マリア
「僕の知り合いでよければ、伴奏を引き受けられるよ。それでもいいかい?」
3日後にオーディションを受けるオペラの副指揮を務める、新進気鋭の指揮者にそう言われて、マリアは一にも二にもなく「お願いします」と返答した。
その副指揮者、ファビアン・デ・ルッカに連れられてマリアはチューリッヒの郊外の邸宅へやって来た。
1948年。
スイス、チューリッヒの劇場で上演予定の「セヴィリアの理髪師」。25歳の気鋭のギリシャ人オペラ歌手、マリア・カラスはそこでのヒロインのオーディションを受けにスイスへやって来ていた。しかし、あらかじめ頼んでいた伴奏者が急病で降りてしまい、代わりの伴奏者を探そうにもスイスに知己のないマリアは伴奏者が見つからず、困り切っていたところに、副指揮者が救いの手を差し伸べてくれたのだった。
「ここ、僕の家なんだけどね。さあ、入って」
――お義母さん。お義母さーーん。ちょっといいですか?
広くも、さりとて決して狭くもない家の玄関にマリアを招き入れ、ファビアンは大声で叫んだ。
「はーーい。」
出てきたのは、年配の―、しかし十分に美しくエレガントな金髪碧眼の婦人だった。肩口で緩く波打って揺れるやや淡くなった金髪にぬけるような白い肌と宝石を想わす碧の瞳。ほっそりとしたしなやかな身体を、ボウタイのついた白いシルクのブラウスと黒いタイトスカートに包み、黒いシャネルのカーディガンを羽織っている姿はとても洗練されている。孫だろうか、黒い髪に黒い瞳の小さな男の子を抱いていた。
マリアはその面差しに見覚えがあった。自分をここへ連れてきた副指揮者の妻で昨年のザルツブルグ音楽祭で上演された『フィガロの結婚』でとびきり愛らしいスザンナを演じていた金髪の美貌の人気ソプラノ歌手。この婦人は彼女にそっくりだった。
「義母さん。急なんだけど、3日後、この人のオーディションの伴奏引き受けてくれないかな。曲は『セヴィリアの理髪師』の「una voce poco fa (今の歌声は)」なんだけど」
「いいよ。特に予定ないし。」
「よかった。すぐ合わせられます?」
「大丈夫だよ。ミーチャ、ちょっとジェードゥシカ(おじいちゃん)の所へ行っててくれる?」
「イヤだ、バブーシカといるー。」
「また後でね。あいたた。髪を引っ張らないで」
むずかる子供を床に下して、その婦人はマリアに向き直るとしなやかな右手を差し出した。
「初めまして。オーディションまで時間があまりないけど、よろしくね。」
差し出された白い右手はほっそりとしていて、大柄なマリアの手よりもはるかに小さく何だか頼りなくすらある。
「あの…一応プロのオーディションなんで…。いくらピアノを弾けるといってもプロの方でないと…」
ここははっきりしておかないと。マリアは、二人に告げた。
だが、若輩のマリアの生意気な言葉にも二人は特段気分を害するといった様子でもなく、
「そう。でも今ここで合わせる前に断るのは賢明ではないと思うよ。第一、君、ここで断ってほかに伴奏者見つけられるの?」
とファビアンが答えた。
そして
「その言葉は合わせてからもう一度聞くよ。…ぼくはどちらでもいいけれど。」
と金髪の婦人のほうはその整った顔にやや勝気な表情を覗かせた。
たしかにそうだ。自分は今伴奏者がどうこうと贅沢を言っている立場ではないのだ。
「生意気なことを言ってすみません。伴奏をよろしくお願いします。」
改めてマリアはその婦人に頭を下げ差し出された右手を握り返した。
「マリア・カラスと申します。」
「よろしくね。ユリア・ゾンマーシュミットです。音楽室へ案内するね。すぐに歌える?」
「大丈夫です。」
通された音楽室は広くも、さりとて狭くもなく、特別豪奢な装飾はないが、清潔で明るく気持ちの良い空間だった。
「そこの譜面台使ってね」
ユリアと名乗った夫人はピアノの蓋を開けると、ガラス扉のついた書棚からセヴィリアの理髪師の楽譜を取り出し、指を温めるために何度か軽くアリアの出だしの部分を弾き始めた。それにつられてマリアも発声練習を始める。
それぞれに数分指と声のウォーミングアップをし、頃合いを見計らってユリアが、
「それじゃあ、そろそろいいかな」
とマリアを促した。
「よろしくお願いします」
曲目はセヴィリアの理髪師のヒロイン、ロジーナのアリア、「今の歌声は」。
恋人を想ってロジーナが心の高ぶりを独白する、恋の喜びに満ちたアリアだ。
ユリアがイントロの、通常は弦楽器で高らかに演奏される旋律を鮮やかにピアノで奏でる。
ロッシーニ特有の感情の揺れをよく表している強弱や軽快さもよくつかんで、非常に的確な演奏だ。
13小節にわたる前奏が終わり、空気を切り裂くような鮮明さをもって、マリアの一声目が響き渡る。
Una voce poco fa qui nel cor mi gli suono
揺れ動くヒロインの心情と恋の高ぶりに合わせて絶え間なく変化する曲想を感情豊かにたっぷりとした声で歌い上げるマリアに寄り添うように、伴奏も変幻自在についてくる。この伴奏者の技量が奥様芸などではではなく音楽をよく理解した弾き手であることに、マリアは歌い始めてすぐに気が付いた。
アジリタと共に高まってゆくロッシーニ独特のラストを歌い上げ、その高ぶりそのままに後奏を弾き切る。
曲が終わっても圧倒的な声の余韻が室内を支配している。
「すごい豊かな声だね。天使のトロンボーンみたいだ」
しばしマリアの声に圧倒されていたユリアが、呟いた。
「こちらこそ、さっきは失礼なことを言ってすみませんでした。あの言葉取り消さしてください。ものすごく歌いやすかったです。」
「そう?この曲はよく伴奏させられたからね。メゾの役柄だけど、ソプラノもよく歌うんでしょ?」
さっきの失礼な発言などなかったかのように、にっこりとユリアは微笑む。
「はい。ソプラノ歌手にもよく歌われます。伴奏したのは娘さんの ですか?」
マリアはこの伴奏者の娘に話題を向けた。
「娘を知ってるの?」
「はい。去年のザルツブルグ音楽祭のフィガロ、観ました。そっくりですね。そういえば声も似ているような気がする。」
「ふふ、オペラ歌手様と声が似ているなんて言われて光栄です。ところでマリア、今日はどこかに宿をとっているの?」
「これからさがす予定です。」
「それじゃあ満足に練習もできないんじゃない?本番までうちにいればいいよ。ピアノは3台あるから。好きなときに好きなだけ使って。ぼくももっと弾きこんでおかなくちゃ」
「それではお世話になってもいいですか?」
「もちろん。歓迎するよ。じゃあ客室へ案内するから荷物を置いておいで」
「おーーい。もういいか?」
ファビアンではない男性の声が部屋の外から聞こえ、ドアが開いた。
「バブーシカ!」
先ほどの男の子が駆け込んできて、ユリアの足元にまとわりつく。
「ミーチャのやつがバブーシカバブーシカってうるさくてな。おい、ミーチャ、バブーシカは俺のもんだぞ!ちょっとは遠慮しろ。このバカたれが」
背の高い年かさの男性が入ってきて、ユリアの腰に手を回し、もう一方の手でユリアに抱き上げられたミーチャと呼ばれた男の子の鼻を軽くつまむ。
クラウス・ゾンマーシュミット―。著名な音楽評論家でマリアも彼の音楽評を幾度か新聞などで目にしている。
そうだ、あのソプラノ歌手の夫が気鋭の指揮者であることと同じくらい、その父親もまた著名人であることは業界では有名な話だ。
「あの、初めまして。マリア・カラスと言います。ゾンマーシュミットさん。記事はよく拝見しております。」
「おぅ、ありがとうよ。俺のこと知ってるのか。よろしくな、マリア。素晴らしい声だなぁ。天使のトランペットみたいだ」
「ふふ、ぼくと同じこと言ってる」
「おほめいただいて光栄です」
褒められたマリアが頬を赤く染めた。
「ただいま。あら?お客様?」
抜けるような明るい声が玄関に響く。
「リョーニャ、お帰り。」
「マンマ」
ミーチャがその女性に駆け寄る。
「マンマ、お帰りなさい」
ミーチャの姉と思しき、金髪碧眼の祖母に瓜二つの女の子も一緒に弟と玄関に駆け出てきた。
「カーチャただいま。いつもミーチャの面倒見てくれてありがとうね。ミーチャただいま。お姉ちゃんの言う事聞いていい子にしてた?バブーシカを困らせていなかった?」
「いい子にしてたよね。ミーチャ。」
何げない光景―。
でも家族の温かさに満ち溢れたそのやり取りは、両親が離婚し、母親とも上手くいっていないマリアにとっては、それは見ていて切なくなるような光景だった。
「リョーニャ、この人ね、マリアさん。三日後にオーディション受けるんだって。それでね、急きょ伴奏を引き受けたの。で、オーディションまでうちに滞在することになったから。」
「初めまして。マリア・カラスと申します。お世話になります。」
「初めまして。名前は知っているわ。ヴェローナでジョコンダを歌った人でしょ。すごい新人が現れたって評判だったわ。マリア=レオノーラ・デ・ルッカと言います。よろしく。
私もマリアというのよ。でもリョーニャでいいわ。」
朗らかな物言いは先ほど対面した父親譲りだろうか。その美貌のソプラノ歌手は大きく顔を綻ばせると、マリアの手をぎゅっと握った。
「あーお腹空いたー」
「早く着替えておいで、食堂で待ってるから」
そう言ってユリアはリョーニャの頬に口づけした。
その様子をニコニコしながらファビアンが見守っている。
「ロシア料理は口にあった?マリア」
「はい、初めて食べましたが美味しいです」
「今度はファビアンが作った時に来てね。ファビアンのイタリア料理は美味しいんだから。」
「どうせぼくのロシア料理は大して美味しくありませんよ」
「ロシア料理なんて誰が作ってもこんなもんだ。そんなむくれるな。ユリウス」
「もう!」
「先ほどからユリアさんのことをユリウスと呼んでいらっしゃるけど、変わった愛称ですね。失礼ですが男性の名前では?」
「まあ・・・・いろいろな事情があって。親しい人はみんなぼくのことをユリウスと呼ぶんだ。」
―マリアもユリウスでいいよ。親しい人にはユリウスって呼ばれているから。
「はい、ではユリウス…」
「俺のこともアレクセイでいいぞ。ユリウス同様色々事情があってな。」
「はい、アレクセイ」
食後にサモワールで淹れたお茶を飲みながらマリアは尋ねた。
「アレクセイとユリウスはロシアの方なんですか?食事がロシア料理だったし、このお茶もロシア式ですよね?それにさっきペテルスブルグと言ってたので…」
「俺はロシア人だがこいつはドイツ人だ。」
一人だけ紅茶ではなくウォッカを舐めていたアレクセイが答える。
「でもこいつも10年ぐらいロシアで暮らしていて俺たちが結婚したのもリョーニャが生まれたのもロシアだ。」
「ぼくはね、彼を追って16のときに単身ロシアへ渡ったの。」
言もなげにユリウスが言う。
「ええーーーー!」
いかにも良家の奥様風のたおやかな風情のユリウスを目の前に、マリアは思わず大声で叫んでしまった。
「あの、お二人の馴れ初めって聞いてもいいですか?」
ユリウスとアレクセイは顔を見合わせて笑った。
「いいよ。でもすごく長くなるよ。僕たちはね、ドイツのレーゲンスブルクという古い街の、オルフェウスの窓と呼ばれる窓で出会ったんだ…」
後日―。
結局マリアはオーディションには受からなかった。
「僕はいいと思ったんだけどね。事実ほぼ君に決定してたのだけど。演出家の鶴の一声でね。」
残念そうにファビアンが言った。
オーディションで主役を勝ち取ったのは、声と歌唱はマリアに劣るものの、太って大柄なマリアとは対照的な細くて愛らしい雰囲気の歌手だった。
そうだ、これからはいくら声が勝っていてもルックスが重視される時代になっているんだ。
マリアは今回の結果でその事実を痛感した。
「いえ。また出直します。それよりアレクセイとユリウスにありがとうと伝えてください。あの…わたし、何というか…とても懐かしくて…うれしかったんです。久しぶりに温かい家庭のようなものに触れて。私の両親、大昔に離婚していて…恥ずかしい話ですが、私母とも姉ともうまくいっていなくて・・・・。なので、こんなこと言うのはなんですが、アレクセイとユリウスのことがお父さんとお母さんだったらなぁ、なんて。あ、ホント私変なこと言ってますね。忘れてください!」
「リョーニャも君のことを妹みたいに思っていたよ。僕だってそうだ。きっと義父と義母だってそうだ。これからもスイスの近くへ来たら遠慮なく家へ訪ねておいで。歓迎するから。」
そんなマリアに、ファビアンはニコニコ微笑んで言った。
「ありがとうございます。嬉しいです。オーディションには落ちてしまったけどあなたたちに出会えて本当によかったです。」
「マリアの成功を心から祈っているよ。いや、君は必ず成功するよ。そのときは僕の指揮で歌ってほしいな。」
マリア・カラスが50キロ近くの減量に成功し、美貌を携え不世出のソプラノ歌手として世界に名をとどろかすのはその6年後のことである。