~~Act.2~~

 

 

「ユリウス!」

ユリウスが搬送された病院に、連絡を受けたレオニードとロストフスキーが駆けつけて来た。

 

病室の廊下のベンチに、その現場に居合わせたアントニーナ、アナスタシア、そしてアデールが蒼ざめた顔で座っている。

 

やはり知らせを受けたのか、ミハイルと、間もなくアデールの義母となるオリガ夫人も駆けつけていた。

 

「ユリウスは?」

 

レオニードが外の面々に訊ねる。

 

「中で…横になってる。傷は皮をかすめただけの…ごくごく軽症なようだ。縫合する必要もなかったらしい。だけど、ショックが大きくて…先ほどまで鎮静剤を処方されて眠っていたが…」

 

ミハイルがレオニードにユリウスの様子を説明する。

 

「そうか…。ありがとうございます」

 

レオニードはその場にいた人間に深々と頭を下げると、病室へと入って行った。

 

 

「ナースチャ…大丈夫?」

 

レオニードと共に駆けつけたロストフスキーが、恋人を気遣って両手をそっと握りしめる。

 

「うん…私は大丈夫」

 

心配かけまいと殊勝な返事を返したものの、アナスタシアの両手もまた― 冷たかった。

 

傍らではミハイルがアントニーナを、そしてオリガ夫人がアデールの肩を抱いて優しく宥めている。

 

暫くすると病院へ警察が事情聴取にやって来た。

 

警察の質問に、蒼ざめた顔で三人が答える。

 

その三人の傍らには、彼女たちの大事な人がずっと寄り添って手を握りしめていた。

 

 

「…具合は、どうだ?」

 

病室に入ると、ユリウスは既に目を覚ましていた。

 

血の気のない白い顔と、腕に巻かれた白い包帯が痛々しい。

 

「…もう…大丈夫だよ。傷は軽症だし。…心配かけてごめんね」

 

起き上がろうとするユリウスを優しく制する。

 

「まだ寝てろ」

 

レオニードの優しい手がユリウスの身体に触れた瞬間、ユリウスの両の碧の瞳から涙が溢れてきた。

 

涙をポロポロ流すユリウスの髪を、頬をレオニードが優しく撫でる。

 

そのレオニードの手を握りしめてユリウスが涙を流しながら少し掠れた声で

 

「怖かった…」

 

とその時の恐怖を夫に訴えた。

 

「もう大丈夫だ」

 

レオニードはベッドの端に腰かけると、涙を流して恐怖を訴える妻の上半身を守ってやるように優しく覆いかぶさり、彼女が落ち着くまで髪を撫で続けた。

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。
 

 

ユリウスが漸く落ち着きを取り戻したころ、警察での事情聴取を済ませて来た加害者エリナ・ミハイロヴァの家族ー、夫アレクセイと義姉のアルラウネが病室に現れた。

 

病室のベッドに横たわったユリウスの姿を見たアレクセイの顔色が変わる。

 

「そんな…なぜ…こんな馬鹿な…」

 

酷く取り乱し、とりとめのない言葉がアレクセイの口を突いて出る。

 

その言葉を聞いたレオニードが屹とアレクセイを睨みつける。

 

「なぜ…だと?…馬鹿な…だと?…それはこちらのセリフだ。なぜ私の妻が、なぜ面識もない貴殿の奥方に、ナイフで刺傷させられなければならない?…聞きたいのは私の方だ!」

 

レオニードの怒声が病室に響き渡る。

 

「本当に…申し訳ございませんでした」

 

アレクセイと一緒にやって来たアルラウネがその怒声に腰を深く折り曲げて謝罪する。

 

アルラウネの謝罪に我に返ったようにアレクセイも深々と腰を折る。

 

「まことにそちら様の仰る通りでございます。すべては…私共の不徳の致すところでございます。奥様の御身を傷つけてしまい、本当にお詫びの言葉もございません」

 

アルラウネの丁重な謝罪に、激昂していたレオニードも冷静さを取り戻す。

 

頭を深々と下げたアレクセイとアルラウネの姿を見たユリウスが、弱弱しい声でレオニードに懇願する。

 

「頭を上げて下さい。…ぼくはだいじょうぶだから。…レオニード、お願い。…アレクセイと…ちょっと二人で話をさせて?」

 

「しかし…」

 

その妻の懇願に渋るレオニードに尚も

 

「お願い…」と懇願するユリウスにレオニードも折れる。

 

「分かった…」

 

レオニードとアルラウネが病室を出て行った。

 

病室に、かつての恋人たちが残される。

 

 

「アレクセイ…」

 

ベッドの傍らに置かれたスツールに腰かけ、頭を抱えて項垂れるアレクセイに、ユリウスが呼びかける。

 

「アレクセイ…ごめんなさい。…ぼくが…あなたを追ってロシアへやって来たために…あなたをこんなに苦しめてしまった…。あなたを…苦しめたくなんかなかった…。大好きな…今でも大切なあなたには…幸せになって欲しかったのに…、なのにぼくは…あなたをこんなに苦しめている」

 

かつての恋人の静かな声を、アレクセイは項垂れたまま聞く。

 

「…お前は…悪くない。…悪いのは…全て俺だ」

 

絞り出すように答えたアレクセイのその言葉に、ユリウスの両目から再び涙がこぼれる。

 

ベッドに横たわったまま、天井を見つめ、両手で顔を押さえる。

押さえた両手の間から涙が幾筋も流れる。

 

「アレクセイ…ごめんなさい」

 

懸命にこみ上げてくる嗚咽を堪えながら、再びユリウスが呟く。

 

「…俺に…謝るな」

― 俺は…大馬鹿野郎だ…。一番幸せになって欲しかった…お前を…傷つけて…。世界一の大馬鹿者だ。本当に…済まなかった。

 

そう言うとアレクセイはベッドに横たわったユリウスに深々と頭を下げると、そっと病室を後にした。

 

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~~chapter:Act.3~~

 

 

ー 死ね!

 

暗闇の中に、あの時の、エリナの憎悪に満ちた悲しい目が大きく浮かび上がる。

 

地の底から響くようなその呪詛の響きにユリウスは耳を塞ぎ蹲る。

 

そんなユリウスに尚も畳み掛けるように繰り返される呪詛の言葉ー

 

ーー疫病神…死ね…死ね…

 

「わあああぁ!」

 

そこでユリウスは夢から醒めた。

 

目覚めても尚、耳に残る呪詛の言葉と、脳裡に刻まれた憎悪に満ちた目ー。

 

ユリウスはその悪夢に慄き、細い肩を震わせ、自らの肩を両手でかき抱く。

収まらない動悸に肩で荒い息をする。

 

「大丈夫か?」

 

傍らのレオニードが妻のうなされた様子に目を覚まし、隣で震えているユリウスを抱きしめ、背中を優しく撫でる。

 

レオニードの身体に包まれたユリウスの震えと動悸が徐々に収まって来るのが分かる。

 

「レオニード…」

 

夫に抱きしめられたユリウスは、ただただ夫の名前を呼ぶことしか出来ず、細い身体をレオニードに委ねてポロポロ涙を流す。

 

「もう大丈夫だ…。落ち着いたか?…何か飲むものを持って来てやろう」

 

ユリウスを抱きしめていた両手を弛めたレオニードに、ユリウスがイヤイヤと首を横に激しく振って縋り付く。

 

そんなユリウスを再び優しく抱きしめると、レオニードは彼女を抱きしめたまま再びベッドに横になった。

 

「分かった。では、朝が来るまで二人でこうしていよう。眠るのが怖いのならば、眠らなくてもよい。私がここで、こうしてついていてやるから。怖いことなど、何もないぞ?」

 

そう言って、レオニードは小さな子供をあやすように、腕の中にユリウスをかき抱きながら、大きな手でゆっくりと彼女の背を優しく叩き続けた。

 

レオニードに抱かれて間近に感じる彼の鼓動と懐の暖かさ、それに優しく背中を叩く手の感触に安堵したのか、間もなく懐に抱き抱えたユリウスから、安らかな寝息が聞こえて来た。

 

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「もしもし…。姉さん?」

 

深夜にアナスタシアから電話がかかって来た。

 

「どうしたの?」

 

「…こんな深夜に…ごめんなさい。ちょっと…眠れなくて」

 

「いいわ。…私も実は一緒。眠れなくて、さっきベッドを出たところよ」

 

「ユリウス…大丈夫かしら」

 

「どうかしら…。でもあの子には、レオニードさんがついているから」

 

「そうね…」

 

「私たちも、眠れないけど…せめて横になりましょ?…こんな夜ふかし、美容に悪いわ」

 

「それもそうね。おやすみ、姉さん。ありがとう…ごめんね」

 

「おやすみ」

 

アントニーナが通話を切った。

 

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~~Act.4~~

 

この、ロシアを代表する名家の御曹司二人を巻き込んだ事件は、あっという間に世間に面白おかしく語られ広がって行った。

 

連日ミハイロフの代表―、アレクセイとアルラウネが世間を騒がせたことへの謝罪会見が、ニュースショーや動画配信サイトで流れ、タブロイド紙は、ロシアきっての名家の御曹司を翻弄したファム・ファタールとしてユリウスを仕立て上げ、そのファム・ファタールを巡る痴情のもつれは、スキャンダルとなってマスコミを連日にぎわせた。

 

加害者の―、エリナ・ミハイロヴァは取り調べの結果、鬱と、薬物依存、そしてアルコール依存の症状が認められ、被害者側―つまりユリウスの起訴取り下げ要求もあり、不起訴となったが、その後世間の目から逃げるように、療養とリハビリのために海外のリハビリ施設へ入所した。

その後間もなく、アレクセイとエリナは結婚生活にピリオドを打った。

 

世間を騒がせたミハイロフの株価は下がり、アルラウネとアレクセイは連日謝罪に奔走された。

 

若奥様の心の病に気付くことができなかったミハイロフ家の執事は―、責任を負って辞職を申し出た。

(それは御大とアレクセイ、アルラウネの引き留めによって結局受け入れられなかったが)

ミハイロフ家の御大、ヴァシリーサは心労で持病の高血圧が悪化し、暫く床に伏せた。

 

ユリウスと懇意にしていた上流階級の知人の圧力により、間もなくこのスキャンダルは収束したが、この事件が残した爪痕は後々まで関わった人間の心になかなか癒えない傷を残した。

 

「ねえ…晴れがましいあなたの結婚式の場に…ぼくは相応しくないから…申し訳ないけど、今回はお式への出席を遠慮させてもらうよ」

 

後日ユリウスがアデール宅を訪問し、ブライズメイドと式への出席を辞した。

 

「そんな…。ユリウス、わたくしはあなたに、是非あなたにわたくしの新しい門出を祝ってほしいのよ。…お願いだから…そんなことを言わないで頂戴?」

 

「でも…」

 

「勿論…あなたが…今回の事で人の大ぜい集まるところに出たくないというのならば…仕方がないけれども。…でも遠慮だったりわたくしや…世間に気を使ってそんなことを言っているのだったら…それはやめて頂戴」

― ね?わたくしの式に出て、ブライズメイドを務めて頂戴。…お願いよ。

 

アデールがユリウスの両肩を抱いて伏せられた彼女の顔を覗き込む。

 

そんなアデールの心からの優しさに、ユリウスが涙ぐんで首を縦に振った。

 

「ありがとう」

 

アデールがユリウスを抱きしめた。

 

 

 

 

ちょうどアデールの結婚式が終わり、フランスへ旅立ったその時期と同じくして、アレクセイ・ミハイロフは、南米出向が決まり、彼もまたロシアを後にした。そしてその後実に3年もの間ロシアを離れる事となる。

 

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~~Act.5~~

 

アルラウネのデスクの内線が鳴る。

 

「はい?」

 

「副社長に…お客様です」

 

「どなた?」

 

秘書が少しの間の後に答える。

 

「…ユスーポフ様です」

 

「‼…お通しして頂戴。それからお茶を」

 

「畏まりました」

 

暫くして、秘書がレオニードを伴ってやって来た。

 

「どうぞ」

 

応接スペースのソファをレオニードに勧める。

 

「今日は突然の訪問を、お許しください」

 

レオニードが先ずは突然の来訪を丁重に詫びた。

 

「いえ…」

 

レオニードに着席を勧め、自分も向かいに腰掛ける。

 

 

 

「先般は…本当に申し訳ござませんでした」

 

被害者の伴侶に再びアルラウネが頭を下げる。

 

「いえ。そちら様からはもう過分なぐらいの謝罪を賜りましたので、もうそれはお構いなく」

 

レオニードがアルラウネの謝罪を丁寧に辞する。

 

「あの…ユリウスは?」

 

「妻は、ケガもごく軽症でしたし、もう傷も消えております。…ショックもカウンセリングなどを受けて、徐々に薄らいでいるようです」

 

レオニードから告げられたユリウスの近況に、アルラウネが胸をなで下ろす。

 

「よかった…」

 

「そちらの方こそ…義弟さんの奥様の方が、大変なのでは?」

 

逆にレオニードに、今回の加害者でもあるエリナの具合を気遣われる。

 

「彼女は…外国へ、スイスのリハビリ施設へ入所しました。それから…義弟との離婚も先日成立致しました」

 

「そうですか…。ミハイロフ家の皆様方の、ご心痛お察し申し上げます」

 

「いえ。こちらこそ、被害者である貴方様方夫婦をスキャンダルの渦中に残したまま、加害者側の二人が海外へ逃げ出したような形になり、心苦しく思っております」

 

「私たちは大丈夫です。義弟さんは…南米支社へと転任になったと…」

 

「ええ。暫くあちらで頭を冷やしてもらいます。あちらも中々状況はハードですから、あっちで揉まれて、彼も少しはシャキッとするでしょう」

 

「そうですか…」

 

「ええ」

 

暫く二人の間を沈黙が包む。

 

「で、今日は?」

 

アルラウネの方から今日の来訪の目的を尋ねる。

 

「そうでした。…今日お訪ねしたのは、他でもない、ユリウスの事です。貴女とユリウスは、以前から仲良くお付き合いをされていたようで…、その、事件以後、貴女との交流がなくなってしまった事を、ひどく妻が寂しがっておりましてね。ご多忙なのは重々承知ではありますが、どうか…もしこの度の事件で気がねをされているのでしたら、もうその事は…妻も、勿論私ももう気にしておりませんので、以前通り妻とお付き合い頂けないでしょうか?…妻は、ご存知の通り外国人です。勿論ロシアでの友人知人も多くおりますし、仲良くやっているようですが、同じ国の出身の貴女には、やはり特別な思いを持っていたようですので」

 

そう言うとレオニード・ユスーポフはアルラウネに向かって、丁重に頭を下げた。

 

 

「頭を上げて下さい」

 

レオニードが顔を上げたのを確認してアルラウネがゆっくりと言葉を紡ぎ出す。

 

「加害者側である私に、過ぎたお心遣いを頂き、ありがたくも心苦しい限りです。寛大なお心に感謝の言葉もありません…」

 

尚もアルラウネは続ける。

 

「エリナね…」

 

ー 彼女、なんでユリウスの事を知ったと思いますか?…実は、エリナが調査会社を使って、義弟の浮気調査をしていたのは、知っていたのです。幸い懇意にしている会社でしたので、義妹の調査は手を回して打ち切らせました。事実、アレクセイは不貞行為は一切働いていなかった。…だけど、不貞行為を働いていないからといって…それがパートナーに誠実に向き合っているかというのは…また違う話です。アレクセイは…失礼な話ですが、自分が結婚した後も、そして、ユリウスがあなたと結婚した後も、ずっと心は彼女に囚われ続けていた。これが…不貞と言わずに何と言いましょうか?それで最初の話に戻りますが、エリナがアレクセイの本当の心を知ったのは…アレクセイが偶然忘れて行ったスマホを見てだったのです。直前まで見ていたのでしょう。ロックはかかっていなかったようで、それで…エリナは誘惑に抗えず、夫の通話とメールの着信履歴を見たそうです。エリナの予測に反して、着信記録には浮気を確定するようなものはなかった。それはそうです。…アレクセイは不貞行為は一切行ってはいなかったのだから…。それで一旦はエリナも納得してスマホを元あったテーブルに戻したそうです。だけど…」

 

「だけど?」

 

「どうにも腑に落ちなくて、今度はインターネットの履歴を確かめたそうです。インターネットのアイコンを開くと、直前まで見ていたページが出てきたそうです。…それは、あなたの奥様の、ユリウスのインスタグラムだった。それでエリナは…全てを悟った。アレクセイの心が誰にあるかを…」

 

「そこまで分かると、あとは全てを知るのは実に容易かった…とエリナは言っていました。今どきSNSで個人の過去なんて…いくらだって辿れますものね。アレクセイは…SNSの類はやっていませんでした。だから…エリナはユリウスの側からアプローチしたようです。彼女のSNSを10年程遡ると…思った通り、今よりだいぶ若い学生時代のアレクセイと少女だったユリウスが仲睦まじげに一緒に写った写真が出て来たそうです」

 

「そうですか…」

 

「ひどいと言えば…私だって同じです。実は私もかなり早い段階から…ユリウスがアレクセイの元恋人だったという情報を掴んでいた。エリナの浮気調査を打ち切らせたとき…ちょっと気になって実家の父に…父はアレクセイがドイツ留学時代に後見人として度々彼の演奏会などを聴きに学校へ顔を出していたから…連絡をとって、アレクセイに当時付き合っていた女の子を紹介された事はなかったか…出来れば一緒に撮った写真など残っていないかと…訊ねてみたんです。父はおかしなことを聞くと思ったようですが、古いパソコンのデータなどを捜してくれて、見つかった画像を送ってくれました。アレクセイと父と一緒に写っていた金髪の美少女は…あなたの奥様でした。私はユリウスがなぜロシアへやって来たのかを何となく理解した。それと同時に、ユリウスという女性に…アレクセイとの実らなかった恋を乗り越え、あなたのような素敵な男性と結ばれた彼女に興味が湧いて来た。それでバシキロヴァ夫人のバースデーパーティに出席して、あなたの奥様に接触した・・・・。話してみるとユリウスは…美しい容姿だけではなく、中身も素晴らしく魅力的な女性だという事が分かって…私もまた彼女の魅力にすっかりやられてしまった。それで私達はすぐに仲良くなりました。ユリウスと会った日に…アレクセイと晩酌しながら彼女の話で盛り上がるのは…正直とても楽しかった。私とアレクセイは…ユリウスという魅力的な共通の話題を密かに共有していた。だけど…そんな私たちにエリナはもしかしたら、弱い追い詰められた人間独特の勘でそれを察知していたのかもしれない。心ならずも私たちに夫の昔の恋人の話題で疎外されていたエリナは…徐々に内面から壊れて…ユリウスを憎悪した。…だから、エリナを追い詰めたと言う点では…私もまた同罪なのです」

 

 

 

「ユリウスに…伝えて下さい。あなたの事は今でもとても大好きだけど…今私はあなたに会う事はできない と。とても残念ですが…やはり私もこの事件の一端に関わった者として…あなた様方の好意に甘えて、今まで通りユリウスと付き合い続ける訳にはいかないのです。世間を騒がせた手前、それでは社会に示しがつかなくなります。ユリウスがそう思っていてくれていたように、私もまた同じドイツ出身の彼女には特別な思いを抱いておりました。だから彼女に会えなくなるのは私としてもとても寂しい。ですが、これは私にとっても禊だということで、甘んじて受け入れようと思っております…。お気遣いは大変うれしく思いますが…それに甘えることは今の私には許されないのです」

思いのたけを全て吐き出すと、アルラウネは深々とレオニードに頭を下げた。

 

「禊ならば…いつか明ける時も来るでしょう。その時を…妻も…そして私も待っております。人は誰だって時には過ちを犯す。…私だってそうだ。…自分の思いやりのなさから前の妻との結婚生活を破たんさせた。反省することは大切ですが…いつまでも過ぎた過ちに囚われていたのでは…かけがえのない幸せを見落とすことになると私は思う。…だから、あなたも犯した過ちに囚われ過ぎることのなきよう、私は祈っております。…禊が明けたら、遠慮せずに、また妻の元を訪れてやってください。…妻は遠くからあなたの幸せを祈りながら、いつまでも待っておりますので」

 

― では…。今日は突然の訪問の上に…こんなに長居をしてしまって、重ね重ねの失礼をお詫び申し上げます。それでは、失礼します。

 

頭を下げ続けるアルラウネに、レオニードは丁重に挨拶をすると、副社長室を後にした。

 

パタンと音を立てて閉まったドアに向かって、アルラウネはいつまでも頭を下げ続けていた。

やがて、ガラステーブルにアルラウネの涙がポタリと零れ落ちた。

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

~~番外編 アレクセイの未練~~

 

 

皮肉な偶然の巡り合わせで、ここサンクトペテルブルクで、まさかの元カノ(って、オレから終わらせたんだけどな)に再会した。

 

共通の知人のパーティで、婚約者と二人して出席していたあいつー ユリウスを見て、俺は我が目を思わず疑った。

 

別れてから数年振りに見たアイツは、まぁ、当時からめちゃくちゃ綺麗で可愛かったんだけど、当たり前だが随分大人っぽくなり、それに加えて、俺と付き合ってた頃からすると見違える程に女らしくなっていた。

 

何故?

何故別れた筈の、生木を引き裂く思いで別れたアイツが、ここサンクトペテルブルクにいる?

 

しかもあろうことか、俺以外のヤローの横で、にこやかに、幸せそうに笑ってるって!!

 

悪い冗談みたいな話だぜ!

全くよ…。

(しかもあいつの横にいた婚約者という男が、またルックス、財力、将来性、家柄…どこを取ってもケチのつけようのないイイ男と来た。…凹むぜ)

 

あいつの口から、なぜこんなシュールな(俺の立場からしたら、全くシュールで不条理としか言いようがない。手前勝手な事だがな)事態になってるのか、それについてどうしても彼女自身の口からききたくて、…恥ずかしながら化粧室付近でずっと張り込んで(オンナって、必ず化粧直しとかするだろう?)、なんとかあいつを捕まえて話をする事が出来たが、…何というか、あいつはもう新しい人生に向けて歩み出していて、サバサバとしたモンだった。…って言うか、オレの事は「過去の男」扱い?って言うか、「今までありがとうね」みたいな?…、つまり完全に吹っ切った感じで、寧ろ俺だけがあいつに未練タラタラで、焼け木杭に火がついてボーボー炎上している体たらくである。

 

書斎の鍵を閉めて、スマホで長い事意図的に見ないようにしていたあいつのインスタのアカウントを閲覧する。

 

そこには今朝の、パーティへ行くために身支度を整えたあいつの姿が自撮りされて載せられていた。

 

昔のボーイッシュさは微塵も感じられず、長い金髪を巻いて綺麗にメイクした彼女が今日のオレンジ色のドレス姿で映っていた。

 

昔の面影が微塵も感じられない彼女の近影に、「これは一体、本当にあの、オレの彼女だった、ユリウス・フォン・アーレンスマイヤなのか?」という気にすらなって来る。

 

すっかり綺麗に、女らしくなって昔の面影がなりを潜めて、何だかオレの知らない顔を見せていたあいつの写真にも凹まされたが、あいつの写真を撮影している場所がどうやら、婚約者の、レオニード・ユスーポフの邸宅らしいという事実が殊更に俺を凹ませた。

 

ー 婚約してるとは言ってたけど、まさかの同棲か‼

 

我ながら情けないがあまりのショックにおれはスマホから一旦目を離すと、引き出しからスキットルを取り出し、中のウォッカをぐいっと一口あおる。

 

ウォッカのきついアルコールがオレのグニャグニャになったハートに喝を入れる。

 

フーッ…。

 

一息ついた俺はそのまま、もうインスタを閉じてしまおうか、それとも続きを見ようか、心が千々に乱れて逡巡する。

何度か手をスマホに伸ばしては引っ込めを繰り返した挙句、俺は未練タラタラの自虐的な好奇心に抗えず、再び続きを閲覧し始めた。

 

 

― フゥ~~~~

 

悔しいけれどあの日―、ユリウスにまさかの再会を果たしたあの日から俺は、あいつの事ばかりが気になって仕方がない。

一人になると、…情けない話だが、ついついあいつのSNSを覗いて、日常生活を窺う毎日だ。

 

わりかしマメに更新されているようで、あいつの、日々の様子がSNS越しに見て取れる。

 

俺と別れてからのあいつは、まあ、結婚を控えたごく普通の20代半ばの年頃の女の子の日常…といった感じか。

 

ファッションや、スィーツ、音楽や、映画、友人、…それに、なるべく目をそらしてはいるが、恋人のことが、楽し気に写真と共に綴られている。

 

SNSを遡って分かった事だが、あいつがロシアへやって来たのは、どうやら大学を卒業してすぐの事だったらしい。

 

最初はアナスタシアの実家にいたようだ。

 

あいつの両親、ちょっとけたたましくて苦手だったアナスタシアの母親や気のいい父親、それから俺とは天敵のあの毒蛾のような派手な姉貴や飼い猫と一緒に写っている写真が結構多い。

 

この頃のあいつは俺と付き合っていた頃のボーイッシュな面影をやや残している。

 

時系列を追うごとに、あいつはどんどん女らしく美しくなっていき、俺はその花が開くような変貌ぶりに思わずディスプレイに魅入ってしまった。

 

どこかパーティへ行くのだろうか?肩ぐらいまで伸びた髪を綺麗に巻いてドレスでめかしたあいつとアナスタシアの姉ちゃんと二人で写った写真。

 

化粧っ気もなくほぼすっぴんで、髪をポニーテールに結い、タンクトップとカットオフジーンズ姿でアイロンをかけている写真(めちゃめちゃ可愛くてツボった)

 

こちらでも音楽の仕事をしているようで、ステージでアナスタシアと演奏している、ピアノを弾くドレス姿の横顔の写真。

 

見知らぬ少年とフットサルに興じているらしいスポーツウェアの写真。

(後で知ったが婚約者の弟らしい)

 

そして―

 

一面のひまわり畑と夏空をバックに振り向いた長い髪を靡かせて微笑んだあいつの息をのむように美しい一枚のフォト―。

 

アングルからこれはどうやら自撮りではないようだ。

 

そして―、誰が撮ったかを俺は一瞬で直観してしまった。

 

この息をのむような美しい写真を撮ったのは、彼女のこんな瞬間をとらえることができるのは―、あいつの今の恋人しかいない。

 

俺はその事に、今更ながら打ちのめされ、スマホのその画面を凝視し続けた。

 

喉の奥と胸に凝る苦く重い何かが吐き出されるように、俺の喉仏を震わせ、そして―、ディスプレイのあいつの美しい写真の上に、一粒の涙がぽたりと落ちた。

 

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。
 

 

[chapter:Act.6]

 

「お帰りなさい…。それから、一応、本社への復帰、おめでとう」

 

「ありがとう…」

 

「南米の支社の業績も申し分ないし、これならば貴方が以前のポストに戻る事に異論を唱える役員もいないでしょう。…よく、頑張ったわね。とてもいい顔になって戻って来たわ、貴方。逆境が…男の器を育てるというのは、本当なのね」

 

アルラウネが以前よりも精悍に引きしまった義弟の頰を優しく撫でた。

 

「…ひでぇな。以前のオレ、一体どんな顔してたよ?」

 

「…別れても未練たらたらの昔の恋人にのぼせ上がった顔」

 

「…当たってるだけに、何も言えねえぜ」

 

「でも帰って来た貴方の顔つきを見て、安心したわ」

 

「ああ…。すっかり目が醒めたよ」

 

「よかった…」

 

ー ところで…。

 

アルラウネの表情が引き締まる。

そして大きな黒い瞳でアレクセイを正面から見つめて切り出した。

 

「私、しばらく休職しようと思うの」

 

 

 

アルラウネの唐突なその宣言に、暫しアレクセイの思考が停止する。

 

「は?」

 

「だから、暫く休職するの」

 

アルラウネが先ほどの言葉を繰り返す。

 

「なっ…。身体でも…悪いのか?」

 

たった一人の兄を若くして失くしたこの目の前の義弟が表情を曇らせる。

アルラウネはそんな義弟を安心させるように、にっこり力強く微笑む。

 

「大丈夫よ。ストレス、体力共に日々限界値をとうに振り切ってるけど、お生憎様、極めてしぶとくできているようで、私は至極健康よ。…私ね、アレクセイ。妊活するの」

 

アルラウネの最後の一言に、アレクセイが聞き違いでもしたかのように呆けた顔を見せる。

 

「は?…今、ナント?」

 

「だから、二、ン、カ、ツ。私、お母さんになろうかと思って!」

 

 

「まさか…。でも…それは…、おめでとう。近いうちに…紹介してくれよ、義姉さんのパートナー」

 

動揺を懸命に抑えながら、やっとの事で言葉を継いだアレクセイに

 

「は?そんな人、いないわよ」

 

とにべもなく答える。

 

「へ?」

 

「だから、私には現在お付き合いしている人も、…これからそうなる予定の人もおりません!私の話、よく聞いてた?…私は妊活をするとは言ったけど、婚活をするとも、ましてや再婚するなんて、ひとっことも言ってないわ!」

 

アルラウネのにべもない返事にアレクセイはもう一度思考を巡らせる。満面の笑みで妊活宣言したアルラウネに、アレクセイは…後になって思い返すと自惚れた自分に顔から火が出る思いなのだが、ふと思いついたような顔になった瞬間、アルラウネから一歩も二歩も腰を引くと

 

「ま、待て!アルラウネ。…いくらなんでも、それはダメだ!いくら…あんたがミハイロフ家の血を引いた後継者を切望してたからって…そんなタネ馬みたいな事俺は…」

 

ドカっ!

 

そこまで言ったアレクセイに、アルラウネの右足がアレクセイの向こう脛にヒットした。

 

「…って〜〜〜」

 

「誰があんたのタネを頂戴するなんて言ったのよ。…だけど…あんたのそのぶっ飛んだ発想、なかなか笑えるわ〜〜」

 

向こう脛に蹴りを食らって脛を抑えながら目を白黒させているアレクセイを前に、アルラウネが腹を抱えて笑いだす。

 

「…なんだよ。冗談で言ったわけじゃねぇぞ」

 

そんな爆笑している目の前の義姉に少し不貞腐れたように言ったアレクセイに、アルラウネは

 

「ごめんごめん…あはは」

 

と謝りながらも笑いが止まらないようだ。

 

「…そんな、謎かけみたいな言い方やめて、ちゃんと説明してくれよ」

 

アレクセイの態度に、アルラウネも漸く笑うのをやめて、真面目な顔に戻る。

 

「そうね、ごめんなさい。…これを見て頂戴」

 

アルラウネが封筒に入った書類をアレクセイに差し出した。

 

封筒には見知らぬクリニックの名前が印刷されている。

 

「これは…」

 

「ドミートリイの…冷凍精子バンクの…契約書よ」

 

 

 

アルラウネから渡されたその書類に目を通す。

 

確かに見覚えのある亡き兄の筆跡で署名がされている。

 

「…最近ね。彼の遺品の整理を始めたの。彼の部屋を片付け始めたら、この書類が出てきて…。そして、そのタイミングで、貴方が本社復帰でロシアへ戻って来た。そして…もう私も決して若くはない。…これが、今が最初で最後のチャンスだと思った。実はね、早速…クリニックで…母体になる私の検査をして貰ったの。…不妊とは言えないけれど、長年の無理がたたったのかしらね…。妊娠に向けては決して易しい道のりではない、と言われたわ。それから…これから妊娠できる身体を作るのに…今のような激務はおすすめ出来ないって…。だから私はリスクを減らすために、仕事を休む事に決めた。二年。二年、私に時間を頂戴?二年やって…駄目だったら諦めるから」

 

アルラウネのその衝撃的な決意と計画をアレクセイは呆然と聞いていた。

 

母に、愛する人の子供の母になる ―。

その希望を手にしたアルラウネはキラキラと輝いていた。

 

彼女は本気だ。

 

きっと彼女は持ち前の、あの死に体のミハイロフを再建させた時のような不屈の意志と緻密な計画性で、母になるという宿願を成し遂げるのだろう。

 

「アレクセイ?」

 

思わず物思いに耽ったアレクセイに、アルラウネが呼びかける。

 

「やっぱり…駄目かしら?今、私が現場を離れるのは…キツイ?」

 

おずおずとアレクセイの意志を確認してくるアルラウネにアレクセイは我に帰って首を大きく横にふる。

 

「い、いや。とんでもない!…応援するぜ!」

 

「そう?ありがとう!アレクセイ。じゃあ今月いっぱいで私は休職に入るから、これから暫く引き継ぎとか貴方に託す事が沢山あるけど、宜しくね」

 

ー じゃあ、おやすみ。

 

アルラウネはこれからの希望に瞳を輝かせて、リビングを後にした。

 

一人リビングに取り残されたアレクセイがウォッカを継ぎ足し、今の話を反芻する。

 

兄の残した冷凍精子。

 

何年か前、ユリウスの生まれたばかりの子供を抱かせて貰ったと大喜びしていた義姉の姿。

 

兄の死以来、自分の事は二の次にしてミハイロフ家に尽くしてくれたアルラウネ。

 

自分のあの事件の時にも、一緒に矢面に立ち世間に頭を下げ続けてくれた。

 

ー 応援するって…言葉だけじゃ駄目なんだ。アルラウネに俺は…俺は彼女に、何をしてあげられるのだろう?

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

 

仕事の合間を縫って、体外受精について調べる。

 

その成功率は母体の年齢、技術によってもばらつきがあるようだが、概ね20〜40パーセントだという。

しかもそれに至るまでのホルモン療法などの身体に負担を強いる治療。

 

彼女の進む道は険しい。

 

更にそれが首尾よく成功した場合の、その先の事についても情報を集める。

 

アルラウネが冷凍保存した亡夫の精子で生んだ子供の法的立場の不安定さ。

 

恐らくミハイロフの一族に連なる者は、アルラウネが生んだこの子供を決して認めないだろう。

 

遠い将来ー その子供を巡る遺産相続争いが起こるのは、火を見るよりも明らかだった。

 

彼女がこれから行こうとする道は、茨の道だった。

 

暗澹たる気持ちでアレクセイは、インターネットを閉じた。

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

「なあ…。亡くなった夫の冷凍保存した精子で…出産した子供は…ロシアでは実子として認知されるのか?」

 

ロシアへ帰国して久々に会った弁護士の友人と酒場でウォッカを酌み交わす。

 

「死後懐胎子の問題か…」

 

アレクセイと共にウォッカを交わしていた友人の弁護士― 、フョードル・ズボフスキーが自分の髭を指先でひねりながら、アレクセイの質問に返す。

 

「難しいな。…現状では「認知されない」と思っといた方がいいだろう」

 

「…なぜだ?」

 

「冷凍精子による受胎、妊娠、出産は…ここ近年になって確立した新しい技術によって可能となった生命の誕生方法だ。…技術に法律が追いついておらん」

 

「…その子供が…正真正銘亡夫との子供でも…か?」

 

「ああ。…第一考えてもみろよ。その方法で生まれて来た子供を実子と認知していたら、親の死後何十年もたった子供が遺産請求することが可能になる。そうなったら…いつまで経っても遺産相続が出来んよ」

 

「そうか…。そうだよ…な」

 

アレクセイがズボフスキーの明確な説明に言葉もなく押し黙る。

 

「…一体どうしたんだ?そんなことあらたまって??」

 

「いや・・・・。何でもないんだ。ダンケ!よく分かったよ」

 

「なら…いいけど。あ、今度またウチ遊びに来いよ。ガリーナも久々にお前に会いたいってよ。料理の腕ふるって待ってるってさ」

 

「そりゃ~楽しみだ!ガリーナのペリメニ、南米でも恋しかったんだ。実は」

 

「お!嬉しい事いってくれるね。ガリーナに伝えとくよ」

 

「たのむぜ」

 

再びウォッカを満たしたグラスをカチンと合わせる。

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

ズボフスキーと別れて、屋敷へ戻った後も自室でアレクセイは、ずっと考え続けた。

アルラウネのこれからの事。

自分のこれからの事。

そして―、兄の事。

 

― すまん。アニキ。…でも、分かってくれるよな?

 

アレクセイは、とうとう決意を固めた。

 

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

~~Act.7~~

 

いよいよアルラウネが休職する最後の出勤日。

 

秘書たちから大きな花束を贈呈されたアルラウネが会社を出ようとしたその時―。

 

デスクの電話の内線が鳴った。

電話の相手はアレクセイだった。

 

「はい?」

 

― アルラウネ。お疲れ様。

 

「フフ…ありがと。」

 

― なあ、今日、ちょっと一緒に外で食事しないか?

 

8時に…ネフスキー大通りの〇〇で待ってる。席、取ってあるから。

 

アレクセイが、市街のフレンチレストランを指定した。

 

 

 

一度屋敷に戻り、荷物を置き少しドレスアップして、指定されたレストランへ向かう。

 

フロア係にテーブルへ案内される。

アレクセイは既に席についていた。

 

「お疲れさま」

 

「おう」

 

― シェリー、飲むか?

 

アレクセイが自分が飲んでいたシェリーをアルラウネにもすすめる。

 

「いいわ…」

 

「じゃあ、スパークリングを」

 

アレクセイが自分とアルラウネのスパークリングワインをオーダーする。

 

 

 

「乾杯」

 

フルート型のグラスが軽くチンと合わせられた。

 

「今まで…お疲れ様」

 

「ありがとう」

 

イチジクを使った前菜をつつきながら、二人だけの慰労会が始まった。

 

「身体…どうだ?」

 

妊活を始めた…というアルラウネの身体の具合を気遣う。

 

「ええ。こないだからね、ピラティスを始めたの。あとね、有酸素運動がいいというから…スポーツジムにも入会したわ。水泳なんかは…妊娠しても続けられるっていうし…。あ、まだ妊娠できるとも決まったわけじゃないのに、気が早すぎるわね。フフ…」

 

そう言いながらも、久々に、何年かぶりにゆっくりとる自分の時間に、アルラウネは芯から楽しそうだ。

 

「そうか…」

そんなアルラウネの笑顔につられて、アレクセイの頬も綻ぶ。

 

「それから…漢方薬も調合してもらってるし。…ホルモン療法もあるみたいだけど、まずはなるべく自然のものから試してみたいなと思って…。あ、このイチジクも女性ホルモンにいいんですって!」

 

「そうか…」

 

「なによ~。さっきから「そうか」「そうか」ばっかし。…何か言いたいことがあったんじゃない?」

 

「…なんで?」

 

「だって…私をこんなところに呼び出すなんて。…ただの慰労会じゃ…ないんでしょ?」

 

「相変わらず短気だな~、アンタ。そりゃ…その通りなんですが!まずは、食事楽しもうぜ」

 

「ま、そうね」

 

ソムリエが注いだ赤ワインで、メインのラム肉に舌鼓をうつ。

 

「美味しいわね~」

 

「そうだな」

 

「南米は…お肉とか美味しいんでしょ?」

 

「ああ。肉料理は多かったな。…今度、アルゼンチンタンゴを聞かせるレストランを手掛けようかと思ってるんだ」

 

「へえ…。いいじゃない。楽しみだわ」

 

色々な話…アレクセイの南米の話や、これからの事業の事などで盛り上がりながら、コースはどんどん進行していき、残すところはデセールとコーヒーのみとなった。

 

ココナッツとパイナップルを使った夏らしいデセールを前にアルラウネが切り出す。

 

「さて、と。何か…私に言いたいことがあったんでしょ?聞くわよ」

 

「ああ…」

 

生返事をするもののどうにも目の前の義弟は歯切れが悪い。

 

「何よ。…言ってみなさいよ?」

 

もう一度アルラウネがアレクセイを促す。

 

意を決したようにアレクセイが一つ小さく咳ばらいをすると、居住まいを正してアルラウネの目を見つめて切り出した。

 

「アルラウネ、結婚しよう。いや、俺と結婚してください!」

 

― 言った!!

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

 

ー 俺と結婚してください!

 

唐突の(少なくとも彼女にとっては、それは唐突な事であった)予想だにしない義弟からの求婚に、アルラウネは大きな黒い瞳をパチクリと瞬いた後に一層大きく見開いた。

 

一瞬の間の後、アルラウネの手がアレクセイの額に伸びる。

 

「大丈夫?戻って来てちょっと張り切り過ぎたんじゃない?」

 

アルラウネの心配そうな表情が、どうやら本気でアレクセイの頭を心配しているのが分かる。

 

「熱ねぇし!…俺、本気で言ってんだ。唐突で…驚かせちまったけど」

 

アレクセイの真剣な顔に、アルラウネもどうやらこれが冗談でも、ましてや頭がどうにかなった訳でもなく、本気で言ってくれているのだと悟る。

 

アレクセイの額から手を外し、椅子に姿勢を正して座り直し、目の前の義弟に改めて向き直る。

 

「驚いたわよ。…でも貴方がどうやら本気なのは分かったわ。どうして…どこをどう繋げたら、その「結婚して下さい」に至ったのか、順序だてて説明してくれる?」

 

「…そうだよな。ハハ…」

 

彼女の言うことも至極当然だというばかりにアレクセイは大きく頷くと、運ばれて来たコーヒーで口を潤した。

 

 

「あんたに対する感謝の気持ちは…あの三年前のあの事件の時以来ずっと持っていた。いつかこの恩は…絶対に返そうと。直接のきっかけは…、帰国してあんたから、妊活すると…聞いた時だった。俺も俺なりに…あんたがやろうとしている事を調べてみたんだ。妊娠に至るまでの困難さ、仮に上手く出産に至っても生まれた子供の今後の社会的な位置づけの複雑さ…あんたのこれから進む道がどれだけ険しいものかが分かった。それで…俺はずっと考えていたんだ。「言葉だけじゃ駄目だ。行動であんたを支えてやらなければ」って。それで…今俺に出来るあんたへの最大の支えは何なのか、考えた…。少なくとも、俺と結婚して、俺の実子として届け出れば、その子供は、間違いなくミハイロフ家の後継者だ」

 

「それが…さっきの「結婚して下さい」だったわけね。成る程、確かによく勉強して来たみたいね」

 

アルラウネが呆れたようにクスリと小さく笑う。

 

アレクセイが少し気まずそうに鼻の頭をポリとかいて頷いた。

 

「全く…。あんたって子は。…私は今のままで大丈夫よ。気持ちだけで十分だわ。ありがとう。それに…妊活と言っても、まだ…成功するとは限らないもの。努力しても、授からない可能性の方が大きいのよ?」

 

「それも分かってる。妊娠に至るまでに壁にぶちあたって、いくら強いあんたでも…心が折れる時もあるだろう…。最悪…断念する可能性だって…。でも、俺は、上手く行っても行かなくても、あんたの事を一番そばで支えていたいんだ。…あんたと一緒に…家族になって、これからの人生を歩んで行きたいと、心から思ったんだ。…それとも、あんたはやっぱり…ドミートリィ以外の夫なんて…考えられないか?」

 

そこまで黙ってアレクセイの話に耳を傾けていたアルラウネが口を開いた。

 

「じゃあ、貴方はどうなの?貴方の心にずっと住み続けて輝き続けていた、あの金髪の天使さんへの想いは…もういいの?」

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

「俺は…」

 

かつての、そして、別れてからもずっと忘れたことのなかった恋人の姿がアレクセイの脳裏に蘇る。

 

金色の髪、ちょっと勝気な整った顔立ち、アレクセイの腕に絡みついてきた手の感触、そして、大人の女性になった彼女のエレガントな姿ー。

 

しかし、彼女の姿は今も尚アレクセイの目の奥に鮮やかに焼きついていたが、今やその残像が、彼を苦しめる事はなかった。

 

今ようやく、彼女は自分にとって「過去」になった事を、アレクセイは悟った。

 

ー あぁ…、ユリウス。

 

彼は万感の思いを込めて、今なお美しいかつての恋人の面影を瞼の奥底へそっとしまい込んだ。

 

「確かにあいつは、俺にとって忘れられない女だ。だけど、あんたに求婚する事を決めた時に、俺は色々な事を考えたんだ。そりゃもう、頭から湯気が出るくらいな。自分の事、あんたの事、…それから兄貴の事。だけどあいつの事は、今あんたに言われるまで、一度たりとも頭を掠める事はなかった。…俺にとって、漸くあいつが「思い出」に昇華された事に、今更ながら気づいたよ」

 

― なあ、あんたがドミートリィを今でも愛しているのは、百も承知だ。それでもいいんだ。お互い大切なものを心に抱えながら、それでもパートナーとして手を取って、人生を歩む…そんな形の家族があっても俺はいいと思うんだ。…そりゃ、あんたみたいな美人でいい女が俺を一人の男として見てくれるのならば、俺としてはこんな嬉しい事はないし、願ったり叶ったりだ。でも、結局俺たちがそういう関係にならなかったらならなかったで、それはそれでも構わない、と俺は思ってる。…俺は真剣だ。本気であんたを妻にして、幸せな家族を…今度こそ、幸せな家族をあんたと作りたいと思ってる。…なあ、真剣に、考えてくれないか?」

 

そう言ってアレクセイはテーブルの上に組まれたアルラウネの白い両手を握った。

 

骨の太い、筋張った、指の長い大きな手だった。

 

ー ドミートリィの手に、似てる。

 

一瞬そう思い、顔を上げたアルラウネの瞳に映ったのは、亡夫の面影こそ色濃く残しているものの、違う人生を歩み、人生の苦みも挫折も味わって、より深みを増した、アレクセイの笑顔だった。

 

鳶色の瞳が優しく自分を包み込む。

 

ー 俺に寄りかかれ。

 

とその瞳が告げていた。

 

「少し…少し考える時間を頂戴」

 

アルラウネはその瞳から思わず目をそらすと、アレクセイの両手から自分の手をそっと抜き取り、「先、出るわね…。お休み」とレストランを後にした。

 

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

 

入浴後、寝室のドレッサーの前に掛けて、先程の、レストランでの出来事を思い返す。

 

ー 俺は真剣だ。本気であんたを妻にして、幸せな家族を…今度こそ、幸せな家族をあんたと作りたいと思ってる。

 

自分に求婚してきた義弟の真剣な眼差し。

 

確かに、生物学上では亡夫の実子と言えども、現在の法律では生まれた子供に父親はおらず、私生児という事になってしまう。

自分がシングルマザーになるのは覚悟の上だ。しかし、親のエゴで生まれた時からマイナスのカードを持って生きる子供は、時に負わなくても良い苦労を追う事になるだろう。

勿論ミハイロフ家の遺産は元より、一族に連なる事すら許されないだろう。

 

そんな社会的基盤がぐらぐらの子供を、アレクセイは自分の実子として育てればいいと言ってくれた。

 

また、子供を授かっても授からなくても、自分をそばで支えたい と言ってくれたアレクセイ。

 

今までの人生で、アルラウネは常に誰かを、何かを支える立場だった。

最初の結婚ですら、最愛のパートナーとは、並走しながら共に高みを目指す関係だった。

 

そんなアルラウネに、アレクセイの「あんたを支えたい」と言ったその一言は、アルラウネの心を思いがけず大きく揺さぶった。

 

不安なとき、悲しいとき、心が折れた時に寄りかかれる存在…。

 

そういう存在になると言ったアレクセイの温かな眼差し。

 

そして、自分の手を包んだ大きな手。

 

思わずその時の感覚が蘇り、アルラウネの顔が紅潮する。

 

両手で顔を覆い、鏡の自分に問いかける。

 

ーわたしは、まだ綺麗?

 

アルラウネは初めて、アレクセイに対して自分が女である事を強く意識した。

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

 

ピロリン…

 

仕事中のアレクセイのデスクの上でスマホが鳴った。

 

メールの主は、アルラウネだった。

 

《今本社近くのカフェにいます。少し出られるかしら?》

 

 

アレクセイがそのカフェに入ると、アルラウネは既に奥の席で待っていた。

 

仕事をしていた頃より薄いメイクに、白い上質のコットンTシャツとクロップド丈のダメージジーンズをコーディネートしたカジュアルな装いである。

 

大き目のトートバッグが傍らに置かれているところを見ると、早速入会したスポーツジムへ行って来たのだろう。

 

「悪いわね。仕事中に」

 

「いいさ。昼食まだだったから…」

 

オーダーを取りにきたウエイトレスにパニーニサンドとコーヒーを頼む。

 

「あんたは?」

 

「私はもう食べたから」

 

アルラウネの前には既にオーダーしていたハーブティが爽やかな湯気を立てていた。

 

 

「さて…と。こないだの…プロポーズの返事だけど」

 

予測はしていたが、早速アルラウネが切り出した。

 

「返事だけど・・・・?」

 

アレクセイがパニーニにパクついていた手(と口)を止め、アルラウネに向き直る。

 

「私もあれから…色々な事…それこそ頭から湯気が出る程考えたの。仮に私が子供を授かって出産した時の事、ミハイロフ家の事、…そしてあなたの事…。だけど最終的に、「自分はどうしたいのか」それを自問してみた。…世間体とか…ドミートリィの事とか、そういうの全部抜きにして、今自分があなたとどうしたいのか、自分の心に正直に聞いてみたの。それで、最終的に決断したわ。私は、あなたと一緒にいたいと思った。…あなたのプロポーズをお受けします。アレクセイ、私と結婚してください」

 

アレクセイを正面から見つめ、アルラウネがニッコリと微笑んだ。

 

 

「よ、よかった~~~~~~~。あぁぁぁ・・・・もうこの数日この事が気になって気になって…もう頭がどうにかなるかとおもったぜ。…ありがとう。アルラウネ。…愛してる」

 

―コレ、無駄にならなくてよかったぜ。

 

そう言ってニカっと笑うと、アレクセイはあの日の、プロポーズした日のように、アルラウネの手を両手で引き寄せ包み込むと、スーツのポケットからつまみだしたダイヤの輝くプラチナリングを、アルラウネのまだ前夫との結婚指輪がはめられた薬指にそっと滑らせ、その手を取って口づけた。

 

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。
 

 

[chapter:Act.8]

 

その日の晩、祖母のヴァシリーサに結婚する旨を二人で報告した。

 

ヴァシリーサは少し驚いたような顔でゆっくりと二人の顔を見た後に、「そうですか。おめでとう」と二人を祝福した。

 

「アルラウネ」

 

ヴァシリーサが孫嫁に優しく呼びかける。

 

「はい」

 

「ミハイロフ家の為ならば、いいのですよ…と言おうと思いましたが、貴女の顔を見て、それは違うと、確信したので、やめました。…この子を、アレクセイを愛しているのですね」

 

ヴァシリーサの言葉にアルラウネがコクリと頷いた。

 

そんなアルラウネの肩をアレクセイが優しく抱き寄せる。

 

「ならば、わたくしは何も言うことはありません。…今度こそ末長くお幸せになりなさい」

 

ヴァシリーサが力強く二人の新しい門出を励ました。

 

結論から言うと、アレクセイとアルラウネは、程なく男女の関係になり、名実ともに夫婦となった。

 

アレクセイとの― 心を許したパートナーとの定期的なセックスはアルラウネの身体によい影響を及ぼした。

(ただしアレクセイは亡兄に義理立てし、「俺の仁義に反する」とアルラウネの妊活中は頑として避妊を厳守していたが)

 

生活の見直しなど、妊娠にむけて始めた努力もあったが、何よりもその愛の行為が女性ホルモンに働きかけた好影響が、アルラウネの身体を妊娠へと後押しすることになった。

 

当初は妊娠する身体づくりにかなり時間がかかると見られたアルラウネの妊活だったが、思わぬ援護を得て、早速年明け―、挙式後に最初の体外受精を試みることに決まった。

 

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~~番外編2 アレクセイの仁義~~

 

「ねえ…アレクセイ。いいのよ。どうせ妊活中なんだし…。そんなに律儀に避妊しなくたって」

 

ベッドの中でリネンで胸元を覆ったアルラウネが避妊に余念のないアレクセイに声をかける。

 

「バカたれ!これは…俺の、仁義だ。アニキに対するけじめなんだ。…それともお前、妊娠出来ればどっちのタネでもいいってか?…お前そんなに尻軽な女だったのか?!」

 

「他ならない…私とこれからセックスしようっていうあんたに言われると…何か腹立つわね…」

 

「ん?…何か言ったか?…よし!完了」

 

「なんでもな~い。…早く、来て?」

 

「よ~っしゃ~~~」

 

アレクセイがベッドのアルラウネに馬乗りになると、彼女が身体に纏っていたリネンを乱暴にはぎ取った。

 

 

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~~Act.9~~

 

挙式は10月の終わりに、二人とも再婚ということもあり、ごくごく内輪で行なう事となり、式まで期間もないことから、内輪と言えどもその日から二人は式の準備に忙殺される事になった。

 

近しい人への結婚の挨拶は、過去の世間を騒がせた事件の事もあり、致し方ない事ではあるけれど、再びのお詫び行脚のような形になった。

(尤もそれに関しては皆一様に寛容な反応であったが)

 

前妻のー、エリナの実家へも挨拶へ向かう。

 

エリナの両親は、叩き上げで財を成しただけあって、物の分かる切れ物だった。

あの事件後、アレクセイとエリナが婚姻関係を解消した後も、「これはこれ。それはそれ」と業務提携を継続し続けていてくれていた。

 

久々に訪問する前妻の実家と、その両親に、アレクセイの全身から緊張が漂うのをアルラウネは感じていた。

 

やがてエリナの父の方から口を開いた。

 

「結婚するんだってね。…おめでとう」

 

「ありがとうございます」

 

「元気そうじゃないか」

 

「はい…。おかげさまで。あの…エリナは…その後は?」

 

アレクセイのその問いに少し寂しげな笑顔を浮かべると

 

「相変わらず、あちらの療養所にいるよ。だけど…最近あの子がね、自分も働きたい、外に出て社会と関わりたい…と言い出したんだ。具合のいい時は、就職支援のカウンセリングも受けているらしい。…まだまだ先は長いだろうけど、あの子も少しずつ前進し始めているんだ」

と、穏やかな口調で娘の近況を報告した。

 

「そうですか…」

 

エリナの父親が続ける。

 

「私は…あの子が君と結婚したい、縁談を進めて欲しい と瞳を輝かせて我々両親に訴えた時に、…正直ちょっと先行きに不安を感じていたんだ。…あの子は…我々が裕福になってから授かった子で…苦労というものを知らない。結婚というものが…特に名家に嫁ぐという事がどんな事だか…あの子には全く分かっていなかった。そんな世間知らずなあの子が…名家へ嫁いで上流階級の社交をこなしていくのは…無理じゃないかと危ぶんだんだ。…だけど、私も正直このタイミングでミハイロフと提携するメリットに目がくらんで…あの子に対するそんな将来の懸念を…見て見ぬふりをしてしまった。…あの子にもっときちんと言って含めるべきだったんだ。結婚というのは…そんな甘いものではないのだと。だから…あの子のあの事件は、我々の無責任の結果でもあるんだ。だから、もう…娘の事は忘れて、君たち手を取り合って、ミハイロフのために前だけを向いて人生を歩みなさい」

 

― お幸せにな。

 

そう言って、エリナの父は穏やかに微笑むと、アレクセイとアルラウネの肩を、ポンと優しく叩いて激励した。

 

苦労に苦労を重ねて財を築いた、分厚い逞しい掌だった。

 

「エリナの事は…私たちは生涯忘れることはないでしょう」

 

初めてそこでアルラウネが口を開いた。

 

「…私達…今となっては詮無い「タラレバ」ですが…、もう少し環境に馴染めない彼女を気遣ってあげるべきだった。彼女が奥様として当然果たす「義務」を果たせないことばかりにとらわれ、出来ないことを遠回しに責め続けた私たちの中で彼女が孤立して心を病んで行ったのは…当然だったのかもしれません。…どうもすみませんでした。あなた方の…大切なお嬢様をあんなに傷つけてしまって…本当に、申し訳ありませんでした」

 

そう言ってアルラウネは一層深々とエリナの両親に頭を下げた。

 

「お顔を、上げて下さい」

 

エリナの母親がそんなアルラウネに優しく声をかけた。

 

「アレクセイと結婚して…ミハイロフ家へ入る。それはエリナ自身が決めて…決断した事です。だから…それが上手くいかなかったのも…やはりそれはエリナの責任なのです。エリナの果たせなかった義務を…あなたがエリナの分までカバーしてくれていたのは、私達もよく分かっていました。…会社のお仕事と併行して本当に大変だったでしょう?今まで苦労をかけてしまってごめんなさいね。それから、…ありがとう」

 

その言葉にアルラウネが言葉を詰まらせる。

 

「ありがとう…ございます。…ありがとう。…ごめんなさい」

 

両手で口元を覆い、肩を震わせるアルラウネに、アレクセイがハンカチを差し出すと、その肩を優しく抱き寄せた。

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最後に二人が訪れたのは—、ユスーポフ家の屋敷だった。

 

執事に案内され、緊張した面持ちのアレクセイとは対照的に、あの事件以前はユリウスと親しく友人づきあいをして頻繁にこの屋敷を訪れていたアルラウネは、微妙な立場ではあるもののやはり友人との再会が嬉しそうだった。

 

応接間へ案内され、二人並んでユスーポヴァ夫人— ユリウスを待つ。

 

「アルラウネ!…アレクセイ!!」

 

懐かしい…昔と変わらない澄んだソプラノ。

そして、女主人としての威厳と自信を備え昔より格段に美しくなったかつての恋人が現れた。

 

彼女とアルラウネが抱擁を交わす。

 

「久しぶり。また訪ねてきてくれて…嬉しい」

 

そしてユリウスはアレクセイの前に立つ。

 

「あなたも、久しぶり」

 

アレクセイが、このかつての恋人である名家の御曹司夫人の肩を抱いて頬を寄せ合う。

 

昔のままの滑らかな柔らかい肌だったが、アレクセイの胸がもうときめくことも、痛むこともなかった。

 

 

 

「あのね、私達、結婚することにしたの。今日はその報告と…出来ればあなたに、あなた方夫妻に、式に出席してほしくて、招待状をお持ちしたの」

— 急で申し訳ないのだけど。

 

アルラウネがテーブルに招待状の入った封筒を滑らせた。

 

ユリウスが二人の顔を交互に見つめる。

そのあと、大輪の花のような満面の笑みで二人を祝福した。

 

「おめでとう。二人が訪問してくれると聞いたときから…、いい報告が聞けると予感してたんだ。本当におめでとう。あなたが…あなた達が幸せになって…ぼくは嬉しい」

 

「ユリウス…ごめんなさい」

 

「なぜ…謝るの?」

 

「だって…アレクセイは…」

 

「うん。彼とぼくは…確かにかつて恋人同士だった。…だけど、それはもう過去の話。ね?アレクセイ」

— そうでしょう?

 

ユリウスの問いかけに、アレクセイが力強く首を縦に振った。

そんなアレクセイに、ユリウスも笑顔で頷いた。

 

「お式…是非、主人と出席させていただきます。…あの事件から…ううん、あのガーデンパーティであなたに再会してから…ずっと、あなたの事が気にかかっていた。ぼくは結局このロシアで幸せを掴んだけど…ぼくがロシアへやって来たせいで、あなたを苦しめてしまったのではないかと…。だから、本当に漸くあなたが、あなた達が幸せになってくれたことが、ぼくは嬉しい」

 

それからは、久しぶりに会った古い友人同士として、そして仲のいい女友達同士として、三人はひと時の楽しい時間を過ごした。

 

「私ね、今妊活しているの」

 

「そうなの?」

 

「ええ。思ったより順調で。このペースでいけば年明けには最初のトライが出来るってお医者様が」

 

「最初の…トライ?なんの?」

 

ユリウスが少し訝し気な顔でアルラウネに聞き返す。

 

「あ、あの…だな。ユリウス、それは…」

アルラウネの横でアレクセイがうろたえた様に言葉を濁す。

 

「体外授精よ。…私、ドミートリィの冷凍精子で子供を産むつもりなの」

 

アルラウネがニッコリ笑ってはっきりと言い切った。

 

 

「体外授精?…なぜ?だってアレクセイが、今の夫がいるのに?それって…」

 

ユリウスが理解しかねるという顔で二人の顔を交互に見ながら問いかけた。

 

「いいんだ。…いいんだ、ユリウス」

 

「でも…」

 

尚も納得しかねるという顔でアレクセイを見る。

 

「南米から戻って来てすぐ、妊活の事を相談された。こいつだってもう若くない。おそらくこの1~2年がリミットだろう。だからこいつは…その残された時間に全てを賭けたんだ。仕事も休んで、今まで無理に無理を重ねた身体を妊娠できるような状態に整えて…。それでも体外授精ってのは…妊娠の確率は決して高くないらしいんだ。きっと何度もトライして、その度に落胆したり、心が折れたりするはずだ。それから仮にこいつが上手く妊娠出来て子供を産んでも・・・・その子供は現在の法ではドミートリィの子供だと認知されないんだ。…だから俺は、一番近くでこいつの力になろう、力になりたいと、その時心から思ったんだ。生物学上は兄貴との子供だとしても、生まれてくる子供は…、正真正銘俺の子だ。それに、妊娠出来ても…出来なくてもこいつを支えて、一緒に生きて行きたいと強くそう思った。だから俺はこいつに求婚したんだ」

— だから、な。俺は全て納得の上でこいつにプロポーズしてるから、いいんだよ。

 

アレクセイがユリウスに語ったその固い決意に、最終的には彼女も納得してコクリと頷いた。

 

「アレクセイ…、懐の深い、いい男になったね」

しみじみとユリウスが呟いた。

 

 

 

「ねえ、ユリウス。お願いがあるの」

 

アルラウネがユリウスに切り出した。

 

「なに?」

 

「結婚式のときに…私のブライズメイドになって貰えないかしら?それと…」

 

アルラウネの手の上にアレクセイの手が重なった。

 

「俺たちの結婚の…立会人になってもらえないか?」

 

— お前に…あなたに、是非ともお願いしたいんだ。レディ・ユスーポヴァ。

 

その後の言葉をアレクセイが継いだ。

 

ユリウスはその碧の瞳を僅かに見開き、二人を見つめ―、そのあと感慨深げに大きく頷いた。

 

「喜んで」

 

 

「じゃあ。今日は会ってくれてありがとう。…邪魔したな」

 

「ううん。アルラウネ、式の事…相談する事とかも色々あるでしょう?またいつでも…うちに来て」

 

「ありがとう。ユリウス。今度は…私がこちらへお邪魔するだけじゃなくて…うちにも是非来て頂戴」

 

― ね?

 

アルラウネが隣の長身の婚約者を見上げる。

 

― ああ。

 

アルラウネに同意を求められたアレクセイがアルラウネに優しく笑いかけ頷く。

 

そんな二人の様子を見ながら

 

「うん。是非そうさせてもらうよ。…これからは晴れて旦那様公認だからね」

 

とユリウスが満足げに微笑んでそう言った。

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

 

 

「あ、あれ?レオニード?どうしたの??」

 

「有給の消化だ。…総務がうるさくてな。で、半ば追い立てられるように庁舎を出てきた。…来客だったのか?」

 

アレクセイとアルラウネが屋敷を後にしたのと入れ違いにレオニードが屋敷へ帰邸した。

 

「え?…あ、うん。そうなの。あなた、外で会った?」

 

「ああ。私も運転中だったから、目の端に映っただけだがな。…夫婦連れか?」

 

「うん。…というよりも、これから、かな。結婚の報告と、お式の招待状を持って来てくれたの」

 

ユリウスがお茶を淹れながら答える。

 

「それは、めでたいな。で、誰だ?」

 

レオニードの質問に、ユリウスが答えた。

 

「アレクセイ。…アレクセイ・ミハイロフ」

 

その返答に、レオニードの手がー、ティーカップを口に運びかけた手が止まり、僅かに目を瞠り妻の顔を凝視する。

 

その妻の表情は、あくまで穏やかだった。

 

 

「再婚…するのか?」

 

レオニードの、驚きを僅かに含んだその声に、ユリウスが小さく頷く。

 

「そうかー。相手は?」

 

「アルラウネ」

 

その答えに、ふたたびレオニードが軽く目を瞠る。

 

「…前夫が亡くなった折に…養子縁組をしていなかったのか!」

 

「うん…。あの当時は…ミハイロフも業績が落ち込んでいたから、却って養子縁組で彼女の今後の人生を、ミハイロフ家に縛りつけては可哀想だって…」

 

「そうか…」

 

暫し二人の間を沈黙が包み込む。

 

レオニードがその沈黙を破る。

 

「お前は…いいのか?」

 

「ぼくに…いいも悪いも…そんな権利はないよ。…アレクセイとアルラウネの問題だもの」

 

そう言ってユリウスは夫にクスリと笑いかけた。

 

「それは…そうだが」

 

夫が自分に何を言いたいのか、何を伝えたいのか、ユリウスには手に取るように分かっていた。

それがー、その感情が、上手く言葉では表現出来ないものであることも。

 

「ありがとう、レオニード。やっぱりあなたは優しい人だね…」

ー 愛してる…。

 

そう言うとユリウスはレオニードの膝の上に腰掛け、彼の頭を両手で包み込むと軽く唇に口づけた。

 

彼女のそんな口づけに、深いキスで応える。

 

 

「それでね…。ぼく、アルラウネからブライズメイドと立会人を頼まれたの」

 

「そうか…」

 

レオニードは膝に腰掛け両手を自分の首にかけたユリウスの髪を指に絡ませながら、彼女の話を聞く。

 

「あのね、ぼくね…実はずっと…、ぼくがロシアへ来た事で、アレクセイが苦しんで、結果彼とその周りの人を不幸にしてしまったんじゃないか…ううん、不幸にしてしまった事が、ずっとずっと気にかかっていたんだ。…ぼくさえロシアへ来なければ…アレクセイや、アレクセイの前の奥様はあんなに苦しまなくて済んだのに…。ぼくの存在が、人を不幸にしてしまった事に、ずっと負い目を感じていたんだ」

 

ユリウスは夫の膝の上で、静かに心の内を語り始めた。

 

 

レオニードは黙ってユリウスの告白に耳を傾けていた。

 

心の内を全て吐きだしたユリウスの身体を優しく抱き寄せ、彼女の胸元に顔を埋めた。

 

「お前は…ロシアへ来てよかったのだ。…お前がロシアへ来なければ…、ここに不幸な男が一人誕生するところだったのだぞ」

ー この私の為にも…二度と、「ロシアへ来なければ」などと悲しい事を言ってくれるな…。

 

そのまま愛しい妻の胸元に熱い唇が押し当てられる。

 

そしてその唇は彼女の首筋へ、耳朶へと移動してゆく。

 

「あ…」

 

夫の熱い唇の感触にユリウスの唇から小さな声が洩れる。

 

「…お前を…今すぐお前を抱きたい」

 

「抱いて…」

 

ソファの上で、二人の身体が重なった。

 

・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。・。

~~エピローグ~~

 

ウエディングパーティーは、帰国後アレクセイが手がけたアルゼンチンタンゴレストランで行われた。

 

アルゼンチン産のワインと肉料理に、タンゴのバンドが音楽を添える。

 

一瞬会場から姿を消した新郎がヴァイオリンと共に会場に戻って来る。

 

「ねえ…、一曲だけ、代わってもらえるかな?」

ユリウスが、バンドのピアニストに耳打ちしピアノを譲って貰う。

ピアノの前に掛けたユリウスに、アレクセイの片眉が驚いたように僅かに上がる。

 

そんなアレクセイに、ユリウスが艶やかな笑みを向けた。

 

隔てられた人生の川の対岸に立つかつての恋人同士が、紆余曲折を経て、今同じ舞台に立っている。

 

音楽の始まる一瞬前

 

同じステージに立つ二人の呼吸が一つに重なる。

 

ユリウスの左手がタンゴのリズムを刻み、煽情的な旋律を奏でる。

 

彼女が弾いたその曲はー

 

「por una cabeza」

ー 首の差一つでー

 

彼女が目線でアレクセイに合図を送る。

 

彼女の合図を受けて、アレクセイがその旋律を引き継ぐ。

 

ユリウスが奏でるタンゴのリズムに乗って、アレクセイのヴァイオリンがピアノに負けず劣らずの煽情的な調べを奏でた。

 

その愛を囁くような最初のテーマから一転、ユリウスが叩きつけるような激しい短調のタンゴのリズムを提示する。

 

そのリズムを皮切りに、アレクセイのヴァイオリンが胸をかきむしるような切ないサビのメロディを奏でる。

彼のヴァイオリンからむせび泣くような重音のメロディが迸り出る。

 

その嘆きのようなメロディに、ユリウスのピアノの荒々しいまでのタンゴのリズムが激しくぶつかり合う。

 

アレクセイのヴァイオリンが奏でる哀切な旋律が語りかける。

 

ー 幸福で、いるか?

 

と。

 

その問いかけに彼女のピアノの激しいタンゴのリズムが答える。

 

ー うん。ねえ、あなたは?

 

そんな二人の演奏を、壁にもたれて今日の新婦が腕組みをしながら聞き入っている。

顔には何とも言えぬ笑みさえ浮かべて。

 

「…妬けますか?」

ー どうぞ。

 

そんな彼女の横に、ユリウスの伴侶がやって来て、彼女にマティーニを勧める。

 

「別に…」

ー ありがとう。

 

二人が並んで壁にもたれ、その演奏に耳を傾ける。

 

「…なんか、切ないですね。」

 

「…少なくとも、ウエディングパーティーで弾く曲ではないな」

 

レオニードがその言葉に苦笑いで返す。

 

「さしずめ、決別の…タンゴ…といったところかしら 」

 

フフ…。

アルラウネも又苦笑いで答えて、マティーニに口をつけた。

 

やがて旋律は歌手に引き渡され、ハスキーな歌声が会場に響き渡る。

 

Por una cabeza de un noble potrillo

Que justo en la raya afloja al llegar

Y que al regresar parece decir:

"No olvides, hermano,

Vos sabes no hay que jugar"

 

Por una cabeza metejón de un día

De aquella coqueta y risueña mujer,

Que al jurar sonriendo

El amor que está mintiendo

Quema en una hoguera todo mi querer.

 

Por una cabeza

Todas las locuras;

Su boca que besa

Borra la tristeza

Calma la amargura.

 

Por una cabeza

Si ella me olvida

Que importa perderme

Mil veces la vida;

Para qué vivir?

 

Cuantos desengaños, por una cabeza,

Yo juré mil veces no vuelvo a insistir

Pero si un mirar me hiere al pasar,

Su boca de fuego, otra vez, quiero besar.

 

Basta de carreras, se acabó la timba,

Un final reñido yo no vuelvo a ver,

Pero si algún pingo

Llega a ser fija el domingo,

Yo me juego entero, qué le voy a hacer.

 

Por una cabeza

Todas las locuras;

Su boca que besa

Borra la tristeza

Calma la amargura.

 

Por una cabeza

Si ella me olvida

Que importa perderme

Mil veces la vida;

Para qué vivir?

 

〜〜 首の差で来てゴール寸前でたち止まる

気位の高い若駒め

返し馬の折りの言い草が聞えるようだ

 

「知ってるさな、忘れるな兄弟よ、博打はするなって」

 

首の差で、熱情のあの日

男好きするからかい好きのあの女が

微笑んで愛を誓いながら裏切って

焚き火にくべるのさ俺の恋すべてを

 

首の差で、すべてが無駄に

キスする彼女の口が悲しみを忘れさせ憂さを和らげる

首の差で、もし彼女が俺を忘れるなら

そんな人生千度でも投げ出してやるぜ

何のために生きてるんだ〜〜

 

 

 

 

「…踊ろう?レオニード」

 

「ああ」

 

二人の指が絡まり合い高く掲げられる。

レオニードのもう一方の手がユリウスの腰を引き寄せる。

ユリウスの額が上背のある夫の頬にそっと寄せられる。ピタリと合わさった腰の下、二人の足が官能的に絡み合う。

柔らかな照明に照らされた彼女の金の髪と白い首筋が薄暗いフロアに仄かに浮かび上がる。

 

傍らでは、アレクセイとアルラウネも又、官能的なタンゴのリズムに身を委ねていた。

 

アレクセイの脚にアルラウネのしなやかな脚が絡み合い、白いドレスの裾が翻り、白く締まったふくらはぎがのぞく。アレクセイの長い指に絡められたアルラウネの指の― 薬指には、二つのリング、前夫との結婚指輪と今の伴侶からの結婚指輪が二つ重ねて嵌められ、照明の光を受けてキラリと光った。

反った美しい背中をシャンデリアの光が柔らかに照らし出し、新婦の自信と威厳に満ちた大人の女性だけが醸し出すその色香に周囲の人間はただただ圧倒されてため息を洩らすのだった。

 

こうして、祝いの宴のダンスフロアで、かつて数奇な運命に翻弄され苦い涙を飲んだ末に、かけがえのない伴侶と結ばれた二組の恋人たちの4つの影が、いつまでもタンゴのリズムに揺蕩っていた。時に離れ、時に絡み合いながら…。

 

―幸せか?

 

― フフ、あなたは?

pro
a1
a2
a3
a4
a5
番1
a6
a7
a8
番2
epi
a9

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