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クララ・フォン・ザイデルフォーファーの日記 番外編
 
遺稿

「これを…出版社に買って貰おうかと思うのだけど…どうかしら?」

 

1933年早春ー。

 

ベルンへと移住してまだ間もない頃だった。

やっと身辺が片付き、引っ越しの喧騒が収まった頃だった。

 

「これは…」

 

私がイザークに差し出したのは、彼の今は亡き古い友人の遺したという、エチュード集だった。
それは、私がー、私の作った曲が初めて楽壇で演奏された時に、その記念としてイザークが私に授けてくれたものだった。

 

「そりゃあ、今は移住したばかりで僕もこれから職を探さなくてはならないけれど…。でも、しばらく暮らしていくだけの蓄えはあるから、心配しなくてもいいよ」

と、わずかな戸惑いを浮かべながらそう言ってくれたイザークに対して、

 

「いいえ。そういう事ではないのよ。…確かに間もなく子供も生まれるし…、お金が必要なのは事実だけど、それだけではないの。…ねえ?このエチュード集は、素晴らしいものだわ。作品一つ一つの格調高い美しさもさる事ながら、ピアノを学ぶ者にとっての、不可欠な要素が欠けることなく盛り込まれている。
ーわたしはこのエチュード集を授けて貰ってから、それこそ、何千何万回とこれを弾いてきたわ。のみならず、このエチュード集は作曲家クララ・フォン・ザイデルフォーファーの範として、常に私の音楽の道を照らし続けてくれた。
私はもう、このエチュード集の恩恵を充分過ぎる程に被った。ーだから、今度は私だけじゃなくて、私たちに続く後進の者たちの行く道を照らすべきだと思うの。…このエチュード集は、世界中の音楽を志す者たちの元へ届けられて然るものだわ」

と、私は自身の心のうち、そしてこのエチュード集への想いを率直に打ち明けた。

イザークは私の話にじっと耳を傾けていた。

「確かに…君の言うとおりかも知れない。これは…僕たちだけのものに留めておくのは…僕たちの元で埋もれさせてしまうには、あまりに惜しい、音楽界の宝だ。…僕たちの手で、この珠玉のエチュード集を、世に出してやろう」
ー明日、このエチュード集を持って、クラウスの所へ相談しに行こう。出版関係にコネのある彼ならば、力になってくれるかもしれない。

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翌日ー

 

私たちはその楽譜を携えて、ゾンマーシュミット家を訪れた。

 

指を故障した私たち夫婦に代わって、ユリウスがそのエチュード集を弾いてみせる。

弾き終えたユリウスから、長い溜息が漏れる。
一部始終を聴き終えたクラウスが低く唸る。

 

「…イザーク、今すぐこのエチュード全てに解説をつけろ。それからクララ、君は序文を書くんだ。…このエチュード集は、必ず俺が一番いい条件の出版社に話をつけて、世に出してやる。すぐ取り掛かるんだ!ユリウス、お前も手伝え!」

 

クラウスがおもむろに私たちの陣頭指揮を執る。

 

「え?えー⁈今ここでかい?」

 

「当たり前だ。今やらなくてどうする。お前たちだって、ー出来れば子供が生まれる前に、原稿料を手にしたいだろう?いいか?い・ま・だ!」

 

クラウスの檄にイザークの顔が生き生きと輝きだす。

 

「そうだな。今だよな。…ユリウス、悪いけど…所々、弾いてもらってもいいかな?あと…原稿用紙と五線紙を用意してもらっていい?」

 

イザークの要求に、ユリウスの碧の瞳も輝きだした。

 

「任せて!」

 

そう言って、ユリウスはクラウスの書斎に原稿用紙と五線紙を取りに行った。

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エチュード集の解説と序文の執筆作業は、ゾンマーシュミット家の地下の音楽室で、夜を徹して行われた。

 

テーブルに原稿用紙を広げ、私が慣れない様子でマス目を埋めていく。
私が書いたものをクラウスが読んでチェックし、OKが出たらユリウスが更にそれを校正してタイプライターで清書する。

 

イザークは一曲一曲に解説をつけていく。楽譜を丹念にさらい、時にメロディーを口ずさみ、それでも足りない時は、ユリウスに頼んでその箇所を弾いて貰い、五線紙にその部分を写し、解説をつける。
イザークの書いた解説と五線紙をユリウスが照らし合わせて、番号を振って行く。

 

私が最後の一枚を書き終えてクラウスに内容をチェックしてもらい、それをユリウスに渡す。

 

「よーし!クララは脱稿だ。よく頑張った!…おい?ユリウス⁈ーコラ!寝るな‼︎このばかたれ」

クラウスが、金の頭を揺らして舟を漕ぎ始めたユリウスをの肩を揺さぶった。

いつの間にか、時計は深夜を回っていた。

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「お疲れ様でーす。…これ、お夜食とお茶です」

 

そんな怒涛の執筆作業を展開していた私たちに、リョーニャが夜食とお茶を差し入れてくれた。

 

「んん〜〜。お茶飲んで、頭がスッキリした!…リョーニャ、ありがとうね」

お茶を一口飲んだユリウスが大きく伸びをする。

 

「全く、頼むぜ〜。まだイザークの解説の校正が残ってるんだから」

 

「えへへ、ごめんなさい」

 

「クララ叔母様は、少し休んだ方がいいんじゃないですか?無理しないで」
ー母屋の客室で休んでますか?

リョーニャが私の身体を気遣ってくれた。

「大丈夫よ。それにあとちょっとで解説の方も終わると思うし…」

私はリョーニャの気遣いに感謝しつつ、それを固辞した。

「そうですか?…じゃあ、ブランケット持って来ますので、そこのソファで横になって休んで下さいね」

リョーニャはそう言ってブランケットを持って来てくれた。
 

私は有難くリョーニャの好意に甘えて、ソファに横にならせて貰った。
充実感がもたらす心地の良い疲労感で、私はいつしか眠りに落ちていた。

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「出来た〜〜!」

 

三人の歓声で私は目覚めた。

 

目を真っ赤に充血させたクラウスと、燃え尽きて放心状態になったイザーク。そして眠さのあまり碧の瞳をトロンとさせたユリウス…。

半地下の窓からは、明け方の光が射し込み、外からは早起きのスズメの声が聞こえてきた。

 

「よーし!イザークもユリウスもよくやった‼︎あとはこれを俺が万難を排して売り出すだけだ!」

 

「んん〜〜!」

ユリウスが眠気を払うように大きく伸びをした。

 

「もう朝だね。イザークもクララも、ご飯食べてって。今用意するから…」

 

そう言って、ユリウスは首をぐるぐると回しながら、音楽室を出て階段を上がって行った。

 

結局朝食までご馳走になり、戦場の跡のような音楽室を片付け、私たちがアパートに戻ったのは、昼近くの事だった。

 

アパートに着いて、二人でベッドに倒れ込む。

 

「疲れたね…。君にも大分無理をさせてしまったけど…身体は大丈夫かい?」

ベッドに潜り込んだイザークが身重の私の身体を気遣う。

 

「大丈夫よ…。大変だったけど…何だかとても楽しかった…」

 

「クラウスの陣頭指揮でね…」

 

「うん。中々スパルタだったわね…」

 

「そうだな」

 

「ねえ…」

 

「なんだい?」

 

「何だか…ひな鳥が巣立って行くのを見守る…親鳥の気分だわ。あのエチュード集、これから…海を越えて、世界中の音楽家の卵に弾いてもらえるといいわね」

 

「そうだね」
ーきっとそうなるよ…。

 

私たちは、手を取りあって、深い眠りについた。

 

 

私は夢を見た。

 

あれは…懐かしい母校のウイーン音楽院のレッスン室だ。

 

ピアノに向かってあのエチュードを弾いているのは…若い男性?

 

私の気配に気づいたその男性は、ピアノの手を止め振り向いた。

 

逆光で顔がよく見えないー。

 

彼の顔をよく見ようと、目を細めたその瞬間ー、彼は白い大きな鳥に姿を変え、その白く美しい翼を広げて、窓から青い空へと飛び立って行った。

 

綺麗な大きなー、白い鳥だった。

 

彼が飛び立った後の空にはー、あの、エチュード集の楽譜が、まるで鳥の羽根のように舞い散っていった。

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クラウスが話をつけてくれた出版社は、新大陸に大きな販路を持っている会社で、そのエチュード集はびっくりする程の好条件で買い取って貰えた。
(クラウス曰く「これからは、新大陸―、アメリカやカナダ、それから南米からも、じゃんじゃん優れた才能が現れるだろう。20世紀後半のクラシックシーンは、間違いなくアメリカが中心になる」との事だ)

更には、ああ!なんという偶然だろう!!そのアメリカでの出版販売の総代理店が、何と作者のラインハルトさんの実父の会社であったという。

(彼は第一次世界大戦前にウイーンからアメリカへ移住していたらしい)


その父親ー、フォン・エンマーリッヒ氏は、20年近くも前に世を去った子息の遺稿に、泣き崩れたという。


「息子が生きていた証を、世に出してくれて本当にありがとう」と、直々の感謝状を頂き、改めてー、今回、この遺稿を手放して良かっと、心から思った。

©2018sukeki4

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