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零れたミルク/禊

~~零れたミルク~~

 

― 最終的な話を詰めましょう。

 

頓挫していた離婚の話し合いから数か月。

アデール側の弁護士から彼女の意思がレオニードに伝えられた。

別居以来難航していた離婚協議が漸く終結へ向けて動き出した。

 

調査事務所から届いた報告書に目を通したアデールが長い溜息をつく。

 

それは―、別居中の夫の身辺調査の結果だった。

 

― どうも別居中の夫に新しい恋人が出来たらしい。

 

婚家を出て実家に戻っていたアデールの耳に、夫の恋人の噂が耳に入って来たのは、別居を始めてまだ半年経つか経たないかの夏の初めだった。

 

アデールの生まれ育って、そして今も属している上流階級は良くも悪くも世界が狭い。

こうしたゴシップはあっという間に広がっていく。

 

― まさか?あの朴念仁のあの人が?

 

思いもかけなかった夫のその艶聞をアデールは俄かに信じることが出来ず、おおかた自分を良く思っていない人間の悪い冗談だろう思い、最初はさして取り合わずにいた。

 

しかし、次から次へと、しかも割と懇意にしている人間からも入って来るその噂に、アデールはそれが質の悪い冗談などではなく、どうやら真実であるという事を認めざるを得なかった。

 

 

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アデールが通っていた名門女子ハイスクールの―所謂ソロリティと呼ばれる社交クラブのOG会で、現在国内最大手調査機関のトップの夫人である後輩の姿を目にした。

 

噂によると、夫の新しい恋人は、その後輩― アントニーナ・カルナコヴァの妹のアナスタシアのドイツ留学時代の後輩で、姉のアントニーナとも親しく付き合っているらしい。

 

「ごきげんよう…」

 

「ごきげんよう…」

 

それとなくアントニーナに近づいて、その恋人の事を振ってみた。

 

しかしアントニーナという女は、見た目にそぐわず存外したたかな女だった。

アデールのかけたカマをニッコリと笑顔でいなす。

 

「ええ…。確かにロシアへ来た当初はわたくしの実家に逗留しておりましてよ。とても綺麗で性格もいい子だったわ。最近の事は…わたくしもよく分からないわ。あ、それより―、先輩のそのジュエリーウォッチ素敵!!よく見せて下さらない?あ!リングとお揃いなのね!…わたくしもこっちにすればよかったわぁ!!」

 

あっさりとかわされて、強引に話題を変えられたアデールはそれでも尚この後輩に真相を問いただすような野暮な真似はプライドにかけて出来なかった。

 

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夫と結婚したのは2年程前。

一つ屋根の下で夫婦生活を送ったのは―、一年にも満たなかったかもしれない。

 

アデールの結婚相手、レオニード・ユスーポフは彼女の知っている世界ではまさにプレミアムな地位に属する男だった。

将来性、家柄、財産、そしてルックス―。

彼は同世代の男では、どこから見てもケチのつけようのない完璧な条件を備えていた。

そんな彼が、同じく家柄、財産、そして容貌いずれもケチのつけようのない完璧な自分と釣り合っており、結婚という形で結ばれより完璧な光り輝く人生を歩むのはごく当然のなりゆきだと思っていた。

 

アデールと言う女は―、申し分のない裕福な家庭で甘やかされて大事に育てられたアデールは、あらゆるものに恵まれていたが、ただ一つ、人の心を思いやるという素養を持ち合わせていなかった。否―、そんな素養はアデールの人生に初めから持つ必要がなかった と言う方が正しいのだろう。心を思いやるのは常に周りの人間で、アデールは周りの人間から気を使われて大事にされていればよかった。人の心も又自分の心と同じであるという当然の事を全くアデールは理解していなかった。

しかしアデールの育った環境は彼女にそんな傲慢を許した。彼女は常に気を使われていればよかった。少なくとも結婚するまでは―。

 

結婚して婚家へ入り、他人と生活するようになって、新たに家族となった義理の妹や弟と接するにあたって生まれて初めての対人ストレスというものを経験したアデールは、その得体の知れない対人感情に戸惑った。

そしてその不快な対人感情は―、当然夫にも向けられた。

 

誰よりも釣り合いがとれ、非の打ちどころのない人生を共に歩むはずだった夫は、不愛想で無口で、いつも不機嫌そうな顔をしているように見えた。

 

アデールには極めて慇懃に接してくれているが、進んでロマンチックな語らいをしてくれることもなし、気の利いたパーティやレストランや旅行へ連れて行ってくれるのでなし、それなのに名家の奥様としての義務ばかり周りから求められ、まだまだ娘気分の抜けていなかったアデールはすっかり消沈してしまった。

 

そういったストレスは当然ながら一番近くにいた夫、レオニードに向けられた。

 

結婚した年に色々な諸事情から海外渡航を制限されていた夫がせっかく誘ってくれた別荘への小旅行も、終始不機嫌な態度をとり続け、その挙句夫一人を別荘に置いて帰るという極めて大人げない、思いやりのない態度をとってしまった。

― 家へ帰る― と言った時の夫の何とも言えない表情が、今でもアデールの目の奥に焼き付いている。いつもポーカーフェイスの夫の精悍な顔に一瞬浮かんだ、傷ついた子供のような表情―。

何故、苛立ちに任せてあんなことをしたのだろう。なぜ良い夫婦関係を築こうと努めてくれていた夫の気持ちをあんな風に踏みにじってしまったのだろう。

あの時の旅行の出来事を境に、二人の間にはもはや修復できない溝が入った。

そうなるともう後はあっという間だった。

 

心を完全に閉ざした夫と、反りの合わない婚家の人間の中にい続けることに耐えかねたアデールは、結婚後一年を待たずに実家へと帰って行った。

 

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―本当は、夫ともっと仲良くしたかった。いつか時間が二人の距離を縮めてくれるものだと漠然と思っていた。…決してこんな結果を望んでいたのではなかった。

人の心が自分の心と同じように、傷つきやすく思いやりをもって接しないとその関係はあまりにも容易く崩壊してしまうという事をアデールは身をもって学んだ。

この年にして漸くアデールは「人の心を思い遣る」という素養を身につけた。

だけど、その素養と引き換えにした代償は、あまりにも大きなものだった。

 

今年に入ってユスーポフ家と親しくしている一家の当主の結婚何十周年だかの記念パーティに、夫が新しい恋人を同伴したと聞く。そこで彼は―、自分との離婚が成立したら彼女と結婚すると、周りの人間に婚約者としてその恋人を紹介していたそうだ。

 

もう完全に自分とレオニードとの道は別たれてしまった。

彼の傍らに自分の居場所は永遠に失われた。

零れたミルクは決して元には戻らない。

だけど、どうしたらミルクを零さずにいられるか、その方法をアデールは学んだ。

 

― もう、ミルクは零さない。

 

アデールは、この身につけるのが遅すぎた素養を、自戒を込めて一番傷つけた、そして一番仲良くしたかった人間に一番最初に使おうと決心した。

 

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現在離婚協議中の妻の弁護士から、アデールが全面的に条件を飲んで離婚に応じるという連絡を受けた。

散々渋っていたアデール側からあっけなくしかも突然に離婚の提示を受け訝しんでいたレオニードに、弁護士が条件通り離婚に応じる姿勢を示したアデールが出したたった一つの条件を伝えた。

それは―、「最終的な離婚の手続きの際に、新しいパートナーに合わせて欲しい」というものだった。

 

気が進まないがその事をユリウスに伝えると、彼女はそれを承知してくれた。

 

最終的な手続きは今週末の日曜、市内のホテルのティールームで双方の弁護士を立てて行われる運びとなった。

 

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そして日曜日―。

 

離婚の事務手続きは双方の優秀な弁護士立ち合いの元で円滑に進んで、漸く一年弱に亘った離婚協議は成立と言う形でピリオドをうった。

 

「お久しぶり」

「ああ…」

晴れて夫婦関係を解消した夫と言葉少なく挨拶を交わす。

 

事務手続きが終了し、ティールームのテーブルを沈黙が支配する。

 

― 言わなければ・・・・。今、言わなければ。

 

「お前の条件通り、ユリウスを連れてきている。今ロビーで待っているから、呼んでもよいか?」

 

アデールが口を開きかけたその一瞬先に、元夫がアデールに切り出した。

 

「え…えぇ。お願いします」

 

レオニードがその言葉を受けて、電話をかける。

通話相手はロビーで待機していた新しいパートナーだろう。相変わらず言葉少な気に「…ああ。済まない」と相手と通話している元夫の様子をアデールは眺めていた。

 

ほどなくして、ティールームに一人の女性が入って来た。

美しい金髪をタイトに纏めて、清楚な紺色のワンピース姿の女性がテーブルに歩み寄って来る。

 

話には聞いていたけれども、美しくそして若い。

 

覚悟はしていたものの、こうして新しいパートナーを目の当たりにすると、失ったものの大きさが改めてアデールの心を苛む。

 

― このうら若い娘が、わたしにはできなかったことをこれから彼の隣で実現していくのだ。

 

その現実にアデールは軽いめまいすら覚えたが、彼女が生まれながらに持っている高い矜持がそれを押しとどめた。

 

娘がレオニードに優しく促され、挨拶をする。

 

「初めまして。ユリウス・フォン・アーレンスマイヤと申します。こんな形での対面となってしまい、恐縮です」

言葉少な気に目の前の娘が挨拶する。

外国人だと聞いていたが、綺麗な発音のロシア語を話す。

きっとパートナーの国で人生を過ごすために、懸命に学んだのだろう。

 

― 完敗だ。

 

アデールは目の前の新しい元夫のパートナーに心の中で白旗を掲げた。

 

「こちらこそ、こんな不愉快な場にお呼び立てしてしまってごめんなさいね。でも、是非あなたに一目お会いして、挨拶したかったの。わたくしはこの人を、レオニードを幸せにしてあげることが出来なかった。本当にわたくしの不徳の致すところだと…今は後悔と反省しているばかりです。レオニードと、どうぞお幸せに。そしてこの人を、幸せにしてあげてくださいね。それから、これからも多分わたくしたち、色々な場所で顔を合わせる事も多々あるでしょうけれど、今回の事は水に流して…、これから仲良くしていきましょう?」

 

嫣然と優雅に微笑んでアデールは目の前のうら若い夫の妻になる女性に右手を差し出した。

 

 

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~~禊~~

 

市内某ホテルのティールームで、レオニードとユリウスがアデールの背中を見送る。

 

「…」

 

アデール一行が去った後のテーブルに向かい合わせで座った二人の間を、何とも言えない沈黙が支配する。

押し黙って二人とも目の前の飲み物を口に運ぶ。

 

「レオニード・・・一緒に行ってほしい所があるの・・・」

 

どれぐらいそうしていただろう。やがてその沈黙を追いやるようにティーカップをソーサーに置いたユリウスがそう切り出して、ニッコリと微笑んだ。

 

ユリウスに連れられて向かった先は、繁華街のショッピングモールの中にある若い女性向けのカフェだった。

 

パステルカラーを基調としたポップな内装の店内は、若い女性で埋め尽くされていた。いかついダークスーツ姿のレオニードがこの空間では一際異彩を放っている。黄色い声とスイーツの甘ったるい香りに思わずレオニードは軽いめまいを覚える。

 

店員の若い女性が二人を席へと案内する。雰囲気にのまれて茫然と突っ立っているレオニードの背をユリウスが優しく席へと促した。

 

席についたユリウスがメニューも開かずに、「ジャンボパフェ、二つ」とオーダーする。

 

「おい…ユリウス…」

 

焦るレオニードにユリウスがニッコリと微笑む。

 

「ここのジャンボパフェ、一度挑戦してみたかったの。レオニード、付き合って」

 

ほどなくして、まるで洗面器のようなバカでかいガラス容器に溢れんばかりに盛り付けられたチョコレートパフェが運ばれてきた。

 

チョコレートソースのかかったクリームとスポンジが層になって容器に詰め込まれた上に、溢れんばかりのフルーツ、ソフトクリーム、ブラウニー、マカロン等々がゴテっと積み上げられている。

 

そのさながらスイーツの「バベルの塔」に、思わずレオニードの腰が引く。

 

そんなレオニードにユリウスは

 

「ほら!頂こ!!…あ、時間内に食べきらないと2500ルーブルだから!!頑張ろ!」

 

とスプーンを手に取り、レオニードに差し出す。

 

差し出されたスプーンをレオニードがノロノロと受け取る。

 

天辺のクリームまみれのブラウニーを指でつまんで口に入れる。

 

殺人的な甘さがレオニードの舌と脳天に突き刺さる。

 

目だけ正面のユリウスに向けると、彼女は夢中でスイーツの山をスプーンでつつき、喜々として口に運んでいる。

店内を見渡すと、どの席でもある者は友人とおしゃべりに興じながら、そしてあるものはスマホを弄りながら、ジャンボパフェの山に至福の表情で切り崩している。

 

― 全く女というものは…。

 

その様子にやや気圧されながらも、レオニードは観念してスイーツの魔の山に着手する。

 

― これは…禊だ。禊だと思って甘んじて受け入れよう。

 

眉間にしわを寄せながら激甘のパフェを口に運ぶ。

 

パフェを切り崩しながら、先ほどのティールームでの出来事が甦る。

 

アデールの口から出た思いがけない言葉。

 

破綻した結婚生活を振り返り、反省と後悔でいっぱいだと言った彼女。最後に自分たちを祝福して、今までの事を水に流して仲良くやって行こうと新しい伴侶にそう言った彼女―。

 

そんな誠意を見せてくれた彼女に対して、一体自分は何を返すことができるのだろう。

 

口に広がるパフェの甘さとは裏腹にレオニードの心にほろ苦いものが広がる。

 

「私は…うまくいかない結婚生活に傷ついたのは…自分だけだと思っていた・・・・。どこかで加害者は妻で、自分は被害者だと…思っていた。私が傷ついて不愉快な思いを抱いていたのと同じように、彼女も又、傷ついて不愉快な思いを抱えていたのに全く気が付かなかった。。。。あの結婚が破綻したのは、私に思いやりが足りなかったからなのだろう。…今になってそんなことがやっと分かるなんて…私はとんだ思い上がりの大馬鹿者だ…」

 

ノロノロとパフェを口に運びながら、訥々と破綻した結婚を語るレオニードに、ユリウスは一言も口を挟まず耳を傾ける。それに対して何を意見するわけでもなく、相槌を打つわけでもないが、自分の独白に真摯に耳を傾けているユリウスの気配が伝わってくる。

 

語り終わったレオニードとユリウスの間に暫し沈黙が流れる。

 

「レオニード…」

 

その沈黙をユリウスがおもむろに破る。

 

顔を上げたレオニードにユリウスが腕時計を彼の前に指し示す。

 

「時間!あと五分だよ!!早く早く!!!」

 

見るとユリウスのパフェの器はほぼ完食されている。

 

― 普段は小食のくせに、なんであの気違いじみたアレを完食できるんだ?女の胃袋は…本当にスイーツは別腹が用意されてるのか??!

 

思わず相方の殆ど空になった洗面器のような器に目を瞠る。

 

「ほら!早く早く!!…ぼくも手伝うから!頑張って」

 

ユリウスがレオニードを促し、目の前のまだ半分以上パフェが残ったその器にスプーンを伸ばす。

 

「ば…お前。これ以上食べたら腹を壊すぞ?私の分はもういいから…無理をするな!」

 

「だって…2500ルーブル…」

 

「もういいから!…ありがとう。ユリウス。気持ちだけで十分だ」

 

レオニードがユリウスの伸ばしたスプーンを優しく手で制する。

 

「…そう?」

 

「ああ。これは…そうだな。私の禊だ」

 

「みそぎ?何ソレ」

 

「分からなければ、よい」

 

結局レオニードは2500ルーブルを支払い、晴れて結婚を控えた婚約者と共にカフェを後にした。

 

 

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「す、すまないが・・・・。胃薬を持ってきてくれ…」

 

慣れないスイーツを大量に摂取したためか、その晩…というか晩を待たずにレオニードの胃と腸が猛烈に暴れ出す。

 

暫くトイレに籠ったのちに、大暴れする胃を押さえ身体を折るように這う這うの体でベッドに横たわる。

 

「大丈夫でございますか?」

 

オロオロした顔で執事が盆に水と胃薬を持って飛んでくる。

 

― 若様は…今日のお話合いでどれだけメンタルを削られたのか…??

 

痛まし気な顔でベッドで身体を折り曲げているレオニードを見つめる執事にレオニードがあらぬ誤解をかけられていることに気付く。

 

「そうではない…。これは、禊なのだ。だから案ずるな…。イテ…」

 

胃の痛みに半分顔をしかめ、半分苦笑いを浮かべながらレオニードは執事から胃薬とグラスを受け取った。

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