ランメルモールのルチア
1955年 ベルリン
9月も終わりのベルリン―。ゾンマーシュミット夫妻は州立歌劇場を訪れていた。
演目はドニゼッティの「ランメルモールのルチア」。タイトルロールのルチアを演じるのは、今や世界的なオペラ歌手へと成長したマリア・カラス。そして指揮は後に「帝王」と呼ばれるヘルベルト・フォン・カラヤン。
ゾンマーシュミット夫妻はまだ駆け出しの頃に縁あって知り合い、娘のように可愛がったこの世界的なディーヴァの招待を受けてチューリッヒからこの「愛娘」の晴れ姿を観に来たのだった。
だが、そのいわば「愛娘」の晴れ舞台を観に来たにしてはユリウスの表情は冴えない。
顔色も悪く、口数も少ない。
「おい、ユリウス。さえない顔してどうしたんだよ?なんか悪いものでも食ったか?」
「アレクセイじゃああるまいし、変なものなんて食べないよ!」
「じゃあ、どうした?」
優しい鳶色の瞳でアレクセイはユリウスに尋ねる。
「…。ぼくはベルリンが好きじゃないんだよ。いやな事を思い出して。」
ユリウスは重い口を開く。
ロシアから戻って、このベルリンであらぬ恨みからその身を狙われて危うく命を落とすところだったユリウス―。
「それに、マリアには悪いけれど、この“ランメルモールのルチア”も好きじゃないんだ。
手紙のせいで人生狂わせるなんて、ぼくにはシャレにならないよ。。。。」
かつてアレクセイをおびき寄せるために手紙を書かされたユリウスにしたら、これはまさに“シャレにならない”演目に違いない。
「ま、まあ。確かに、お前にとってはシャレにならない場所と演目だけどよ。マリアも、俺達に最高にいい姿見せたかったんだよ。なんたってランメルモールのルチアといったら今や世界的ディーヴァ、マリア・カラスの当たり役だぜ。それに指揮者は、カラヤンだ。ほら!お前カラヤン好きだろ?ほらーーー!そんな仏頂面すんなよ!!ユリウス。せっかくの美人が台無しだ。」
アレクセイはそう言ってユリウスの頬を軽くつまんだ。
「もぉ!離してよ…。でも、そうだね。せっかく招待してくれたんだものね。」
ユリウスは笑顔を作る。
「そうだぞ。久しぶりなのにそんなしけた顔してたらマリアもがっかりするぞ。」
アレクセイは今度はユリウスの頭に大きな手を乗せ、ポンポンと軽く撫でた。
「やっぱりだめだ…。僕はもうこれ以上観ていられないよ。」
物語も終盤に差し掛かり、ルチアに扮したマリアが血塗られた花嫁姿で狂乱のシーンを歌い終わった直後―。
迫真の演技と劇場を熱狂の渦に包み込む圧巻の歌唱で狂乱の場を歌い終えたマリアに会場中から止むことのない拍手が贈られ、演奏が一時中断する。
そのタイミングでユリウスはとうとう堪えきれずアレクセイにそう告げた。
暗い劇場内でも分かるほどに顔色は紙のように蒼白になっている。
手を握るとその手は血の気が失せ、ひんやりと冷たかった。
「大丈夫か?もうホテルへ戻るか?」
「ううん、大丈夫。ロビーで休んでるから。アレクセイは僕の分もマリアの舞台を観てきて」
「よし、分かった。でも無理はするんじゃないぞ。しんどかったらホテルへ戻るんだぞ、いいな。」
再び演目が再開される直前にユリウスは会場の人間に誘導されホールを後にした。
《ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮、マリア・カラス主演「ランメルモールのルチア」》
終演後―
観客席から、カーテンコールに出たマリアに惜しみのない拍手を贈っていたアレクセイに、そっと劇場の支配人が近づいて耳打ちした。
「すみません。クラウス・ゾンマーシュミットさんですか?プリマドンナが終演後是非楽屋へ…と。どうぞ、お越しくださいませ」
中座し、アレクセイは劇場の人間に誘導されて中座し、延々と続くカーテンコールで湧き上がるホールを後にした。
ロビーに出るとそこにマネージャーが控えていた。
お互い軽く挨拶と握手を交わす。
「マリアが…、是非にあなた方に楽屋へ来てほしいとたっての願いなので…すみませんねぇ」
マネージャーが慇懃にアレクセイに告げた。
「いえ、光栄です。ちょっと妻を呼んでまいります。…あいにく途中で具合を悪くしたようで、中座しておりました。せっかくご招待いただいたのに申し訳ない…」
「いえ、こちらこそ。奥様の具合は大丈夫でしょうか?体調がすぐれなかったのに無理してお越しいただきこちらこそ申し訳ない」
マネージャーがユリウスの体調を慮り恐縮する。
「いえいえ。マリアのあまりに真に迫った演技にすっかり呑まれて…酔ってしまったのですよ。妻は…感受性の豊かな女なもので…」
「そうですか…。おや、奥様は…」
ロビーを見渡しても姿の見えないユリウスに、アレクセイはロビーにいた係員に問い合わす。
ユリウスは係員に伝言を残していたようだった。
「すみません。やはり気分がすぐれなく医務室で休ませてもらっているようです。ちょっと様子を見に行ってきます」
「私も一緒にまいりましょう。…もしだいぶお身体が辛いようでしたらすぐにタクシーを手配いたします」
「…それは済まない。―何から何までお気を使わせてしまって…」
「いえ。いいんですよ。今日マリアから「大切な人たちが観に来るから、くれぐれもよろしく頼む」と仰せつかってますのでね。…あの気難しいマリアが「大切な人」という人物は…ごく限られておりますからね…。肉親でさえ《大切な人》になりえなかったマリアが…」
そこまで言うとマネージャーは、ふと口をつぐんだ。
「…すみません。今の愚痴は忘れて下さい。」
「いえ…。聞いていますよ。マリアからは。家族と…親と上手くいっていないという事は」
「そうですか…。まるであなた方の事を話すときの彼女は…小さな娘が親の事を話すように瞳を輝かせているので…。実は今日お会いするのを楽しみにしていたのです。あの子を…マリアを愛してくれてありがとうございます」
劇場の医務室へ向かう廊下を行きながら、そのマネージャーはふと床に視線を落としてアレクセイに感謝の言葉を述べた。
「マリアは…歌に対して熱心で、ちょっと不器用なところはあるけれど、純粋ないい娘ですよ。私も妻も―、それから私達の娘もその夫も…マリアの事が大好きだ」
「そう言ってくださると…本当に嬉しい。あ、あなたのお嬢様もオペラ歌手でいらっしゃいましたね」
「あぁ。ご存知ですか。マリアほどの世を覆う才能はありませんが、ね。まあそこそこ使ってもらっているようです。…うちの娘もマリアというんですよ」
「何度か舞台は拝見いたしましたよ。とてもキュートなスザンナだった」
「ありがとうございます」
― ここです。
医務室をノックし入室すると、青白い顔をしたユリウスがベッドから上体を起こした。
「ユリウス、大丈夫か?」
「うん…。もう平気」
起き上がったユリウスが少し乱れた髪をそっと手ぐしで整えた。
「顔色が悪いぞ。マリアに楽屋に招待されたんだが、大丈夫か?」
アレクセイが心配そうにユリウスの白い頬に手を触れた。
「うん。もう大丈夫。…ちょっと化粧室でお化粧直してくるね」
ユリウスは医務室のドクターに休ませてもらった礼を述べるとパウダールームへと向かった。
「お綺麗な奥様ですね」
パウダールームへ行ったユリウスを医務室で待ちながらマネージャーがアレクセイに話しかける。
「ああ。― そうだな」
「あなた方のお嬢さんともそっくりだ。マリアがね、よくあなたの奥様の話をしていて…。それは美しくて、羨ましい…と。彼女は、昔から外見にコンプレックスを持っていましたから」
「今はすごく綺麗じゃないか。…久々に彼女を見て、見違えたよ。昔もキュートだったが…その、もっとぽっちゃりしていた」
アレクセイのそのマリアを気遣ったような物言いに、フッとマネージャーが笑みを浮かべた。
「そうですね。…彼女は太っていてもキュートだった。でも彼女は変わった。血のにじむような努力で外見を磨いて…、スレンダーな美女へとね。正直あのダイエットが…彼女の声に及ぼす影響が心配でもあるのですが…、それでもあの美貌がなければマリアはただの上手い歌手…で終わっていたでしょう。あの美貌込みで世紀の歌姫マリア・カラスになりえたのですから」
「そういうものか…?」
「ええ。…そういうものです」
「お待たせ」
ユリウスがパウダールームから戻って来た。
紅をさし直したようで、だいぶ顔に赤みがさしていた。
「よし。だいぶ見られるようになったぞ。さっきはまるでお前が狂乱のルチアみたいな顔色してたからなぁ」
「もう、ひどい!アレクセイったら。…お待たせしました。それでは楽屋へ案内してもらえますか?」
「はい。喜んで」
マネージャーに連れられて医務室を後にし、二人はマリア・カラスの控室に向かった。
「アレクセイ!ユリウス!!―会いたかった」
控室に通されると既にマリアはカーテンコールを終え楽屋に戻っていた。
衣裳の上にガウンを羽織り、まだメイクをしたままの姿で二人を迎えてくれた。
「マリア!…すっかり綺麗になって…」
「マリア…あのマリアが…すっかり見違えたぞ…立派なプリマドンナになって…」
二人が交互にマリアと固い抱擁を交わす。
「会いたかった…会いたかった。…二人に私の晴れ舞台を観て欲しかった」
二人に抱きしめられたマリアがくぐもった声で呟いた。
「よく…頑張ったね。目に耳に、そして心に焼き付けたよ」
長身の肩を震わせるマリアの背中を優しくユリウスが撫で続けた。
「私の舞台どうだった?」
楽屋でお茶を囲みながらマリアが瞳をキラキラさせて二人に感想を求めた。
「ごめんね…ぼくは気分が悪くなって途中で退出してしまったけど…、素晴らしかったよ」
「こいつはな…お前のあまりの迫真の演技と見事な歌唱に…すっかり途中で呑まれて酔ってしまったみたいなんだ…。ハハ…。それだけお前の舞台が素晴らしかったってことさ」
「そういえば…ユリウス、手が冷たい。顔色もちょっと良くない気がするわ」
マリアがユリウスの白い手を握りしめた。
「マリアの手は…暖かい」
ユリウスが自分の手を取ってくれたマリアの手にもう片方の手を優しく寄せた。
「ねえ、外にタクシーを呼んで頂戴。」
マリアがマネージャーに命じた。
「すぐホテルまで送らせるわ。今日は…ありがとう。会えて本当に嬉しかった。リョーニャとファビアンにも…よろしく伝えて」
最後にマリアはそう言うともう一度二人と抱き合い頬を寄せ合った。
「マリア、俺たちずっとお前のこと見守ってるからな…。身体だけは大事にして、頑張れよ」
「ありがとう…ありがとう」
マリアはいつまでもそう呟き続け、姿がみえなくなるまで二人の背中を見送った。
その夜―
ベルリンのホテルでユリウスが今晩の舞台を振り返る。
「やっぱりぼくは…あの演目が苦手だ」
シャワーを浴び身体を暖めたユリウスがガウン姿のアレクセイに凭れかかる。
―あの演目は…ぼくには刺激が強すぎる。
偽の手紙に翻弄されるヒロイン―、そしてクライマックスのナイフを手にした血まみれの姿…。
凭れかかって来た妻の華奢な身体をアレクセイが優しく抱きしめた。
「お前はルチアじゃないし―、俺もエドガルドじゃない。その証拠に俺たちは―、引き離された時期もあったけどそれから…、ずっと一緒に幸せに暮らしてきただろう?これからも俺はお前の傍に―こうしてずっといるから」
アレクセイは若い頃からそうしていたように、ユリウスの白い顔を大きな両手で包むと彼女の宝石のような碧の瞳に噛んで含めるように優しく言い聞かせた。
ユリウスの胸にアレクセイの低く響く優しい声が沁み渡る。
「うん…そうだね。…そうだったね。アレクセイ、これからも…最期の日を迎えるまでずっと一緒にいてくれる?」
ユリウスがアレクセイの背中に細い両腕を回し、胸に頬をすり寄せた。
「ああ…。最期の日がくるまで俺の全てはお前のものだ」
アレクセイは妻の耳元で囁いて金の髪を優しく梳いた。
― さあ、今日はお前も疲れただろ。もう休もう。
アレクセイとユリウスはベッドに入ると、お互いの温もりを分けあう様にぴったりと抱き合って眠りについた。