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~番外編~

ユーベル・ヴァイスハイトの日記

​(中)

第九の演奏を終えた公会堂のロビーで、クララ母さんが産気づいた。

 

クラウスおじさんが、自分の車でクララ母さんと父を病院へ運んで行った。

僕はー、取り敢えずユリウスおばさんとリョーニャと共にゾンマーシュミット家へと戻った。

 

その日の夜ー

 

病院のクラウスおじさんから、子供が生まれたと言う電話があった。

女の子で、母子共に無事だという。


 

翌々日ー

 

僕たちは、クララ母さんの入院している病院を訪ねた。

僕の妹はー、黒髪に茶色い瞳の愛らしい赤ちゃんだった。

名前は、フェリシア。
幸せという意味だと言う。
歓喜の歌の祝福を受けて生まれてきた、幸せの名を持つ僕の妹。

僕が優しく頰を撫でると、その愛らしい茶色の瞳を開いた。

 

ー初めまして。僕の可愛い妹。僕たちは二人きりの兄妹だ。これから仲良くやっていこう。

生まれたばかりの小さく温かで柔らかい妹を抱きながら、僕は思った。

 

父が演奏家としての新章を開いたように、このヴァイスハイト家もー、父にクララ母さん、そして僕と新しく家族に加わったフェリシアで、新たな章を歩み出すのだろう。


産後の肥立ちも良かったクララ母さんは、じきに退院し、アパートへ戻って来た。

 

病院へクララ母さんとフェリシアを父さんが迎えに行っている間に、僕はー、クララ母さんが家を空けていた間に散らかったアパートを片付け掃除した。
(僕は幼い頃から師の家に寄宿させて貰っていてー、居候人生が長いから、部屋を綺麗に保つのは最早骨身についた習慣なのだ。こんな乱雑な部屋など…僕にとってはあり得ない話だ!)

床やテーブルに散らかった本や楽譜を本棚に戻し、洗い場に散乱した食器を洗って乾かし、棚にうっすらと溜まったホコリを拭き取って、空気を入れ替えた。

 

すっかり片付き、小綺麗になった部屋に窓から初夏を思わせる光が射し込んでくる。

ふと棚の端のー、写真パネルが目に付いた。

 

ーリョーニャ?

 

…いや、違う。これは、若い頃の父さんと、ユリウスおばさんだ。

 

ゼバスで毎年カーニバルで上演される「ニーベルンゲンの歌」の一場面だろうか?
(ごく幼い頃だけど、僕も故郷のカーニバルでその劇を見たことがあった)
衣装を着けた今の僕よりもやや年上の父と、同じくヒロインに扮したリョーニャに瓜二つのユリウスおばさんー。

 

確かー、これと同じようなパネルがゾンマーシュミット家にも飾ってあったような気がした。

劇の舞台とはいえ、ヒロインに扮した美しいユリウスおばさんを見つめる父の眼差しは真剣で…怖いぐらいだった。
 

父も又ー、かつて彼女に恋い焦がれていたのだろうか?

 

 

やがて父とクララ母さん、そしてフェリシアがアパートに戻って来た。

 

すっかり綺麗になったアパートを見て、父は少し決まり悪そうな顔をしていた。

用意していたベビーベッドにフェリシアを寝かせ、僕ら三人は、お茶を飲みながら、色々な話をした。
先日の第九のこと、ピアノのこと、ウィーンでの僕の生活ぶり、ベルンでの父さんたちの生活、ゾンマーシュミット家のこと、そして…ドイツに誕生したあの不穏な新政権の事…。


僕は結局、妹の洗礼式までベルンに滞在する事になった。

 

相変わらずゾンマーシュミットに厄介になっているが、僕は毎日そこから父たちのアパートへ通い、初めての育児で手一杯のクララ母さんを手助けし、掃除や洗濯、買い物などを手伝った。
 

大抵はユリウスおばさんも一緒にやって来て、作り置いたおかずを置いて行ったり、僕と一緒に掃除を手伝ってくれたりした。

 

母とユリウスおばさんは、本当に仲が良い。
雰囲気も良く似ていて、まるで姉妹のようだ。

この姉のような女友達に、クララ母さんは随分、精神的に支えられているのだろう。

クララ母さんが、ユリウスおばさんを姉と慕うように、ユリウスおばさんも又、クララ母さんの事を妹のように思っているようだった。

家事の殆どを肩代わりしてくれる僕と(僕は家族なんだから当然だ!)ユリウスおばさんに、クララ母さんがしきりに済まながると、ユリウスおばさんは、

「きっと、あなたのお姉さんがご存命だったら、こうして日参してあなたの世話を焼いていたと思うよ」

とサラリと言ってくれて、クララ母さんに感激の涙を流させた。

 

なんか…この二人はいいなあ。

 

僕の…亡くなった僕の母にも、こんな心から信頼を寄せることができる女友達がいたのだろうか…?

 

僕がふと口にした疑問に、その時たまたま非番で家にいた父が(父はやもめ生活が長かった割にはこういう時には全く役に立たない。料理こそ幾分かは出来るようだが、部屋はすぐ散らかすし、洗濯物や使った食器もすぐに山盛りになっている。今日も家にいても殆ど役に立たないので、しまいには僕とユリウスおばさんに「イザークは(父さんは)、邪魔だからそこに座ってて!」とダイニングチェアに追いやられて、小さくなって座っていた)、

 

「いたよ」

と答えた。

 

「え?」

思わず訊き返した僕に、父は語って聞かせてくれた。


ーお前の母さんにもね、クララにとってのユリウスのような…無二の親友がいたんだ。
ザビーネさんと言ってね、ロベルタがウィーンに出てきた時からの親友で、彼女が幸福の絶頂にある時も、彼女が不遇のどん底にある時も、変わらず側にいてくれて…、彼女の最期を看取ってくれたのも…彼女だったんだ。ロベルタの素晴らしい特質を誰よりも理解していて…、ロベルタが安らかに天へと召されたのは、彼女が最後まで側にいてくれたからだと…父さんは思っている。

 

「…今、彼女は、どうしているのだろう?」

 

ポツリと口にした僕の疑問に、父は少し悲しげな笑みを浮かべて首を横に振った。

 

きっとー、母がウィーンに来た時からの親友と言う事は…、彼女もまたそういう生業の人だったのだろう。

母の死後、母と親友だったとは言え、住む世界の違う父と彼女が疎遠になってしまったのは、致し方ない事だ。

だけど、今もまだ健在でいるのならば、僕はその人に会いたいと思った。
会って…父も知らなかった母の話を聞いてみたいと…思った。

©2018sukeki4

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