Bist du bei mir
~あなたばそばにいれば~
1960年 初冬 スイス
アレクセイ―、戦中戦後を代表する音楽評論家のクラウス・ゾンマーシュミットは先頃より体調を崩し、冬を迎えるころにはいよいよ床に終日臥せたきりの日が多くなっていた。ごくごく一部の人間にしか知られていないが、その正体が実は元ロシア人の革命家であり、ドイツからサンクトペテルブルク、革命後にロシアからパリ、そしてスイスへと流転に次ぐ流転の人生―、そしてシベリア流刑とはじめとする若い頃から蓄積された苛酷な生活が彼の頑健な身体を緩やかに、しかし、着実に蝕み、いまや生命の火が静かに燃え尽きようとしていることは、家族にもうすうす感じ取れた。
「アレクセイ、寒くない?苦しいところはない?」
アレクセイの臥せたベッドの傍らに置かれた椅子に腰かけたユリウスはアレクセイの深く皺の刻まれた大きな手を取り、囁く。
微睡みから覚め、薄く目を開けたアレクセイは自分の手を取ったユリウスの白い手をもう一方の手で優しく撫でた。
「ああ、大丈夫だ。今日はだいぶ具合がいいよ。」
病みついて以来自らの身を顧みず自分につきっきりで付き添ってくれている愛しい妻を労わる。その声には妻―、不滅の恋人への限りない愛と優しさが込められていた。
俺の不滅の恋人―。
少女の頃にドナウ川のほとりの古い街で出会い、一途な愛を注いでくれた妻。ミモザの咲くミュンヘンの地で別れ、その後自分を追って単身ロシアへやって来た彼女を残酷な言葉で突き放し、それでも時を経て再び革命前夜のサンクトペテルブルクで運命に導かれ再会し、そこで愛を育み、愛の結晶を設け、再び革命の嵐の渦中で生き別れ、それでも四度レ・ザネ・フォルと呼ばれた第一次大戦後のパリで再び出会い、以来連理の枝比翼の鳥の如く、二度と離れずその後の年月を固く手を取り過ごしてきた。
彼女の手を撫でていた長い指は、彼女の白い頬から美しい金色の髪へと伸び、その柔らかな触感を心ゆくまで愉しむ。
ユリウスはその愛撫にうっとりと目を閉じ身を委ねる。
「お前、だいぶやつれているじゃないか。俺の身体よりお前の方が心配だぞ。頼むからちゃんと休んでくれ」
アレクセイはユリウスの髪を撫でながら、毎日つきっ切りで自分に寄り添っている妻の身を案じる。
「ぼくは大丈夫だよ。あなたの傍にいたいの。お願いだから、ぼくを置いて行ってしまったりしないでね。」
ユリウスはアレクセイの手を両手で包み、その碧い瞳に涙をいっぱいに浮かべて訴える。
「ばかたれ、俺はまだ死なんよ…」
アレクセイは暖かな光を帯びた鳶色の瞳でユリウスに微笑みかけ、優しく髪を撫で梳いていた手を、くしゃくしゃと遠い昔のように乱暴にかき回し、
「少し疲れた。眠るからお前も休め」
といって、その明るい鳶色の瞳を閉じた。
アレクセイが瞳を閉じるのを待って、ユリウスは部屋のカーテンを閉め、部屋を後にした。
アレクセイの命の火はもうすぐ消えようとしている。
強がってはいるけれども長年付き添った良人の終焉がそう遠くないことを、彼女も確信をもって感じ取っていた。
アレクセイが病の床につくようになってからユリウスの心を絶えず苛む恐怖―。
それは、暗闇の中にあった自分の魂を常に照らし導いてくれたアレクセイを失うこと。
若い頃に罪を犯した自分―。
恐ろしい罪の血にまみれた自分の両手。
その秘密を共有していた母の死後、秘密は彼女の胸の奥深くに仕舞われ、誰にも話す事はなく封印され続けていた。
激動の人生を必死で切り拓きながら生きて来たここ数十年の間は、それは胸の奥深く潜んでいわば彼女の良心の奥底に蓋をされ眠っていた状態だったが、齢を重ね人生の晩節にさしかかり、そして伴侶の死を間近に感じるようになった昨今、彼女の中で眠り続けていたその罪が、にわかに目を覚まし、彼女の良心を苛み続けていた。
怖い―
…何が?
アレクセイを、光を喪う事?
それとも―
一人残され裁きを受けることが?
ユリウスが心の闇の深淵に向かって、静かに自問する。
答えは―、返って来ない。
「ねえ…アレクセイ」
ユリウスがベッドで微睡んでいるアレクセイの胸元に頬を寄せ小さな声で呼びかける。
「ん?なんだ?」
そんなユリウスの金の髪を優しく手で梳きながらアレクセイが答える。
「アレクセイ―、ぼくを置いて行かないで。あなたが旅立つときは…必ずぼくを連れて行って…」
アレクセイの胸元に頬を寄せ髪を撫でられながらユリウスは呟いた。
「なんだよ…。俺はまだ死なんよ。…勝手に人を殺すなよ。ばかたれが」
ユリウスのその呟きにアレクセイはちょっと驚いたように眉を上げたが、それを悟られないようことさらにおどけてみせた。
「本当に?…ねえ、アレクセイ。本当にぼくを置いて行っちゃいやだよ。…取り残されて一人裁きを受けるのは…怖い」
ユリウスは顔を上げてアレクセイの顔をまじまじと見つめる。
彼女の碧の瞳は見開かれ、切実な色を浮かべていた。
アレクセイはそんな彼女の頬に手を伸ばすと、鳶色の瞳に優しい笑みを浮かべ彼女の頬を髪を優しく撫でた。
「一体…何が怖いんだ。裁きって…なんのだ?」
アレクセイのその問いにユリウスはただただ首を横に振り続けるだけだった。
ふとした時に見せる彼女の心の闇―。彼女を長年苛み続ける罪の存在―。
アレクセイにはその正体は分からないが、彼女と長年寄り添っていて常に彼女に付きまといつづけたその黒い影の存在は認識していた。
ロシア時代に正体をなくすほどに怯えていた吹雪の音。
そして腕に残る銃創―。
彼女の罪がどんなものであるのか彼女が口を堅く閉ざしている以上アレクセイにも分からない。
だけど、一生懸命にひたすら一途に人生を生きて来た彼女が、穏やかな晩節を迎えた今、その罪に怯え慄く姿を見るにつけ、アレクセイの心もまた痛んだ。
今はこうして、罪に怯え涙を浮かべる彼女の背中を、髪を優しく撫でて慰めることも出来るが、もう間もなく自分の命も尽きるであろうことは、当のアレクセイが一番良く分かっていた。
― 俺がいなくなったら…。俺の死後誰がこいつの心を慰めてやれるのか…。
アレクセイもまた、自らの死が訪れた後に残されるだろう妻の苦しみを想い、心がかき乱されるのだった。
― …ウス、ユリウス…。
いつの間にか眠るアレクセイの横に寄り添って自分も眠りに誘われていたようだ。
囁くようなアレクセイの低い声にユリウスが覚醒する。
― アレクセイ、どうしたの?お水飲む?
頭を上げた彼女の頬をそっと撫でるとアレクセイは首を静かに横に振った。
― ユリウス、お別れだ。俺は…もう行かなくちゃならない。…あちらでお前を待っているから。必ずお前が来るのを俺は待っているから…暫しの別れだ。
ユリウスはその言葉に、アレクセイの顔を仰ぎ見た。碧の瞳は驚愕と悲嘆で大きく見開かれている。
― いや!…おいて行かないでって…連れて行ってって…言ったでしょう?…お願い、ぼくを連れて行って!!
ユリウスは悲鳴に近いひきつった声でアレクセイに縋った。
― だめだよ…。ユリウス。お前は…与えられた生を…最後まで全うするんだ。俺は…対岸から見守っているから。大丈夫だ。
泣きじゃくる小さな子供をあやすように、アレクセイがユリウスの背中を宥めるように撫で続ける。
そんなアレクセイにユリウスはイヤイヤをするように首を左右に激しく振り続け彼の身体に細い手を回した。― まるで、行かせまいとするように。
そんな彼女を少し困ったような顔で暫く宥め続けていたアレクセイが、漸く―、意を決したようにユリウスに話しかけた。
― じゃあ…、お前が本当にそれを望むのなら…、俺と一緒に行くか?
頭の上から不意に降って来たアレクセイのその言葉に、ユリウスは涙に濡れた顔を上げて夫を見上げた。
― 本当?…連れて行ってくれるの?
― ああ。…本当は…こんな事はしたくないが、な。
アレクセイがユリウスの涙を指で優しく拭う。
― 嬉しい…。本当に…おいて行かないね?
半世紀以上前のあのミモザの薫る屋敷で彼女がアレクセイに問い確かめたように、あの時と同じようにアレクセイの身体に両手を回し大きな胸に頬を寄せた。
― ああ。今度は…お前を置いて行かないよ。…一緒に行こう。
―さぁ…
アレクセイがユリウスに手を差し伸べた。差し伸べられた大きな手にユリウスが自分の手を乗せる。
アレクセイがユリウスのほっそりとした白い手を握りしめた。
温かな力強い大きな手。
― 行こうか…。
アレクセイに握られた手をぎゅっと握り返しユリウスが頷いた。
翌朝―
いつまでも部屋から出てこない母親を訝しんだリョーニャが目にしたのは―、
二人手を取って寄り添い合い、まるで眠るように安らかな満ち足りた顔で天に召された、両親の姿だった。
Bist du bei mir, geh ich mit Freuden
zum Sterben und zu meiner Ruh.
Ach, wie vergnügt wär so mein Ende,
es drückten deine lieben Hände
mir die getreuen Augen zu!
あなたがそばにいれば、
私は喜びのうちに終末の安息を迎えることが出来るでしょう。
あぁ、あなたの愛しい手が私の瞳を閉ざしてくだされば、
私の終末はなんと満ち足りたものになるでしょう。
(「あなたがそばにいれば」 ~J.S.バッハ《アンナ・マグダレーナの音楽帖》より)