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第二章 バカンスの始まり

1932年某月某日

 

ゾンマーシュミット家で私達夫婦にあてがわれたのは、ゲストルームに改装したという離れだった。

元は納屋だったというが、造りも母屋同様しっかりとしており、(もちろん今の時節は必要ないが)セントラルヒーティングや水回り、それにバスルームも完備しており(レーゲンスブルクに住むユリウスの姉夫婦が来た時に主に使用しているらしい)、食事以外は全てこの離れで事足りるという、行き届いたものだ。

窓も大きく、陽の光が十分に入って気持ちが良い。室内は清潔に保たれており、インテリアは質素だが、部屋の至る所に飾られた生花、窓辺の鉢植えや、小テーブルの上の花瓶に活けられた花が可愛らしい。

聞くとユリウスも、お嬢さんのリョーニャも花が好きで、庭で育てた花々を活けたり鉢に植えて飾ったという。

「悪いけど、毎朝、鉢植えのお花にお水をあげてやってくれるかな?」

ユリウスに頼まれた。―そのぐらいお安い御用だ。

 

食事は母屋でゾンマーシュミット一家と共に頂く。

 

初日はユリウスとリョーニャが二人で腕によりをかけて拵えてくれたロシア料理をご馳走になった。

この一家は、生活の端々にロシア様式が採り入れられている。食事、お茶を淹れるサモワールという器具、そしてクラウスが愛飲しているウォッカ…。

聞くところによると…、二人が結婚したのはロシアで、彼女が家事諸般を身に着けたのもロシアだったという。なので、生活様式にロシア色が色濃く表れているのだ…と。

(ちなみに、実はクラウスは筆名で…本名はアレクセイという名前だそうだ。但し、夫やレーゲンスブルクの友人たちは皆クラウスで呼び慣れているので皆クラウスと呼ぶとのこと。彼自身も「俺はどっちでもいいぜ」などと言っている。大らかな人だ)

初めて食べたロシア料理は、こっくりと濃厚な味わいがなかなか食べごたえがある。

私は…恥ずかしながら普通の女性が当たり前にできる家事一般を今までしてこなかったので、実は包丁一つ満足に扱えないのだ。(結婚してからはイザークがすべて料理を担当してくれていた。彼の包丁さばきは…なかなか見事なものなのである)

 

片づけを手伝いながらユリウスに「私に料理や…家事を教えてもらえないだろうか?」とお願いしてみた。

彼女はお皿を洗う手を止めて「勿論」と言って快諾してくれた。そして「自分もいい大人になるまで家事なんて一切したことなかった。ロシアで…アレクセイと一緒になってから一から教わって習得したんだ」と語ってくれた。

そういえば、彼女の実家はレーゲンスブルク一の旧家だ。勿論ドイツにいた頃は家事などする必要がなかったのだろう。

明日から一緒に料理を手伝うことになった。休暇が明けてレーゲンスブルクに帰ったら、料理担当を晴れてイザークからバトンタッチできるようになればよいが…。

「この離れを自由に使ってね。バスルームも完備しているからプライバシーも十分に保たれるよ。勿論母屋もいつも開放しているから、そっちにも来てね。食事は僕たちと一緒で、朝は7時、昼は12時、それから夕飯は8時。お茶は母屋にも離れにもサモワールがあるから…後で使い方を教えるから自由に使って。それから…」

ユリウスは私たちにこまごまとした部屋のもののありかやスイッチの位置、バスの湯の張りかた、食事の時間などを一つ一つ案内しながら説明してくれた。

 

「荷物を解いて…落ち着いたら、母屋へ来て。お茶にしよう」

 

母屋のリビングにはお茶の支度が整っていた。

サモワール というロシアや中東で使われる独特の湯沸かし器にはティーポットがかかっており、数種類の果実のシロップと、素朴などっしりとしたパウンドケーキが用意されていた。

 

「お昼食べていないでしょう?だから少しボリュームのあるお菓子を用意したよ」

ユリウスが切り分けてくれたケーキはチーズの風味が効いていて、一口食べた途端に、空腹だったことを忽ち胃が思い出した。舌と胃が満たされる。

 

リョーニャがお茶を注いでくれて、ロシア風のお茶の頂き方を説明してくれた。

 

「このシロップを小皿にとってね、シロップを舐めながらお茶を頂くの」

―うちは、この甘~いお茶がみんな大好き。

 

イザークが

「君は―酒のみなのに…こんな甘いものも好むのか!レーゲンスブルクでは…このお茶の飲み方していなかったよね?…君が甘いもの好きだったなんて初めて知ったよ」

と目を丸くした。

 

「ふん…。ロシア人は大抵の人間が…酒好きの甘党だ。レーゲンスブルクにいるときは…郷に入れば郷に従えだ!」

クラウスが答えた。

某月某日

 

離れのベッドはとても寝心地が良く、旅の疲れはすっかり取れ爽やかな朝を迎えた。

朝食の時間に母屋へ行くと、白いシャツにベージュの幅広のパンツ姿のユリウスが頭に鮮やかな模様のスカーフを巻いて朝食の支度をしていた。

アメリカの…何とかいうハリウッド女優のようだ。颯爽としていてとてもよく似合っている。それに…幅広のパンツの裾から見える細く白い足の甲や捲った袖から伸びる白い腕、無造作に開けられた襟元から伸びる白く細い首とその下に、襟元から見え隠れする鎖骨…。ワンピース姿も美しかったが…パンツルックのユリウスは、エレガントでセクシーだ。思わず彼女に見とれてしまった。

 

 

「―ん?」

― 何か足らないもの、あったかな?

ユリウスを手伝って朝食の支度をしていた私の視線に気が付いた彼女が、小首を傾げて笑顔で尋ねた。

 

「…え?…いいえ。あの…パンツルック、お似合いですね」

 

「え?…ありがとう。ぼくは元々ずっと男のなりでいたから…実はパンツの方が落ち着くんだ。―近頃は、女性もパンツを履くようになったから…これでやっと大手を振るってパンツ姿で外を歩けて、ちょっとほっとしてるんだ」

そう言って、茶目っ気たっぷりにペロリと舌を出し、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

「そういえば…ゼバスに在学していたとか…」

 

「うん。…イザークから聞いているかもしれないけど…ぼくは望まれない女の子だったから…16でレーゲンスブルクを出るまで、性を偽って男の子として生きていたんだ」

―だからぼくのパンツ姿は…年季が入ってるの。

 

笑顔で答えているが、辛く苛酷な日々だっただろう。

普通に女性として育っていれば、さぞかし愛らしい少女だっただろう。それは彼女にそっくりなお嬢さんのリョーニャを見れば一目瞭然だ。

 

「あ!そんな顔しないで。…まいったな。イザークからてっきり聞いているものだと…。

でもね、ゼバスに在学していた2年弱は…イザークのようないい友達にも恵まれて、音楽に没頭して…それから恋もして―、確かに普通の少女時代は…ぼくにはなかったけれども、それはそれで充実したかけがえのない時間だったんだよ」

―ほんとだよ!

 

この女性は、優しくて強い。

 

 

「…私にも、パンツルック似合うかしら?あなたがかっこよくパンツを着こなしているのを見て、…私も着てみたくなっちゃった」

―それ、とても素敵だわ。

 

「クララは…ぼくと同じで、瘦せ型で長身だから…多分ぼくとサイズは同じで大丈夫だと思う…。ぼくのお古でよければ…後で離れに持って行くね」

 

ユリウスが顔を輝かせた。

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