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コンチェルト

イザークが「第九」以来、客演という形で指揮者を務めている市民管弦楽団の定期公演のソリストに、ユリウスを推してくれた。

8月のサマーコンサートの三曲のうちの一曲にピアノコンチェルトを持ってくる予定のようで、「是非ソリストを務めてくれないか」という事である。

 

第九から程なくして、イザークとコンサートマスターが、その旨をユリウスに打診に訪れた。


 

「是非次回の夏の定期公演で、君にソリストを務めて貰いたいんだけど、どうだろうか?」

 

中退とは言え音楽学校でピアノを本格的に学び、近年またアマチュアとして舞台に上がる機会も増えていたユリウスだったが、コンチェルトは生まれて初めての経験である。

ユリウスは経験不足を理由にその申し出を固辞した。


ユリウスの辞退に、コンサートマスターが言った。

「私は昨年の貴女の出演したサマーコンサートを聴きました。素晴らしいスカルラッティとドビュッシーだった。実力はコンチェルトを弾くのに何一つ問題はないと思います。経験は…経験不足は誰だって体験する事です。…どんなヴィルトーゾだって…初めてはあるのです。ですから…あまり気負わずに、前向きに考えて頂ければと思います」

 

「ねえ、ユリウス。君、昔腕に落差があるから…と言って、僕との連弾を断っただろう?ー今度は、僕との共演を…引き受けてくれよ。君は去年、クラウスと舞台に立つという長年の念願を…成就させたろう?僕にも長年温め続けた念願を叶えさせてくれないかな?」

イザークもまた、少し照れながらも、でもユリウスの碧の瞳をしっかりと見つめて彼女を説得する。

 

それは…何だか聞きようによっては、愛の告白のようにも聞こえ、ユリウスは自分を見つめるイザークの黒い瞳から思わず視線を外した。

少しの間逡巡した後、ユリウスは顔を上げ、イザークとコンサートマスターの顔をしっかりと見つめながら、
「経験不足で、色々助けて頂く事も多いと思いますが、またとないチャンスなので、挑戦してみようと思います」
と答え、ー艶やかに笑った。

「引き受けてもらえて良かったですね。マエストロ」

 

説得の甲斐あって、結局ユリウスから快諾してもらい、ゾンマーシュミット家を後にしたその道すがら、コンサートマスターがイザークに話しかけた。

 

「ああ」

 

「彼女…第九の合唱団にいた時も一際目を惹いていましたが、近くで見ると、本当にお綺麗な方ですね」

 

「そうだね…。ほんの少女の頃からの知り合いだが…その時から、周囲の目を惹きつけて離さない人だったよ」

そう言って、イザークは少し遠い目をした。

 

ーこのマエストロは…もしかして、あの金髪の美しい婦人に、ずっと恋していたのか?

コンサートマスターはそんなイザークの横顔を見ながら、ふと思った。

 

「ん?何だい?」

コンサートマスターの視線にイザークが気づいた。

 

「あ、いいえ。…それよりマエストロ、早く印刷所へ行かなくては!今頃オケマネが印刷所でキリキリしてますよ!」

 

「そうだった!絶対彼女を説得するから…ポスターは…後は彼女の名前入れるだけにしといてくれ!って印刷所で待たせてたんだっけね」

 

「そうですよ〜。意外と無茶しますね、マエストロは…。引き受けてくれたから良かったものの…断られたら一体どうするつもりだったんですか?」

 

「そうだなぁ…。そうしたら、ウィーンから息子を拝み倒して…呼び寄せたかな。アハハ」

 

「もう〜、笑い事じゃないですよ〜!急ぎましょ」

 

「そうだな」

 

二人は先ほどよりも早足で、オケマネの待つ印刷所へ向かった。

 


《ベルン市民管弦楽団 定期公演

日時: 8月13日(日) 午後2時30分開演
場所: ベルン公会堂大ホール

曲目
シューマン「交響曲《ライン》」
ショパン  「アンダンテスピアナートと華麗なる大ポロネーズ作品22」
メンデルスゾーン 「組曲《夏の夜の夢》より」

指揮 :イザーク・ヴァイスハイト
ピアノ :ユリア・ゾンマーシュミット
演奏 :ベルン市民管弦楽団》

 

 

 

空欄になっていたピアノの部分にユリウスの名前が入り、めでたく入稿となったポスターは、すぐさま印刷されて、街の至る所ー公会堂や駅、病院、商店や学校の音楽室等に貼られていった。


「緊張してるのか?」

 

「…うん。ちょっと」


公演当日ー

幕が上がった舞台の袖で待機したユリウスの手をアレクセイが優しく握りしめる。

 

「手が冷たいぞ?」

 

「あなたの手は…暖かい」
ーねえ、昔もこうやって、あなた本番前のぼくの手を握っていてくれたよね…。

 

「ああ、そうだな。震えが止まらなくなったお前の手を、こうして握ってやってたっけ…」

 

「もうすぐ一曲目が終わるね…」

 

「そうだな」

 

「…ちょっと…舞台に上がるのが怖い…」

消え入りそうな声でそう言ったユリウスを、アレクセイは優しく抱きしめた。

 

「大丈夫だ。ゲネを聴いたらちゃんと弾けていたし、オケとも合っていた。何より舞台にはイザークもいるだろう?あいつを信じろよ?…あいつは頼りになる奏者だ。元パートナーのこの俺が言うんだからー間違いないぜ!」

そう言って、アレクセイは結われたユリウスの髪を崩さないよう、そっと金の頭を引き寄せ、頰に口づけた。

 

舞台から、一曲目が終わった拍手が聞こえてくる。

やがて拍手が止み、オケマネが舞台へ出る扉を開けた。

 

「さあ!行ってこい」
ー俺はここで聴いてるから。

 

そう言ってアレクセイは、ユリウスの背中を優しく押した。

開かれたドアから、舞台の明るい光が袖に射し込む。

アレクセイに背中を押されたユリウスが、その光の方へ歩み出て行く。

彼女が身に纏ったシルバーグレイのサテンのスリップドレスが、ライトを受けて艶やかに輝く。

 

ドアの前で今一度ユリウスは立ち止まり、袖のアレクセイの方を振り返った。

アレクセイがユリウスに大きく頷く。

そしてユリウスはードアの向こう側のスポットライトに照らされた舞台へと出て行った。

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