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クララ・フォン・ザイデルフォーファーの日記Ⅵ 喜びの歌

5月某日

 

ウイーンからわざわざユーベルがベルンまでやって来た。

私が手紙を書いてーイザークが指揮者として再び舞台に立つ事を知らせたのだ。

ベルンに到着した彼は、イザークに伴われ、私たちのアパートへやって来た。

私がイザークと結婚後に彼に会うのは今回が初めてのことだった。

イザークの教え子としてではなく、彼の妻として、そしてユーベルの継母としての私を一体彼はどう思っているのだろうか?果たして受け入れてくれるのだろうか?

自分で手紙を書いておいて何だが、私はその日は朝からナーバスになっていた。

 

昼過ぎにアパートへ到着したユーベルは、以前見た時より大分背が伸び、子供からすっかり少年になっていた。

 

「この度は手紙をありがとうございました。…お久しぶりです。…お継母さん」

最後の一言を少しはにかみながら、ユーベルは私に握手の右手を差し出した。

 

その手は大きく節が高い、イザークにそっくりの手だった。

 

私はユーベルを差し出した右手ごと、ギュッと抱きしめた。

 

「ありがとう…ユーベル」

 

その時―

 

お腹の中の子供が、大きく動いた。

 

私に抱きしめられたユーベルがその胎動を感じ

 

「あっ!」

 

と声を上げた。

 

「お腹の…あなたの兄弟も、“初めまして”ですって」

 

私たちは顔を見合わせて、それから声を立てて笑った。

そんな私たちの様子を、イザークが嬉しそうな笑顔で眺めていた。

 

 =====

 

「お産の予定はいつ頃なんですか?」

 

「今月の中頃よ」

 

「じゃあ…今回の第九は残念ながら聴く事は出来ないんですね」

 

残念そうな顔をしたユーベルに私は言い放つ。

 

「どうして?…当然聴きに行くわよ」

 

ユーベルがイザーク譲りの黒い目を見開く。

 

「大丈夫よ。この子にもね、毎日“母様のお腹の中で、父様のベートーヴェンを聴いてから出てきましょうね”って言い聞かせてるもの」

 

私は胸を張って言った。

 

ユーベルは説明を求めるように、父にそのびっくり顔を向ける。

 

そんなユーベルに、イザークは「言って聞くような人じゃないんだよ」とでも言うように、肩を竦めてみせた。

 

 

うちのアパートは手狭なため、ユーベルはベルン滞在中ゾンマーシュミット家へ泊めてもらう事になった。

イザークがゾンマーシュミット家へユーベルを送って行った。

 

いつもこの一家には、本当にお世話になりっぱなしだ。

 

息子がお世話になります と挨拶したイザークに、クラウスはいつもの調子で、

「ウチは賑やかなのは大歓迎だぜ」

と言ってくれたらしい。本当に気持ちのいい人だ。

 

ユリウスとリョーニャの美しい母娘にもてなされ、ユーベルは終始ドギマギしていたらしい。

 

 =====

 

 

5月14日

 

いよいよ本番だ。

イザークは早めにアパートを出て行った。家を出る時の彼は、ごく自然体でリラックスしていたように見えた。

― 今日の演奏は大丈夫だ。

私はその後ろ姿を見て確信した。

 

私はほんの子供の時分から、コンサートピアノニストとしてホールに立ち続けた彼をずっとずっと見続けていたのだ。今日のような時の彼は…最高のパフォーマンスをするのは誰よりも分かっているつもりだ。

 

昼食後、アパートまで迎えに来てくれたユーベルに付き添われて、大きなお腹を抱えてゆっくりと公会堂へ向かう。

 

ロビーで、白ブラウスに黒のロングスカート姿のユリウス、リョーニャ母娘とタキシード姿のクラウスに会う。

 

ユーベルが世話になっている旨礼を述べたら、

 

「あなた、すっかりユーベルのお母さんだね」

 

と三人に笑われた。

 

当然だ。私はこのお腹の子供の他に、もう一人のこの父親似の少年のお母さんでもあるつもりだ。

 

ゾンマーシュミット一家と一頻り談笑した後、彼らと別れて客席に着く。

 

いよいよ開幕だ。

 

 

 =====

 

 

幕が開いて舞台の上に、燕尾服姿のイザークが現れ、観客席へ一礼する。

客席から大きな拍手が起こる。

 

 

《第1楽章 allegro ma non troppo,un poco maestoso》

 

どこかまとまりを欠いたような、曖昧な動機が至るところから提示され、それがいつの間にか一つの大きなうねりとなり主題が展開される。

イザークの指揮棒によって、まるで波のようにその主題部が解けては纏まりまた解けては纏まる を繰り返し、やがて終章の歓喜の歌を想わせる第二主題へと続いていく。メリハリの効いた輪郭のはっきりしたいい演奏だ。

 

上々の出だしに私は胸を撫で下ろす。

 

 

《第2楽章 molt vitace -prest》

 

雷鳴のようなティンパニで始まる躍動的なスケルツォ。

フーガ形式で様々な楽器によって主題が受け渡され、ティンパニを伴って激しく爆発するような激しくも鮮やかな動きのある章だ。

イザークのタクトは躍動しながら音の奔流を炸裂させながらも、ベートーヴェン独特の香気を感じさせる章となっていた。

 

 

《第3楽章 Adagio molt e cantabile -andante moderato》

 

ゆったりとした緩徐楽章。

ホルンと木管による導入部のあとに、弦によって歌うように主題が奏される。

 

頰を撫でていく今時分の風のような、森の木々の間から射す木漏れ日のようなゆったりとした旋律に、先程の楽章では時折私のお腹を元気よく蹴飛ばしていた赤ちゃんも、この章はゆったりと大人しくしていた。

隣のユーベルも、目を閉じてこの緩やかな心安らぐ旋律に身も心も委ねていた。

 

 ====

 

 

そして、第4楽章―

 

シラーの有名な「歓喜に寄す」が独唱と合唱の歌詞に採用された、この交響曲で最も有名な章だ。

 

3楽章が終わって、ここで四人のソリストと、合唱のメンバーが舞台に登場する。

ゾンマーシュミット一家も壇上に上がった。

しかし長身のクラウスに、遠目にも鮮やかな金の髪のユリウス、リョーニャ母娘。この一家は揃って、遠くからでも、本当に目を引く外見をしている。

 

いよいよ、イザーク復活の最後の章が始まる。

 

ティンパニの激しいロールと金管によって鮮烈に最終章の火蓋が切って落とされ、そのあとに続く、唸るような低弦のレチタティーヴォと前の3楽章を想わせるモチーフが交互に奏され、やがて断片的に4楽章の主題が木管楽器によって提示され、それを受けた低弦がゆったりとテーマを引き継ぐ。

 

ユニゾンの低弦によって提示されたテーマは山から流れ出た小さな小川が様々な支流と合流しやがて大河となって大海へ流れ出るように、次々と引き継がれ大きなうねりへと進化してゆく。やがて華々しく全楽器によって奏でられたテーマは最初の金管とティンパニの序奏をもって、夜明けを告げる一番鶏のような

 ”O Freunde, nicht diese Töne!"

 (「おお友よ、このような音ではない!」)

というシラーの詩句が、バリトンソロによって高らかに謳い上げられ、新しい展開を迎える。

 

そのバリトンソロにバスの男声が呼応する。

 

 Freude, schöner Götterfunken,

 Tochter aus Elysium

 

バリトンソロによって歓喜の歌が始まり、それに導かれ、合唱全体が高らかに歓喜の歌を謳い上げる。

イザークと、それからゾンマーシュミット一家が同じ壇上で紡ぐ歓喜の歌―。

 

オルフェウスの窓の運命に引き寄せられ出会った運命の男女が、数奇な運命に翻弄されながらも、こうして一つの舞台に集い歓喜の歌を歌っている姿を、あの窓はどう思うのだろうか?

 

合唱の後の、潮が引くような、打楽器を伴った木管による密やかなテーマの後、静寂を破るように鮮やかに歌うテノールに導かれ、男声合唱が続く。

そして男声と女声の緩やかなコラール風の掛け合いが続いた後、いよいよ、この壮大な歓喜の歌は、クライマックスに入る。

 

激しいプレストのテンポに乗って、イザークの振る指揮棒が、オケ、合唱を引き連れマグマのような熱量でもってラストへ突入する。

 

そして―、この激しくも壮大な歓喜の歌は、華々しく高らかにフィナーレを迎えた。

 

イザークが静かに指揮棒を下ろす。

 

 

 

一瞬の静寂の後に起こった―、会場を揺らすような割れんばかりの拍手の嵐。

 

公会堂が興奮の凄まじい熱気に包まれる。

 

「ブラーヴォ!イザーク・ヴァイスハイト」

 

「イザーク!復活万歳!!」

 

「ブラーヴォ」

 

「ブラヴィッシモ!!!」

 

満場のスタンディングオベーションと、次々に客席から掛かるイザークコール。

 

イザークが熱に浮かされたように、客席を振り返り、深々と頭を下げた。

 

またしても割れんばかりの拍手が起こる。

 

そして、復活のきっかけを作ってくれたコンサートマスターと堅い握手を交わし、オケとソリストと、そして合唱のメンバーに拍手を促す。

 

会場を轟かす拍手の中、オケ全員が起立し、拍手に応える。

 

そしてその鳴り止まぬ拍手に送られ、ソリストが、合唱が退場し、冷めやらぬ興奮の中、幕が下されたのだった。

 

 =====

 

 

会場の人たちが大方退出したあと、ユーベルに労られながら、会場を出て、ゆっくりロビーへと向かった。

 

イザークは大勢の人たちに囲まれ、談笑していた。

 

ゆっくりと会場から出てきた私たちを見つけたクラウスが、

 

「イザークの奥方と息子の登場だ!…通してやってくれ」

 

とよく通る声で、私たちをイザークの前へ導いてくれた。

 

 

 

「あなたのベートーヴェン…ずっと復活を待っていた」

 

私はそれ以上…言葉が続かなかった。イザークの顔が涙で霞んでいく。

 

「これほどに熱く、魂を揺さぶられるベートーヴェンは…始めてでした。同じ音楽家として…これほどのベートーヴェンを奏でたあなたに…妬ましさすら感じます」

― イザーク・ヴァイスハイト。あなたの息子である事を、誇りに思います。

 

父親をしっかりと見つめ、そう言ったユーベルと未だ涙の止まらない私を、二人まとめてイザークはその大きな手で抱きしめた。

 

「ありがとう…ありがとう」

 

私たちの周りから、拍手の輪が広がり、ロビーは再び拍手に包まれた。

 

 

「!?」

 

「どうしたの?」

 

イザークが腕の中の私の様子に気付いた。

 

「…あなた、始まったかも…」

 

私の身体の中で、体験したことのない、猛烈な何かが起こり始めている。

 

「えっ?えぇぇーー?!」

 

イザークのその声に呼応するかのように、私の下半身から大量の水が流れ出た。

 

「破水だ!」

 

近くにいた誰かの声に、その場にいた人間全てが一気に演奏の昂りから現実に引き戻される。

 

「おい!ホフマン先生!急患だ!…今すぐ病院開けてくれ!イザーク、クララを俺の車へ運べ!行くぞ!!」

 

クラウスが、少し離れた場所で観客と談笑していた、未だ今日の演奏の興奮冷めやらぬ合唱団員の一人、医師のホフマン先生の腕を掴み引きずるように車へ押し込んだ。

私を抱き上げたイザークが車に乗り込む。

 

「ユリウス、お前はユーベルとリョーニャ連れて、タクシーで帰れ!産まれたら電話するから!」

 

「わ、分かった!…クララ、しっかり!!」

 

慌ててついて来たユリウス達に向かってクラウスはそう言い残すと、ハンドルを切って、ホフマン先生の医院へと車を走らせた。

 

イザーク復活のその日の夜―、私は元気な女の子を出産した。

 

1933年5月14日。

 

イザーク・ヴァイスハイトとクララ・ヴァイスハイトの長女、フェリシア・ヴァイスハイト誕生。

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