第九十七話
楽しかったグラースでのヨールカのひとときが終わりぼくらはレーゲンスブルクへ戻り、再び日常が訪れた。
初夏の初舞台に向けてぼくとアレクセイは曲目を何にするか話し合った結果、ラロの『スペイン交響曲』の第1楽章をやる事に決めた。
『スペイン交響曲』はスペインの血(正確に言うとバスク人 なのだが)を引くフランスの作曲家にしてヴァイオリニスト、ラロの代表作だ。
初演はやはり同じくバスクの血を引く、『ツィゴイネルワイゼン』で有名なサラサーテによってなされて大成功を収めた。
高速のパッセージや高音の聴かせどころの他に、曲の個性に負けない重厚で強い音と、独特の重量感のあるリズムに負けない音色と技量がヴァイオリン奏者にも、そしてオケパートを受け持つピアノ奏者にも求められる難曲だ。
表題のスペインにはぼくは行ったことはないけれど…、想像で思い描くスペインの強烈な太陽の光と、大地を吹き荒れる熱い風、それからそこに暮らす人たちの熱い血潮を想わせるような曲だ。
ぼくにとってこんな強烈な個性と荒々しさを持つ曲に取り組むのは初めての挑戦で、正直少しの怖さも感じたけれど、でも…。
ヴァイオリンのポテンシャルも、それから弾き手のポテンシャルも双方に高い水準を求めるこの曲を、アレクセイがあのストラドで弾くと思うと…ぼくは心底ドキドキした。
そう!
自分自身のちょっとの恐れよりも何よりも、彼が弾くこの曲をこのぼく自身が聴いてみたいと心から思ったんだ。
だからぼくはアレクセイの提案したその曲に賛成した。
練習はぼくの体調を考慮して、早め早めに時間に余裕を見ながらのスタートとなった。
空き時間を見つけては、それぞれピアノに、ヴァイオリンに向かい譜読みを進める。
ぼくは今までどちらかというとシューマンやショパン、軽快なモーツァルト、独特の音のエスプリを感じさせるフランスもの、それから華やかなイタリアバロックなんかを十八番としてきたから、実際に弾いてみると…これはある程度予想通りだったのだけど、今まで取り組んできた曲の数々とは対照的とも言える個性に、そのギャップに、ぼくは戸惑った。
ぼくの今まで持っている引き出しでこの曲に取り組んでも…なんだかしっくりこないんだ。
そしてぼくのその「しっくりこない」はアレクセイのヴァイオリンと合わせて見ると、より顕著なものとなった。
合わせが始まってぼくは自分の至らなさに、文字通り打ちのめされたんだ。
-------◇--------
「ストーップ、ストップ!」
アレクセイが曲を止める。
「そうじゃないんだよ。…分かるか?スペインだ!荒々しくてもいいから強い、大地をふみ鳴らすような、聴き手の心臓をグイと掴むような、そういう音だ。綺麗に弾こうなんて思うな」
「リズムが弱い!いいか?ダッダッダーン!だ」
…もう、何度目だろう。
イントロのところで、早速アレクセイのダメ出しを喰らい、そこで頓挫してしまっている。
アレクセイの要求に応えられない情けない自分に泣きたくなるのを必死に堪え、もう一度イントロに食い付く。
「弱い弱い!!もっと強く!こう」
アレクセイがピアノの上にヴァイオリンを置いて、ぼくの横から両手を伸ばし、出だしのフレーズを弾いてみせる。
…ピアノ弾きのぼくから見ると、てんでデタラメな弾き方なんだけど…でもぼくが弾くよりも断然、らしい感じになる。
「分かるか?」
いつもと違う、熱を帯び少し色が濃くなった鳶色の瞳を向けられ、情けない事にとうとうぼくの意気地がポキリと折れてしまった。
あまりの情けなさと悔しさに、涙が止まらない。
ピアノの前で忌々しい悔し涙を止めることが出来ずにいるぼくに、
「ユリウス、少し休もう」
と、アレクセイが膝の上で堅く握りしめていたぼくの両手をそっと取った。
さっきとは打って変わった優しく穏やかな口調に、余計自分が情けなくなって、頑是ない子供のようにピアノの椅子に座ったままぼくはイヤイヤと首を横に振る。
そんなぼくの肩を、アレクセイは優しく両腕で包み込むようにして立たせると、ぼくを傍の長椅子へ座らせた。
二人して長椅子に掛け、感情をコントロール出来ないぼくの傍でアレクセイはずっと肩を抱いて頭を撫で続けていてくれた。
その優しい手の温もりと感触に、潮が引くようにぼくの感情と、それから涙も収まってくる。
「…くやしい」
「うん…」
悔し涙を流すぼくに、アレクセイは特段慰めの言葉をかけることもなくただただぼくの感情を受け止めてくれていた。
大勢のお客様を前に舞台に上がることを目標として二人で弾いて初めて思い知った技量とセンスの差。
音楽の相性もいい…なんて思い上がっていた自分が恥ずかしい。
今迄は…アレクセイがそれなりにぼくに合わせていてくれた部分もあったんだ…きっと。
それに全く気づかずに。
「恥ずかしい…」
小さく呟いたぼくの言葉に、「ん?何がだ?」とアレクセイがぼくの顔を覗き込んで聞き返す。
「…ぼくたちは、音楽の相性もいいなんて…思い上がっていた自分が恥ずかしい…。いつもアレクセイがぼくの技量に合わせて…ぼくのところまで降りて来てくれていたのに…」
俯いて消え入りそうな声で心の内を吐き出したぼくのその言葉に、少し驚いているようなアレクセイの気配が伝わってくる。
「…そんな事考えてたのか?バカだなぁ」
明るい声でそう答えて、アレクセイはぼくの身体を抱き寄せると頭をクシャクシャと撫でて最後にほっぺを軽く摘んだ。
「痛いよ…」
「悪い悪い」
そう言ってぼくの頰を指で撫でるアレクセイの声は…少し笑いを含んでいた。
「なんで…俺がお前と合奏するときに手加減していたなんて、アホなこと思ったんだ?」
「だって…ぼく…あなたの要求する事にちっとも応えられてないし…あなたの要求するレベルに程遠いし…」
やだ…。
また喉の奥から嗚咽が込み上げてくる。
再び込み上げる嗚咽と涙を堪えて俯くぼくにアレクセイが答える。
「俺は、今まで誰と合わせた時も一度だって手加減なんてしたことないぜ。いつも真剣だ。だって失礼だろ?音楽にも…合奏相手にも。俺は音楽の前では自分の全てを出す。それは昔も今も、初めてヴァイオリンを手にした時からずっと変わらない。だから…お前が俺との音楽の相性がいいと思ったのは、それは別に否定しないでほしい。だって事実、それに関しては俺も同感だからだ。お前がまだこの曲に馴染まないのは…今までお前が積み上げてきた音楽とこの曲が全く異質だからなんだ。それはお前の実力不足なんかじゃないと思うぜ。従来得意としてきたジャンルとは大きく異なった、しかもお前が今まで取り組んできた独奏や室内楽とはやや要領が違う協奏曲のオケパートの伴奏だ。…オケパートの伴奏、やったことあるか?」
「…ない」
ーープッ!
アレクセイが小さく吹き出す。
「そりゃあお前にとっては初めて尽くしなんだ。初めてのジャンルに初めてのオケパート、そして初めて上る舞台。何もかも初めてでアウェイなんだから上手くいかなくてそりゃ当然さ。幸い本番までまだ時間はある。練習は始まったばかりだ。これから試行錯誤して本番までに間に合わせればいいんだよ。…だけど俺は一切妥協はしたくない。やるからには全てを出し切りたいし、もちろんパートナーにもそれを要求する。…だから初めて尽くしのお前の負担になるようだったら今回はラロは見送ってお前の得意な…」
アレクセイの言葉の続きを、ぼくは激しく首を振って遮った。
「そっか…。ハハ…やっぱお前負けず嫌いだな。でもそういうところ、いいと思うぜ。ヨシ!やるとなったら後は前進あるのみだ!お母様は頑張ると言ってるぞ?ん?勇ましいなぁ。お前のマーマは」
最後は戯けてぼくのお腹に話しかけると、「さ、続けようぜ?」と立ち上がったアレクセイがぼくに手を差し出した。
差し出された手に、自分の手を伸ばす。
温かくて大きくて、ぼくの大好きなアレクセイの手。
「ン!泣いてたカラスが何とやらだな。それでこそ俺のユリウスだ。…頼りにしてるぜ?パートナー」
ーーおい、音くれ。
再び曲と向き合う。
楽器を構えたアレクセイがぼくにA音を要求する。
何…思い上がって、テンパってたんだろう。
この人の、天賦の才能はハナっから分かってたことじゃないか。
ぼくができることはひとつだけ。
必死で彼の音楽に…自分の全てを出して食らいついて行くのみ。
今はキツくて自分が不甲斐なくてしんどいけど…でもこれを乗り越えたら彼はきっと、ぼく一人では体験したことなかった音楽の地平を見せてくれる。
ううん!見せてくれる…なんて他力本願じゃダメなんだ。
彼に、彼の音楽に遮二無二ついて行って…絶対に彼の示す「その場所」へ到達する。
彼の存在が、彼のヴァイオリンが、ぼくの勇気と闘志を掻き立てる。
背筋を伸ばし、楽器を構えたアレクセイを見据える。
ーーいいぜ。
アレクセイの瞳のGoサインを受けて目で頷くと、ぼくは今だし得る全ての力をイントロにぶつけた。
ーーいいぜ!それだよ!
言葉には出さないけど、傍のアレクセイの気配がそう言っているように感じた。
ぼくの渾身のイントロをアレクセイが受ける。
強くそして最後はすすり泣くような高音。
やっぱりこの曲は最高だ。
アレクセイに、アレクセイのストラドに相応しい。
ぼくとアレクセイの音が、魂が、ぶつかり、そして融和して行くのを、ぼくはゾクゾクするような戦慄が猛烈なスピードで背中から昇ってゆくのを感じながら感じていたんだ。