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第6章 サイクリング

待ちに待ったサイクリングの日がやって来た。

 

朝早く起きてユリウスとリョーニャと3人でランチの果物やパン、ソーセージやチーズ、それから魔法瓶に入れたコーヒーを用意している時から、楽しくて心が躍って仕方がなかった。

 

キッチンで果物の準備をしていたリョーニャがフランス語で歌い出す。

 

《彼方の森の中でもカッコーの声が聞こえるよ》

 

そのリョーニャの声を追いかけるようにユリウスが同じ節を歌う。

 

そして私に歌いながら目で合図する。

 

リョーニャが歌ってユリウスが歌った節を私が後から追いかける。

 

キッチンに輪唱が響き渡る。

 

ユリウスとリョーニャの母娘は、顔も似ているが声もそっくりで、とても綺麗な声で歌も上手い。

 

確かイザークが、ユリウスはゼバスの学生時代も教会の聖歌隊でソロをとっていたと言っていた。

 

少女時代のユリウスが、白い聖歌隊のローブを纏って教会で美声を響かせている姿はーまるで天使のようだっただろう。

 

私たちの歌声に、クラウスとイザークがキッチンに顔を覗かせる。

 

「おー!毎度毎度、美声を響かせてるな」

― 結構結構!

 

「君のピアノは、それこそ20年ぐらい聴き続けてきたけど…、君が歌っているのを、僕は初めて聞いたよ」

イザークが驚きで目を丸くした。

 

「この二人の美声に誘われて…ついつい歌っちゃった。…それからあまりに楽しみだったから、気持ちもウキウキしていて…」

 

思いがけず夫(とその友人)に歌声を披露する形となってしまい、私はちょっとはにかみながら答えた。

 

「とても素敵な声だったよ」

ユリウスの言葉にリョーニャも頷く。

 

「もっと君の歌を聴いてみたいな」

 

優しく微笑んだイザークにそう言われて、私はすっかり照れてしまった。

 

「…でも、私はあまり歌を知らないの」

 

「これからもっと歌ってみれば?歌は一番身近にある音楽だと思うよ。うちは楽器も弾くけど、歌もよく歌うんだ」

 

「俺のギターやユリウスのピアノでリョーニャが歌ったり、ユリウスの歌に俺がギターで伴奏をつけたり…色々だな」

 

「ダーヴィトから聞いたけど…君最近ギター弾くんだって?」

 

「ああ。リョーニャが本格的に歌うようになってからな。…やっぱヴァイオリンじゃ、伴奏する曲が限られるだろ?その点ギターだったら、大抵の古典歌曲はOKだ」

 

「君たち一家は…本当に楽しそうだな」

 

 

「さあ、用意が出来た!」

 

そうこうしているうちにユリウスとリョーニャが、用意した食べ物を手際よくバスケットに詰めて行った。

 

「よーし!出発だ」

 

それらをクラウスとイザークが運び、自転車の前かごに分けて載せて行った。

 

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ゾンマーシュミット一家と私たち夫婦、五人はベルンの市街地を抜け、アーレ川の河岸を自転車で走って行った。

何個もある個性的な噴水の像を冷やかし、時に足を止め噴水から流れ出る冷たい水で汗を流し、そうして自転車を漕いで行くうちに、河岸の対岸をのっそりと歩く数頭の熊!が目に入って来た。

 

「熊だわ!!」

 

私があげた声に一同が自転車を止める。

 

「ここは、ベルンでも有名な熊公園なんだ」

 

クラウスが説明して、私たちは自転車を駐め、対岸の熊たちを歩いて見て回る。

 

「熊が沢山!あっちにも!!」

 

「お母さん!あっちに子熊がいるよ!」

 

「どこどこ?」

 

目を輝かせてはしゃぐ私たち女性陣を、夫たちは優しい目で見つめている。

 

「そんなに熊が珍しいか?」

 

クラウスの問いにユリウスが答える。

 

「うん。ぼくは子供の頃貧しかったから、動物園なんて行った事もなかったし」

 

「私も…、うんと子供の頃はウィーンの動物園に連れて行って貰った事があるけど…、それ以降はピアノ一筋だったから、あまり憶えていないわ」

 

ユリウスに続けて私も答えた。

 

「アレクセイは?…シベリアには熊、いっぱいいたんじゃない?」

 

ユリウスの質問に、

 

「俺がシベリアで熊に遭遇してたら、今頃俺はここにいねえよ!」

 

と呆れ顔で答えていた。

 

熊公園で一頻り熊に興奮した後、私たちはまた自転車に乗って走り出した。

 

しばらく走ると、アーレ川の遊泳区域に到着した。

 

そこで私たちは自転車を再び降り、荷物を持って川岸へ行った。

 

川では何人かの人が夏のアーレ川の水の恵みを楽しんでいた。

 

「さあ!泳ごうぜ!」

 

クラウスとイザークが服を脱ぎ捨て、下に履いていた水着になって川へと入って行った。

 

「お前たちも来いよ!」

 

川の中からクラウスとイザークが手を振って叫ぶ。

 

「今行く〜」

 

ユリウスがそれに答えて、私たちも服を脱ぎ捨て、下に着ていた水着姿になって川の中へ向かって行った。

 

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一頻り川で泳いだり潜ったりした後に、私たちは川岸へ上がり持参したパンやソーセージ、果物でお昼にした。

 

太陽の下で頂く食事は、とても美味しい。

また水遊びで冷えた身体を魔法瓶に入れて持って来た熱いコーヒーが心地よく温めていく。

 

「リョーニャは泳ぐのがとても上手ね」

 

「リョーニャはね、女学校で水泳の選手なの」

 

「この子は本当にお転婆で…。水泳の他にもテニス、バスケットボールに陸上競技と…。年中走ってるか飛びまわってるか…歌ってるかなんだ。一体誰に似たんだか…」

 

呆れたようにそう言いながらも、リョーニャの濡れた髪を優しく耳にかけてやるユリウスの声と動作は、娘への愛おしさに溢れていた。

 

「誰に似たって…。そりゃ決まってんだろ。リョーニャのお転婆とじゃじゃ馬は…間違いなくお前譲りだ!」

アレクセイがきっぱりと断定する。

 

その言葉にイザークまでもが大きく被りを振って、

「そう言えばゼバス時代の君も…走ってるか歌ってるかだったよね?」

と付け加えた。

 

その言葉に皆が笑う。

 

ユリウスだけが納得しかねると言った顔で私たちを見ていた。

 

 

 

ユリウスと言えば、先程から水着になって川へ入ってもーずっと水着の上にシャツを羽織ったままだった。

最初は、日焼けでも気にしているのかとも思ったが(彼女の肌は透き通るように真っ白だ!)、帽子を被る訳でもないからそういう事ではなさそうだ。

それにしても、濡れたシャツをずっと着ていたら、身体を冷やしてしまう。

 

「ユリウス、濡れたシャツ、身体が冷えるから脱いだ方がよくないかしら?」

 

私が何気なく発した言葉に、一瞬ユリウスが凍りついたような顔をした。

 

傍らのアレクセイとリョーニャにも僅かな緊張感が漂っている。

 

得体の知れないなんとも言えない沈黙が一瞬私達を包んだ。

 

「あ…お母さん!もう一度川に入ろうか!!そろそろ涼しくなって来るしさ、もう一泳ぎしようよ」

 

その重苦しい空気を払拭するように、リョーニャが明るい声を上げた。

 

「ね?早く!クララ叔母様も!」

 

そう言って、リョーニャが固まったように呆然としていたユリウスの手を引っ張って、川へと入って行った。

二人について川へと向かった私の目の端に―、咄嗟の機転を利かせたリョーニャにホッと息をついたクラウスの姿が映った。

 

川に入ったユリウスは、もういつも通りの快活な彼女に戻っていた。

 

― その日の夜、ユリウスの右肩には、若い頃に負った銃弾の傷痕があると、夫から聞かされた。

― きっと彼女、それを気にしていたんじゃないかな…

と夫は言った。

 

==========

 

 

結局私たちはかなりの時間を川で泳いで過ごし、はしゃぎ過ぎた為か、帰ったその日の夜からユリウスと私は、姉妹よろしく二人揃って風邪をひいてしまった。

 

リョーニャが(さすがの若さと言うべきか、彼女はぴんしゃんしていた)呆れたように、離れに食事と薬を持って来てくれた。

 

熱を出してベッドに伏せる私の額に冷やしたタオルを当て熱を計る。

 

「まだ熱がありますね。しばらく寝てて下さい。ここにスープとお薬、置いておきますね。ちゃんと食べて、お薬飲んで下さいね。…もう、クララ叔母様も母も、はしゃぎ過ぎです!今母も熱を出して寝ています。イザークおじ様、後はよろしくお願いしますね。額のタオル、熱くなったら、水で冷やしてあげて下さい。あと、汗をかいたら知らせてください。シーツ、取り換えに来ますので」

 

テキパキとリョーニャがイザークに看病を申しつける。

 

「分かったよ。君はしっかり者だね」

 

イザークが感心したようにリョーニャに言った。

 

「私が風邪をひいた時に、母がしてくれた事をそのまましたまでです」

 

そう言ってリョーニャが肩を竦めた。

 

「ユリウスは…?」

 

風邪で掠れた声で聞いた私に

 

「母は…今父が看病してるんで、心配いりません」

― ではお大事に。後で食器取りに来ますので。

 

そう言ってリョーニャは離れを後にした。

 

 

「あなた…迷惑かけて、ゴメンなさい」

掠れた声で、寝具から目だけ出して夫に謝る。

 

「いいよ。全然迷惑だなんて思ってないよ」

 

イザークは優しい笑みをうかべてベッドの縁に腰掛け、わたしの額に張り付いた髪を手で梳いてくれた。

 

「せっかくリョーニャとユリウスと…歌を歌おうと思ったのに…」

― こんな声じゃ歌えないわ…。

 

わたしの残念そうな掠れた鼻声に、イザークが小さく吹き出す。

 

「今頃、ユリウスもきっと同じこと言ってるよ。早く良くなって。…そうだ、君が歌う代わりに、今日は僕が歌ってあげるよ」

 

「…あなたが?」

 

「ああ。…これでも昔アルバイトで、酒場で弾き歌ってたんだ。僕の歌もそんなに捨てたものではないと思うぞ」

 

そう言ってイザークは私の寝具の上で、その大きな手で優しく拍子を取りながら小さな声で歌い出した。

 

《眠れ良い子よ 森や牧場に

 鳥や羊も みんな眠れば

月は窓から 銀の光を

そそぐこの夜

眠れ良い子や 眠れや…》

(モーツァルトの子守唄 堀内敬三訳)

 

 

イザークの優しい手のリズムと、囁くような高めの甘い声に、いつしか私は心地良い眠りに誘われていた。

 

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おまけ: 看病(金髪亜麻色編)

 

 

「アレクセイ…喉が痛い…」

 

ユリウスがベッドの中から、鼻にかかった掠れた声でアレクセイに呟く。

 

「当たり前だ!こんなに熱があるんだから!…黙って寝てろ。このばかたれ!」

 

アレクセイがユリウスの寝具を直してやる。

 

「リンゴ食えるか?なんか食わんと薬が飲めんぞ?!」

 

「…食べる」

 

「よーし、いい子だ。今剥いてやる」

 

アレクセイがベッドの傍らのサイドテーブルに置かれたリンゴを果物ナイフで器用に剥いていく。

 

「クララは…?」

 

ユリウスが寝具から心配そうな顔を覗かせる。

 

「心配するな!さっきリョーニャが薬とスープを持って行った。あちらさんは、イザークがちゃんと看病するさ」

 

「…そうだね。…新婚さんだもんね」

 

「そういう事だ」

 

アレクセイが優しくユリウスの寝具の上からポンポンと叩いた。

 

「アレクセイ…」

 

「ん?」

 

「何か歌って…」

 

「よーし!…じゃあ今回はお父さんバージョンだ」

 

《スピー、ムラヂェーニツ、モーィ、プリクラースヌィ、バーユシュキ、バィユ… 》

 

アレクセイが、ユリウスの髪を撫でながら、かつてユリウスがお腹の中のリョーニャに歌ってあげていたあの歌を小さな声で歌って聞かせる。

 

柔らかなバリトンがユリウスの胸に染み渡り、いつしか彼女は安らかな眠りに落ちて行った。

©2018sukeki4

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