第5章 自転車
― 朝食が済んだら、汚してもいい、出来れば足さばきのいいスカートでイザークと庭に来て。
そう言われたので、木綿のワンピースに着替えてイザークと庭に出た。
大方庭の手入れの手伝いかと思って出てみると、ゾンマーシュミット一家が先に庭で待っていた。彼らの傍らには、二台の自転車があった。
「これ?」
「うん。自転車だよ」
― 二人に自転車に乗れるようになって貰って、サイクリングへ行こうと思って。
ユリウスが笑顔で答える。
「ユリウス、あのね―」
― クララの足は…
私の戸惑いを察したイザークが、私の代わりにユリウスに、私達やや不自由な足の事を説明しようと口を開きかけた。
「ねえ、クララ―」
それをやんわりと目で制したユリウスが、私に向き合って話しかける。
「風を切って…疾走したいと思ったことはない?…貴女の初期に作った曲を聴いた時に、森を駆け丘を駆け、光の中に出て駆け巡るような、そんなイメージをあなたの曲から感じたんだ。― 自転車は、そんなあなたの願いをきっと実現してくれるよ」
― 戦争で…片足を失った人でも、工夫すれば自転車は乗れるんだ。あなたもちょっと練習して、コツを掴めば半日もあれば乗れるようになるよ!
「…やるわ!乗ってみたい」
私の二つ返事に、イザークは驚いた顔で私の顔を見て、クラウスは面白そうにその一部始終を見ていて、
「奥様がああ言うんだから…イザーク、お前だけ引くわけにはいかないよなあ」
とイザークに言ってニヤリと笑った。
「ええ〜〜⁈僕もやるのかい?」
情けない声を上げるイザークに、クラウスは
「当たり前だろ!ばかたれ。みんなでサイクリング行くんだよ!…ほれ、自転車に跨がれ。後ろ持ってやるから」
と言ってややしり込みするイザークに檄を飛ばし、自転車に跨がらせた。
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「ここは下が土だからね、万が一転んでも、アスファルトほどは痛くないよ。後ろを支えていてあげるからね。とりあえずペダルを漕いで、あなたのペースをつかんでみて」
ユリウスに後ろの荷台を支えて貰って、ペダルを漕ぐ。
動きの悪い片方の足の分、もう片方を強く踏み混むと、自転車はヨロヨロと走り出した。バランスを取りながらペダルを漕ぎ続けると、そのうちスピードに乗って来てペダルを漕ぐ感触が軽くなった。
― 私は…風を切って走ってる!
そう思った途端、注意がそれたのだろう。…私は自転車ごと地面に投げ出された。
「キャ!」
地面に投げ出されれた私にユリウスが駆け寄る。
「大丈夫?」
「ええ。確かに下は土だから…転んでも大して痛くはないわ」
私は倒れた自転車と一緒に立ち上がった。
ユリウスが私の身体についた土を払ってくれた。
「大丈夫?続けられる?」
「勿論!」
確かに…転んだ時は少し驚いたけれど、そんな事は…長年の夢だった、風を切って走るという事に比べたら何でもない事だ。
私の一言にユリウスがニッコリと笑う。
「あなたは…ぼくの妹なだけあって、なかなかのじゃじゃ馬だね」
― それに、気づいてた?あなたがスピードに乗ってきたから、ぼくはとうの前から…手を離してたんだよ。あなたは、ずっと一人で乗ってたんだ!
ユリウスが白状する。
「もう大丈夫!一人で乗れるよ。方向を変える時は握っているハンドルで、それから止まる時はハンドルの下のブレーキを握ると止まるから」
― ここじゃ狭いから、外の通りに出てみようか。アスファルトの方が走りやすいし、この辺はそんなに車も多くないから大丈夫。
結局私はものの一時間程で、自転車をマスターしてしまった。
今まで不自由な足の為にスポーツは自分には無縁のものと思っていたが…なかなかどうして、私の運動神経も捨てたものじゃない。
上手くバランスを取りながら不自由な足を庇って自転車を繰る私を見てユリウスも、
「あなたはなかなか運動神経がいいよ。バランス感覚も反射神経もいい。性質のいい馬だったら、乗馬も結構こなしたんじゃないかな」
とお墨付きをくれた。
一方、イザークの方はなかなか苦戦しているようだ。壁の向こうからイザークとクラウスの声が聞こえて来る。
― うわ!ク、クラウス!手を離すなよ!
― いつまでも甘えてるな!ばかたれ。…ほれ、さっさと立て!―あっちの美人姉妹ペアはとっくにマスターしたみたいだぞ?お前、ここで頑張らないと、この先ずっと女房に頭上がんないぞ?
― そんな〜
壁の向こうから聞こえて来るやり取りに、私とユリウスは顔を見合わせて、― 思わず吹き出した。
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「皆さーん、お昼ですよ!」
通りで自転車を乗り回しているうちにいつの間にかお昼を回っていたようだ。
母屋からリョーニャが呼びに出てきた。
昼食はリョーニャが用意してくれていたようだ。
可愛くて性格もいい上に、家事もきちんと仕込まれている。
私も…こんな娘が欲しい、ユリウスのような母親になってみたい と、ふと思ってしまった。
母親どころか、自分自身家事すらまだまだ覚束ない自分が…馬鹿な思いつきだ。
「なかなか美味いぞ!リョーニャ」
父親に用意した昼食を褒められ、リョーニャが得意げに鼻をひくつかせる。
「でしょう?リョーニャも、いつでもお嫁に行けるよね」
― あ、コーヒーのお代わりいかがですか?
そう言ってイザークのカップにコーヒーを注ぐ。
「クララ叔母様、自転車はどうでした?」
私の空いた皿にサラダをサーブしながらリョーニャが尋ねてきた。
「自転車は…風を切って走るのは、最高の気分だわ」
「クララは、あっと言う間に自転車をマスターしちゃったよ。ぼくよりも運動神経がいいぐらいだ」
ユリウスの言葉に
「へぇ!そう言われてみれば、殆ど転んだ跡がないな!」
クラウスが感心したように私を見て、その後イザークに目をやった。
イザークといったら―、腕は傷だらけ、シャツもズボンも土で汚れ、所々鉤裂きが出来ている。
「大丈夫?」
自分が自転車を楽しむ事に夢中になっていてすっかり夫の事が頭から抜け落ちていた事に今更ながら気付かされた。
「傷だらけ…」
そう言ってしょんぼりと夫の腕に触れた私に、イザークは
「かすり傷だよ。リョーニャが手当てしてくれたから大丈夫。…見てて!僕だって、午後には乗れるようになってみせるから!」
殊更に元気よくそう言っては私を慰めてくれた。
この人は優しい人だ。
「そうだ!お前だって後ちょっとだ。今日中に頑張ろうぜ!じゃないと…教え方に問題があるって言われかねんしな」
そう言ってクラウスはまるでいたずらっ子のような顔で鳶色の瞳を輝かせて、傍らのユリウスをちらっと見た。
「そうだよ。クララが早々にマスターしたのは、クララの運動神経が良かったのと…コーチの教え方も良かったのかもね!」
ユリウスが碧の瞳に勝気そうな光を湛えて、得意げに答えた。
「よーし!そこまで言われちゃあ、お互い夫の沽券に関わるからな。おい、イザーク。午後も頑張るぞ」
「あ、ああ。頑張るよ…」
「かぁ〜!何だか頼りねえなあ。おい、もう少し食え!食って力つけろ!リョーニャ、イザークにもうちょっとついでやれ」
クラウスが顔に手をやって大袈裟に天を仰ぐと、娘に顎でイザークの皿にお代わりをサーブするよう促した。
テーブルが笑いに包まれた。
結局、傷だらけになりながらもイザークは夕刻前には何とか自転車をマスターした。
― お互い夫の沽券が保てて良かったな!と言ってクラウスはイザークの背中をバンバン叩きながら朗らかな声で笑った。
イザークの鉤裂きだらけの服は、洗濯した後に私が繕った。私はこれでも貴族の娘だったから、刺繍なども一通りはやっていて、針を使う事は、覚束ない家事の中でも比較的まともに出来る方なのだ。
(イザークは繕いものをしている私に驚いていたようだったが)
サイクリングが楽しみだ!