番外編
ユーベル・ヴァイスハイトの日記
(下)
今日も父たちのアパートへ行って、クララ母さんを手伝う。
母が洗濯している間に、ユリウスおばさんと手分けして掃除をし、食器を洗う。
「ユーベルはえらいねえ」
すすいだお皿をぼくに手渡しながらユリウスおばさんが言った。
「僕には普通の事ですよ」
ー大体父は散らかし過ぎです!なんで毎日片付けて掃除してるのに、翌日来ると元通りになってるんですかね〜。
手渡された皿を拭きながら口を尖らせて僕はボヤいた。
「あはは…。ウチも…アレクセイも似たようなもんだよ。どうしてだろうね〜。ホント」
「ホントですよ〜」
ーさあ、これでおしまい。ぼくはクララの洗った洗濯物を干してくるから、ユーベルは、ゴミ出してきてくれる?
ゴミを焼却炉に入れて部屋へ戻ってきたら、珍しくフェリシアがぐずっていた。
僕はピアノの前に座り、鍵盤に指を下ろす。
今日のチョイスはモーツァルトのオペラ『魔笛』の中のパパゲーノのアリア《恋人か女房が》だ。
本来はグロッケンシュピールで弾かれる部分をピアノで軽やかに弾いていく。
Ein Mädchen oder Weibchen
Wünscht Papageno sich!
《恋人か女房が1人
パパゲーノは欲しいんだ》
弾きながらついつい鼻歌が漏れる。
クララ母さんの腕の中でぐずっていたフェリシアは、すぐに泣きやんで、安らかな寝息を再びたて始めた。
ホッとした表情で、クララ母さんがフェリシアをベッドに寝かしつける。
「ありがとうね、ユーベル。いつもながら…この子は本当にあなたのピアノが好きなのね」
ーあなたが帰ってしまったら、本当にどうしようかしら?
フェリシアを起こさないように声を落として、クララ母さんが言った。
「そうだね…。同じ曲を弾いてもぼくじゃダメなんだよね。ユーベルのピアノじゃなきゃ。」
ユリウスおばさんもしきりに不思議がって、首をかしげる。
僕は…正直ちょっとだけ、その事に優越感を覚えたりしたんだ。
フェリシアが僕のピアノを聞き分けてくれているという事に。
僕は…普段は家族の皆と離れて暮らしているし、本当はこの新しいヴァイスハイト家にもう僕の居場所はないんじゃないだろうか…と最初は少し不安だったんだ。
でも生まれたばかりのこの妹が、僕のピアノを聞き分けてくれた事で、そんなぐらぐらだった僕の存在意義をがっちりと支えてくれた。
それは100の言葉で「ここにお前の居場所はある」と言われるよりも、僕の心に真っ直ぐに届いたんだ。
僕がフェリシアのー、兄であるという事。
そして僕がヴァイスハイト家の家族であるという事。
ーじゃあね…。クララ。今日は帰るね。テーブルに作り置きしたおかず置いておくから。…あなたもフェリシアが眠っているうちに少し休息して。また明日。…ユーベル、帰ろうか。
フェリシアを起こさないように小声でユリウスおばさんはそう言うと、お茶を…というクララ母さんを優しく制して、僕の背中に優しく手を置いて、僕らはアパートを後にした。
ユリウスおばさんが抱いてくれる背中がほんのりと温かい。
勿論クララ母さんは、今のヴァイスハイト家では僕のお母さんである事には違いないのだが…、この束の間の寄宿先の、僕の事を何くれとはなく気遣ってくれるこの優しい女性に、僕はー、僕が知らない母の面影を重ねていたのかもしれない。
来月に控えたフェリシアの洗礼式のお祝いの品を買いに、僕とリョーニャは街の小間物屋に来ていた。
そこは、女の子の好きそうな小さくて綺麗な小物類が所狭しと並んでいて、リョーニャは店に入るなり鳶色の瞳をキラキラと輝かせた。
ウィーンにも、こんなお店は無数にあったけど、実際に店内に入るのは初めての事だった。
もの珍しいそうに棚のものを見て回る。
その時に、掌に乗るぐらいの小さな箱が僕の目に飛び込んできた。
それは丸くて、黒い光沢のある地に、側面には蓮の花のアラベスク文様が、そして蓋の部分にはアラベスクに二羽の大きな鳥と花が色彩豊かに描かれたもので、僕がそっと手にとって眺めていると、リョーニャが寄って来て横からそれを覗き込んだ。
リョーニャと話し込んでいた店主もやって来て(たまにプレゼントなどを買いに来るリョーニャとは顔見知りらしい)、元は女性の紅でも入れていた箱だったのだろうけど、この大きさだったら、値段もお手頃だし、子供の乳歯入れとして使えるから、洗礼式のお祝いにはぴったりじゃないか?と勧めてくれたので、僕たちは、この綺麗な小箱を洗礼式のお祝いに贈る事に決めた。
僕とリョーニャのお小遣いを出し合ってお代を払い、綺麗に包んでもらって、ピンク色のリボンを掛けて貰った。
僕一人じゃ、こんなお店に入る事も出来なかったし、こんな素敵なプレゼントを選ぶ事も出来なかっただろう。
気の利いた洗礼式のお祝いが用意出来て本当に良かった。
僕のそんな気持ちを見越したように、リョーニャが「いいお祝いが見つかって良かったね」と言って、にっこり笑った。
(リョーニャは、顔立ちこそお母さんのユリウスおばさんと瓜二つだけど、笑った顔や、なんと言うか…全体から醸し出す雰囲気は、どちらかと言うと、お父さんのクラウスおじさんに似ているような気がする。そう言ったら、「それって女らしさが足りないって意味だよね〜?」と不満そうに唇を尖らせて、大きな鳶色の瞳で睨まれてしまった。…そんな意味ではなかったんだけどなぁ。)
洗礼式はフェリシアの生後1カ月を待って、行われた。
参加者は主役のフェリシアと両親、そして僕に、教父母になってくれたゾンマーシュミット夫妻、その娘のリョーニャ、それからフェリシアを取り上げてくれたホフマン先生に、ユリウスおばさんのお姉さん夫婦のフォン・アーレンスマイヤ夫妻が、わざわざレーゲンスブルクから駆けつけて参列してくれた。
フォン・アーレンスマイヤ夫妻に会うのは随分暫くぶりだ。
ユリウスおばさんのお姉さんのマリア・バルバラさんには、しきりに「大きくなったわね」としみじみと言われてしまった。何しろ僕がマリア・バルバラさんに最後に会ったのは、まだ僕が吊りズボンを履いて、父さんと手を繋いでいた頃だから…それもそうなのだろうけど…。
小さい頃は気がつかなかったが、マリア・バルバラさんは、本当に妹のユリウスおばさんに似ている。
ユリウスおばさんにそう言うと、「昔から…たまに言われる事もあったんだけどね。歳をとってきたら、だんだんそっくりになって来たね」
と言って少し嬉しそうにクシャリと笑った。
この姉妹は、母親が違うという。
そういう意味では、僕とフェリシアと同じだ。
僕とフェリシアもそのうち段々似てきたりするものなのだろうか?
式はつつがなく進行し、白い綺麗なベビードレスに包まれたフェリシアは、聖水を頭にかけられた時こそ少しグズったものの(まあ、これは洗礼式のお約束だ)、後は概ね機嫌良さげにクララ母さんの腕の中で大人しくしていた。
式の後は、教会の入り口で皆で写真を撮ってもらい、その後市街のチャイニーズレストランへ移動した。
僕は東洋の料理を食べるのは生まれて初めてだったけど、父とクララ母さんは、何年か前に上海ツアーへ行った時に食べた中国の料理が忘れられず、今日の祝いの席には、ちょっと奮発をしてでも自分たちが美味しいと思った料理を皆にも味わって欲しいと、ベルンでもたった一軒のこのチャイニーズレストランに決めたのだという。
オリエンタルな内装の(師に連れられてシュターツオーパーで観たトゥーランドットの舞台のようだった!)丸い中央が回るテーブルは、珍しく(そこに次から次へと料理が出され、僕たちはそのテーブルを回して、好きなだけ皿に盛って食べるシステムなのだ!)、皆で使い慣れない箸に苦戦しながらもワイワイ言いながら宴を楽しんだ。
それから皆がそれぞれにフェリシアにお祝いの品を贈り、僕たちもあの乳歯を入れる小箱を両親に渡した。
包みを開いて小さな小箱を手にした母さんの顔が輝いた。
まだー、この小箱を使うのは随分先になると思うけれど、とても綺麗だから、ウチの一番いい棚の所に…今日の写真と一緒に飾っておくわ。とクララ母さんが言ってくれた。
この小箱に乳歯が入る頃ー、僕はどうしているだろう?
そしてー、このヨーロッパはどうなっているだろう?
父の復活公演、そして妹の誕生から洗礼式までの、これまでになく長い、そして中身の濃い休暇を終えて、僕は家族とお世話になったゾンマーシュミット一家に見送られ、ベルンを後にした。
僕の家族とー僕の帰る場所。
またウィーンで頑張ろうと思った。
ウィーンに戻ってから、師のバックハウス先生は、僕のピアノが変わったとー、力みと頑なさが取れ、僕本来のキャラクターが音に反映されるようになって来たね と言ってくれた。
多分、これまでの僕は、父の無念、母の名誉と、どこかピアノを弾く事で演奏以外の何かを満たそうと考えていたのかもしれない。
先生の言う、力みが取れた と言うのは、ただ音楽のために音楽は演奏すればいい ということを、父のベートーヴェンから、そして僕のピアノを聴いてくれた小さな妹から、教わったのかもしれない。
ベルンへ行って、思い切って長い休みを取って、本当に良かった。