第九十六話 Ⅷ
scene1
年が明け、グラース滞在の最後の日に、俺たちはカンヌまでピクニックに出かけた。
車に二台分乗し、一台はミハイロフ家、つまり俺とお祖母様、そしてユリウスとリーザ、それからレナーテさん。そしてもう一台はユスーポフ家、ユスーポフ侯爵夫妻、そしてレオニードJr.とそれからアデール夫人の侍女のネーリ(と夫人の愛犬のソワ)というメンバーだ。
俺と侯爵がハンドルを握り、目的地まで車を連ねて走らせる。
(俺はパリへ逃れた当初タクシーの運転手で生計を立てていたから運転はお手の物だ)
そして俺の隣で地図と首っ引きでナビを務めている頼もしい相棒はリーザだ。
(ユリウスがナビを名乗り出たものの「ママは大人しく後ろに乗ってて!さ、行こ。アレクセイ」とユリウスはこのしっかり者の娘にサッサと後部座席へ追いやられてしまったのだ)
「身体、大丈夫か?気分悪くないか?」
後部座席のユリウスに逐次声をかけながら、安全運転第一で慎重に車を走らせる。
「大丈夫だよ。爽快この上ないです」
リーザにナビ席を奪われて、当初は不満顔で後部座席の婆さんとレナーテさんの間に収まっていたユリウスも、移りゆく景色や海に近づくにつれ色濃く感じられる開放的な光や風の匂いにすっかり機嫌を直し、明るい声で返事が返ってくる。
「ユリウスや、寒くはないかえ?」
「ええ、大丈夫。お祖母様と母さんに挟まれて、温かいです。お祖母様こそ風は冷たくありませんか?」
「おやおや、わたくしを…どこの生まれだと思っておいでかえ?このぐらいの風、何ともありませんよ。本当に南フランスというのは…冬でも暖かい」
本当にそうだ。
お祖母様や俺らロシア人にとっては冬でも雪の降らない陽光の燦々と降り注ぐこの南仏の気候は、なんだか冬を忘れた地のように感じる。
「本当ですねぇ…。雪のない1月なんて…俺たちロシア人にとっては考えられないですね」
「そうですね…。ふふ。でもこれも悪くありませんよ。わたくしは故国で長年悩まされていた神経痛が…ペテルブルクを離れた途端に嘘のように影を潜めてしまいました」
確かにグラースで再会した婆さんは、ペテルブルクで最後に会った時よりも身のこなしがしゃきっとして元気そうで、そのためかかえって若返ったようにさえみえたのだった。
「ハハ…そりゃ良かった…って言って、いいのかな?」
「勿論です。何をおいても元気が、健康が一番。わたくしは生きていて今が一番心身ともに健康ですよ」
「長生きしてくださいよ」
俺の言葉に婆さんが力強く請け合う。
「当然です!わたくしは健康と長寿を保ち、この子に、ユリウスのお腹にいるこの子に会わなくてはなりませんからね」
「生まれたら…お祖母様、是非レーゲンスブルクへこの子に会いに来て下さい。ね?」
ユリウスの提案に婆さんが嬉しい悲鳴をあげる。
「まぁま!この娘ったら…この婆に南仏からドイツまで長旅をさせるつもりのようですよ。…どうでしょうねえ?アレクセイや」
婆さんの嬉しそうな声にハンドルを握りながら俺も答える。
「これだけ元気なら余裕ですよ。…来てくださいよ、レーゲンスブルク。今は寝台列車も快適ですし」
「一等車両をお取りしておきますので。ね?是非いらして。お祖母様」
「ではわたくしは益々健康増進に努めなくてはなりませんね」
少しはしゃいだ婆さんの声が、なんだかとても嬉しかった。
「アレクセイ、標識見えてきた」
やがてクリスマス休暇を過ごすリゾート客で賑わう市街地に入る。
「えーと次を右折」
地図と首っ引きでナビをしてくれていたリーザの指示に従い、予約していたレストランの駐車場に車を入れる。
「ナビご苦労さん」
「どういたしまして」
車を降りてヨットハーバーに面した風光明媚なレストランに入る。
後方を走っていたユスーポフ家の車も到着し、夫妻たちが車から降りてきて合流する。
「あの途中にあったブティック、あとで覗いても良いかしら?」
「アデール…」
目ざとくブティックに目をつけたアデール夫人の言葉に侯爵が苦々しい顔になる。
「お願い!長居はしないわ。ね?」
アデール夫人の無邪気なおねだりに「では30分だけだぞ?この度はそなた一人ではないのだから、これ以上の要求は飲めぬ」と侯爵が譲歩する。
「ありがとう。30分あれば十分よ」
「何か良いものを見つけたの?」
そこへ俺たちが合流する。
ユリウスに訊かれたアデール夫人が嬉々として答える。
「ええ。ソレイアードのね、ステキなお店が目に入ったのよ」
「そんなのあったっけ?」
ユリウスがリーザやレナーテさんや婆さんと顔を見合わせている。
「どうだったかしら?」
「うーん。リーザ市街に入ったら地図とにらめっこしてたからなあ…」
「まぁ、いいわ。きっとあなた達も気にいると思うから!」
「アーデーール!」
「ハイハイ。そんな怖い顔なさらないで。30分!30分ですわよね。分かっております」
苦虫を噛み潰したような侯爵に歌うようにアデール夫人が答えた。
「すまぬ…」
俺たちに頭を下げる侯爵に「いいよ。そんなにステキなブティックならば、楽しみだよ」「せっかくだからテーブルクロスを新調するのもいいわね」とユリウスたちが取りなした。
レストランでは海の見える眺めの良いテラス席に案内された。
燦燦と冬の陽の降り注ぐテラスで魚介の盛り合わせや濃厚なスープ、トマトのファルシーにオリーブのフーガスと、地中海の恵みを堪能する。
「こんなに沢山のお魚やエビや貝、初めて!」
ドイツの料理とは全く異なる太陽と海のもたらす素材の旨味にリーザが歓声をあげる。
「去年の…ユトレヒトのレストランを思い出すね」
そう言って微笑みかけたユリウスに微笑み返す。
「ほう…。そう言えばシフが…そなたから頼まれたと言ってアントワープの知人に連絡を取っていたな」
「うんそれ。目的はユトレヒトの音楽祭だったのだけど、他にアムステルダムとそれから国境を越えてベルギー…アントワープとオステンドも回ったよ」
「ママとアレクセイの婚前旅行よ。そこでアレクセイママにプロポーズしたんですって!」
「おい、リーザ!」
照れる俺に
「いいじゃない。でも婚前旅行しといて良かったね。こんなに早くおめでたが訪れちゃったから…もしかしたらハネムーン行きそびれちゃったかもしれないもんね」
とリーザが返す。
「次の旅は…きっと家族五人での旅になるね。あなたとぼくと母さんとリーザ…そしてお腹のこの子の五人で」
「まぁ、差し当たっては最初の旅は…次のクリスマス休暇だろうな。五人でまたお邪魔しますので、そん時はお世話になります」
俺の言葉に婆さんが相好を崩す。
「ええ。勿論です」
「ユリウスとアレクセイの子供ならば、きっと音楽の才能にも恵まれているのでしょうね。やっぱり楽器は習わせるのでしょう?」
そう訊いてきたレオニードJr.に俺が答える。
「そういや去年もお前さんそんなようなこと言ってたなあ。うーん、希望としては…そうなったらいいなと思うけど…無理強いする気はないな」
俺の言葉にユリウスも頷く。
「うん。音楽を好きになってくれて家族で合奏なんか出来たらとても楽しいだろうなと思うけど…、ぼくも無理じいはしたくない…かな」
「そなたらはどうだったのだ?…今それだけの腕前があるということは、ピアノにしろヴァイオリンにしろ、子供の頃から相当弾き込んでいたということであろう?…幼い頃からの地道な反復練習は苦にならなかったのか?」
「わたくしたちはそれに根を上げて挫折してしまったクチですものね」
すかさず半畳を入れるアデール夫人に「アデール!」と侯爵が苦々しげな顔になる。
「俺は…身近に憧れの存在があったからな。初めて聴いた時から兄貴の音が強烈に耳から離れなくて、その音を追いかけてヴァイオリンに夢中になった。そうして夢中になって憧れの音を、音楽を追いかけるうちに…どんどん上達して行って…御前演奏の栄誉にも預かったな」
「あれならば私も宮廷で聴いていたぞ。まだ幼いのに見事なものだと感心したな」
「そりゃ…どうも」
「ぼくも…苦にはならなかったかな。ピアノは多分自分で言うのもなんだけど、適性があったんだと思う。練習すればするほど上達して…だから反復練習もそんなに苦にならなかった。それに前もちょっと話したと思うけど…ぼく幼い頃に友達が殆どいなかったんだ。だから余計に、ピアノにのめり込んだ…というのもあるかな」
ーーそれと…。
そう言ってユリウスがチラリとレナーテさんに視線を向けた。
「母さんが…ぼくがピアノを弾くと母さんがとても喜んでくれた。「上手ね。ユーリカ」「あなたのピアノは本当に優しい音がする。あなたのピアノを聞いていると1日の疲れも忘れるわ」って言ってくれて…。だから嬉しくて…もっと母さんに喜んでもらおうと思って沢山沢山練習した。子供のぼくは母さんのお荷物で…母さんのために出来ることなんて…本当に僅かしかなかったから。母さんのために一生懸命に練習して心を込めて弾いたんだ」
「ユリウス…」
貧しくて孤独でお互いを支え合うようにして生きていた時代の娘の思いがけない回想に、レナーテさんが込み上げた涙をそっとナフキンで拭った。
「そう言えばママは、忙しい時でも疲れていてもリーザがピアノを練習するときはいつもそばで聞いていてくれたよね。そばで聞いていてくれるだけで、すっごい励みになったな。それに…ママのピアノにじっと耳を傾けているおばあちゃまをずっと見てきて、リーザも…こういう風に演奏出来たらな…ママのようなピアノを弾きたいなってずっと思って、今も練習している…かな」
「リーザ…」
リーザの告白にユリウスも感激で瞳を潤ませている。
「確かに他人が聴いてくれる、褒めてくれるって…大きなモチベーションになるよな。かく言う俺も…何をしてもダメ出しばかりされていたのに、ヴァイオリンだけはお祖母様が耳を傾けてくれて…褒めてくれたんだよ。あれは嬉しかったなあ」
「そうでしたね。幼い頃のこの子と来たら…粗野で反抗的で…何をやらせても身につかない困った子でしたから、正直ヴァイオリンも大した期待はしていなかったのですよ。「どうせすぐに投げ出すのだろう」と。でもドミートリィの強い勧めもあって、何より反抗ばかりしていたこの子自らが「ヴァイオリンを弾きたい」と強く訴えてきたので、教師をつけたら!何とまぁ、音楽に明るくないわたくしが聴いても分かるぐらいの天分を発揮して…。なによりもヴァイオリンを弾いている時のこの子は…本当に楽しそうでねぇ…」
往時の思い出に目を細めながら婆さんが語った。
「ハハ…散々世話を焼かせました」
「ホホ…そうでしたね。でも、もう良いですよ。お前が手を焼かせてきたお陰で…わたくしは老いぼれる暇も、あちらへ召される機会まで逸してしまいましたよ。きっとお祖父様も待ちくたびれてしまったかもしれませんねえ」
「ハハ…。ドミートリィの言った通りですね。「今のでお祖母様は10は若返った」ってね」
「アレクセイにも…お兄さんがいたのですね」
Jr.の何気ない一言に、この席で俺の兄を知るー、俺の兄がどういう最期を遂げたか知る人物の間に一瞬何とも言えない空気が漂う。
その空気をとっさに払拭したのは、アデール夫人だった。
「ええ、そうよ。風貌こそ…アレクセイとよく似ているけれども、でも彼はとても品があって、そうね…彼こそ正しくプリンス…と言った風情の人だったわね」
「おい…ちょっと。それじゃあ俺がまる…」
「本当のことではありませんか」
俺の抗議をシレッと婆さんが遮る。
アデール夫人がなおも続ける。
「とてもヴァイオリンがお上手でね、わたくしは伯父様の…皇帝陛下の御前で、彼の演奏の伴奏を務めたこともあったのですよ」
普段はあまり語らない前半生…母の娘時代のエピソードにJr.が目を瞠る。
「えぇ?母上が?ピアノ?!」
「…何よ。そんなに驚くことないじゃありませんか!わたくしだって…一応貴族の子女としてのたしなみ程度の手ほどきは受けたのですよ」
アデール夫人がツンと鼻を聳やかす。
「それも…覚えておるぞ。何というか…なぁ?ロストフスキー」
その時もそばに侍していたのだろう、話を振られたロストフスキーがなんとも言えない表情で「はぁ…」とだけ返す。
「分かっておりますわ!…以前にヴァシリーサ様からも言われましたから!わたくしの腕前がお粗末なのは…わたくしが一番自覚しております!!」
むくれるアデール夫人に、再びテーブルに笑いが戻った。
笑いながら婆さんが言った。
「でも、ドミートリィのヴァイオリンに合わせて懸命にピアノを弾いていた少女時代のあなたは…それは可憐で愛らしかったですよ」
婆さんの言葉に、侯爵も言葉少なく同意した。
「…それは私も同感であるな」
思いがけない侯爵の一言に、アデール夫人が頰を染めてボソッと呟いた。
「…ピアノの腕前は…惨憺たるものでしたけど…ね」
scene2
レストランを出て海岸へ向かう。
「わぁ!海!!」
「本当に果てしないのねえ!対岸が見えないわ」
何と海を見るのは生まれて初めてだというリーザとレナーテさんが果てしなく広がる海と寄せてくる波に歓声を上げた。
リーザが波打ち際まで走り寄り、おもむろに海原に向かって叫ぶ。
「ヤッホーーー!」
母親と同じ行動に思わず笑いが込み上げる。
(何だ?海に向かって叫ぶのは、血のなせるわざなのか?)
リーザのその叫びに、俺とユリウスが顔を見合わせ、それから腹を抱えて笑い転げた。
「アハ…アハハ…」
「なんで笑うの〜?」
不満げに唇を尖らせてそう言ったリーザに
「アハハ…悪い悪い…。でも、海に向かって叫ぶのも、叫ぶ言葉まで…母娘一緒なんだなぁって…なぁ」
笑いながら答える。俺の言葉に笑いながらユリウスも頷いた。
「もー!二人とも笑い過ぎ〜〜!…じゃあ、じゃあぁ!何て叫べばいいわけ?」
プーと頰を膨らませて訊いてきたリーザにユリウスが答える。
「アレクセイ、お手本」
「よっしゃ!」
波打ち際のリーザの隣に立つ。
そして大きく息を吸うと
「海ーーーー!」
と叫んだ。
俺の叫びに、一同のポカンとした様子を、背中に感じる。
一瞬ののち、皆の大爆笑が追いかけてきた。
「ハハ…アハハ…。海に向かって「海」と叫ぶ奴がいるとは…!アハハ…」
「フフ…オホホ…アハハ!」
「オホホ…。お前は…相変わらず馬鹿ですねぇ。ああ、もう本当に…」
「何だよ!何で笑うんだよ!?じゃあ何て叫べばいいんだよ?」
俺の投げかけに、「ふむ。それも…そうであるな」と呟き、侯爵も波打ち際までやって来ると
「海ーーーー!」
と叫んだ。
朗々としたバスバリトンが海原と青空に響き渡り余韻を残す。
「ホラ、お前たちも叫んでみろ。中々爽快であるぞ?」
振り返った侯爵に促され、残りの人間が顔を見合わせている。
やがて「ゴホン…。ではわたくしも…」と意を決したようにロストフスキーがやって来ると、
「海ーー!」
と叫んだ。
「ホホ…。じゃあわたくしも!」
そう言って波打ち際へ行こうとする母親に、「え?は、母上も?」と驚いたようなJr.の手を引き「ほら、あなたも」とアデール夫人が俺たちの方へやって来た。
「海ーー!」
アデール夫人に続いてJr.もまだ声変わりを迎えていない澄んだ少年の声で叫ぶ。
「海ーーーー!」
アハ…アハハ…アハハハ!!
俺たちは新春の煌めく南仏の海に向かって叫び、腹の底から笑い合った。
-----------◇-----------
「ソワ、行くよ。…ホラ!」
リーザが投げた小さな流木の切れ端目掛けソワの小さな身体が砂浜を駆ける。
千切れんばかりに尻尾を振ってリーザの所に流木を咥えて戻ってきたソワの頭を撫でる。
「本当に、ソワはリーザのことが好きなんだね」
Jr.の言葉にリーザが微笑む。
「そうね。私たちとても気が合うみたい。…ハイ」
リーザがソワから受け取った流木の枝を手渡した。
「次は…このお兄ちゃんが投げてくれるって!」
ソワの黒くて丸い瞳が「早く!」と語りかけるようにJr.を見上げる。
「よ、よーし!行くぞ?ソワ」
ーーそれ!
Jr.の放った枝をソワが一目散に追いかけて行った。
「さっき言っていたけど…海、初めて見たって…」
「ええ。生まれた街のフランクフルトも、今住んでいるレーゲンスブルクも、海からはほど遠い内陸地だもの。今度女学校でハンブルグの港湾都市を見学する予定なんだけど…初めてみた海が、この南仏の海で良かったな…って思った。だって生まれて初めて見る海が…味気も素っ気もない軍港と港湾施設なんて…ガッカリだもの」
「ハハ…。そっか…。そうだよね。でも…港、軍港もリゾート地とはまた違った面白さがあるんだけどな…」
Jr.の言葉に、リーザが小首を傾げ碧の瞳を向ける。
「港湾都市は…その国のいわば玄関のようなものだから、船やそれに付随するテクノロジー、それから沢山の国の沢山の人がそこに集結するんだ。あらゆる設備、組織、それから文化が港湾都市には詰まっている」
海の話に思わず饒舌になるレオニードJr.に、リーザがじっと耳を傾けている。
彼女の「それから?」と語りかけるような大きな碧の瞳が、いつになくJr.を饒舌にさせた。
ひとしきり船と港の薀蓄を披露したJr.が、我に返ってハッとなる。
ーーしまった!つい調子に乗って…。こんな話…女の子はきっと興味ないよな。
Jr.の懸念とは裏腹に、薀蓄に耳を傾けていたリーザが、
「凄く詳しいのねえ!ビックリした」
と素直な賞賛を送る。
「港湾都市と軍港なんてつまらないと思ってたけど、ウン!俄然興味が湧いてきた。ねえ、見学に行くまでに色々調べてみようと思うのだけど…何かお薦めの本とかある?」
思いがけず自分の話に食いついてきたリーザに戸惑いながらも
「あ、ドイツ語じゃなくて…英語でも構わないなら…」と答えたJr.に
「うん、英語で構わないよ。後でレーゲンスブルクの住所教えるからリストを送って?」
とまんざら社交辞令でもないようだ。
「あの…」
「ん?なあに?」
「こんな話…女性には退屈…じゃなかったの?」
おずおずと訊ねたJr.にリーザが答える。
「うーん。たしかに一般的には…あまり女性向きの話題じゃないかもしれないね。だけど」
「だけど?」
「君の語る、その話はとても面白かったし、のみならず、聞いているうちに興味と関心が湧いてきた。それはきっと、君の話が通り一遍の浅い知識ではなくて、深い造詣と対象への愛に裏付けられたものだったからじゃないかな。大事なのは、どんな話題か…じゃなくて、どれだけそれを相手に伝えたいか…なんじゃないかな?…君の情熱は、聞いていてよく伝わったよ。だから、ちっとも退屈じゃなかった」
ーー海、好きなんだね。
リーザの問いかけにJr.が大きく頷く。
「幼い頃、一時期海の近く…クリミアのヤルタで暮らしていたんだ。それは実は囚われの…赤軍に囚われていた虜囚の身だったのだけど、幼い時から海は常に僕の近くにあった。その後英国海軍に救出されて僕らは祖国を離れた。その時に乗った軍艦マールバラと黒海の海原が、僕の海への憧れと渇望の原点かな。大きな軍艦の甲板とその下に広がる大海原、そして艦長の指示の下、キビキビと立ち働く海兵たち。ぼくは大人になったら…海に関わる仕事に就きたい…とその時に心に決めたんだ。そしてその時の憧れと夢は…今も変わらない」
ーー僕は、パプリックスクールを卒業したら、海洋工学へ進みたいんだ。
海の彼方を真っ直ぐに見つめながらそう語ったJr.の横顔は、歳よりもずっと大人びて見えた。
「…すごいね。もう、その歳で将来の夢に向かってしっかりと歩んでるなんて。…君の話を聞いていたら、なーんだか焦っちゃうな」
「でも、僕の希望通りの進路に進むとしたら…両親の…せっかくパプリックスクールへ進学させてくれた両親の期待に背くことになってしまうんだ。…僕の学校の生徒の殆どは…ケンブリッジかオックスフォードへ進学していて…でもケンブリッジにもオックスフォードにも…海洋工学を学べる学部はないんだ」
先程までキラキラと輝いて海原を見つめていたブルーグレーの瞳が僅かに陰る。
Jr.の話にじっと耳を傾けていたリーザがそんな彼に問いかけた。
「それ…君の夢、ご両親には、レオニードおじ様たちには話したの?」
「え?」
リーザの言葉に思わず俯いていた顔を上げ、彼女に向き直る。
「言って…ない」
「どうして?君の夢のこと、海への憧れと情熱を、ちゃんとご両親にぶつけてみなよ。きっとおじ様もおば様も…君の話にキチンと耳を傾けてくれて、君の進路を後押ししてくれる筈だよ」
「でも…そうすると、パプリックスクールに入った意味が…父と母の期待を裏切って…」
「そんな事ないよ!…ねぇ、君が憧れていた進路に、夢に突き進むことを、どうしておじ様たちが止めたりするかなぁ?おじ様は、君に自由に生きて欲しいと思っている筈だよ。おじ様、昔っから会う毎に言ってたもの。「これからは女性もなりたいものになって自由に生きられる時代が来るから、何にでも興味を持ち挑戦し、沢山学びなさい」って。そんなおじ様が…よもや頭ごなしに君の進路に異を唱えるなんてこと…、自分の意向を君に押し付けるなんて事、ないと思うけどな」
「父上…が?」
「そうだよ」
「でも、家や…それから、会社は?ぼくはユスーポフ家のたった一人の男子だし…」
「別に夢を追いかけて好きな道へ進んでも家は継げるし、会社は…そりゃ将来的にはどうか分からないけれど…今のところおじ様もピンピンしてるし、ロストフスキーさんやマネージャーのシフさんも健在だもの。それは後々考えればいいんじゃない?夢に進むためのスタートラインに立ちもしないで諦めるのは…おかしいし、第一もったいないと思うなぁ」
「じゃあ…あなた…は?お母様の事業を…継がなきゃって…思わないの?」
「え?わたし?」
「うん。ユリウスは…ヨーロッパでも有数の実業家で、会社も沢山持ってて…。そういうの継いで行かなきゃって…」
Jr.の問いかけに、リーザが答える。
「確かに…ママや、それからアーレンスマイヤ家の会社は沢山あるけど、リーザがそれを引き継ぐなんて、考えたことなかったな。ママもね、「リーザは自分の好きな道へ進みなさい」って言ってくれてるし。そりゃ、ママの経営している事業で、興味のある業種はあるよ。例えば…化学とか薬学の方へ進んで後々サンデュ製薬の研究開発に携わるのも楽しそうだし〜、統計学を学んでママ達が手掛けている都市開発に関わるのもいいかな〜」
「研究開発?統計学?…経営ではなくて?」
「うん。経営は…少なくともサンデュ製薬はママ、後々はアニエスに譲るつもりなんじゃないかな。あ、アニエスってね、私のお姉さん。父が同じのね」
「父が?同じ?」
思いがけない言葉にJr.が瞳をパチクリと瞬かせる。
「うん、そう。ウチ…というか、リーザの実の父親…ね、ママとの間の他に…ママ以外の女の人との間に、子供が二人いて。だから何気にリーザ兄弟多いんだよね。今現在三人兄弟の真ん中っ子。さらに今年の夏には四人兄弟に増員しまーす」
「そう…なんだ!」
「そうだよ〜。すぐ下の…弟は一度しか会ったことないし、まぁ他人のようなものだけど、アニエスとは仲良いの。小さい頃からずっと一緒だったし。優しくて頭が良くて…初めて会った時から彼女のことが大好きだった。今でも」
「ふぅ…ん。そう、なんだ」
目の前のお嬢様お嬢様然とした彼女の、案外と複雑な家庭事情にJr.は暫し呆然となるも、目の前のリーザは実にあっけらかんとしたものだった。
「ん?でも、アニエス…さんて、サンデュ製薬の副社長さん…だよね。えと…どうしてアーレンスマイヤ商会系の会社にその…ユリウスの別れた…」
「でしょ?あのね、アニエスはね、少女時代に家出してウチに、…というかママの元に押しかけてきたんだって!ママの元で修業させてほしい。ビジネスを学びたいって。…でね、その捨て身のお願いが効いたのか…おじいちゃま始めアーレンスマイヤ家の人たちに妙に気に入られてね、以来アーレンスマイヤ家の書生として経営の修業をしながら女学校を卒業したの。勿論熱意だけじゃなくてとても優秀だったから、女学校卒業後はアーレンスマイヤ商会の戦力としてバリバリ働いてる。リーザはまだ子供だったからその当時のアニエスがウチに来た詳しい経緯は知らなかったんだけど、優しいお姉ちゃんといつも一緒にいられるようになったのは、とても嬉しかったな。最近アニエスからその当時の話を聞いたんだけどね、アニエスったら、「あの当時の自分の無鉄砲さと厚かましさを思い出すといまでも嫌な汗が出る。ユリウスを裏切った父の、なさぬ仲の子である私なんて…普通だったら即つまみ出されても仕方のない立場なのに。アーレンスマイヤ家の人たち皆がとんでもなく器がデカくて本当に救われた。思い出すにつけ感謝しかない」ってね。でもママもおじいちゃまも、伯父様も伯母様も、「必死で縋って来た少女を放っておけなかった」って。彼女は、アーレンスマイヤ家にとって今やかけがえのない存在だよ」
ーー社員としても、それから一緒に暮らしてきた家族としても…ね。
「へぇ…。…父がアーレンスマイヤ家の人と過ごした時間を、とても大切に思っていることは、父から聞く話の端々からも伝わって来たのだけど…僕もいつか、レーゲンスブルクの、アーレンスマイヤ家の人たちに会ってみたいなあ」
「なら、来てよ!きっとおじいちゃまも伯父様も伯母様も、それから従姉妹のテレーゼも…あの屋敷の人たちみんな君を見たらビックリすると思うよ!「侯爵に瓜二つ」って」
想像するだに可笑しくて堪らないと言うようにリーザが肩を小さく揺らしてクスクスと笑った。
「え?僕と…父、そんなに似ているかな?」
当の本人はあまり自覚がないのだろう。首を傾げながら片手で顎をひと撫でしてそう聞いてきたJr.に、びっくりしたように目を瞠ったあとにリーザが答えた。
「うちのママとリーザぐらいに、二人はそっくりだよ」
Scene.3
砂浜に敷物を敷いて、ネーリがお茶の支度を始める。
お茶の道具一式の詰まったバスケットを開き、先程レストランで貰ったお湯を沸かし直す。
簡易湯沸かし器に掛けられた銀製のポットから湯気が上がる。
ち
ネーリを手伝ってユリウスとレナーテさんが持参した菓子を並べたり、切り分けたりしている。
女性たちの支度を何とは無しに眺めながらも、海岸に立ち並ぶ屋台や売店を見渡す。
湯気を立てている焼き栗の店や、ドリンクを供する店、パラソルを貸し出す店、それから、子供のために色とりどりの風船やそれから凧を売る店もある。
「あら、懐かしいものが…売られていますね」
賑わうビーチの様子を珍しそうに銀の小さなオペラグラスで覗いていた婆さんが、ユスーポフ家の女性たちとJr.に微笑み掛けた。
「ええ、本当に…」
アデール夫人とネーリ、それからJr.もそんな婆さんに笑みを返す。
「あのね、わたくしたちが…ヤルタにいたわたくしたちが親交を深めることになったきっかけというのが、レオニードJr.の揚げていた凧だったのですよ」
事情を知らない俺たちに婆さんが説明してくれた。
「僕の遊んでいた凧が…風に煽られて木に引っかかってしまったのです。その時に木から凧を取ってくれたのが、たまたまそこを通りかかったオークネフだったのです」
「そうでしたわねぇ。いつも聞き分けのいい若様が、あの頃はおもちゃ一つ満足に手に入らず、遊び相手もおらず…あの凧が唯一の遊び道具だったのですものね。珍しく凧を取ってくれとぐずって。それでわたくし意を決して木に登ろうと靴を脱いで幹に手を掛けたところに…オークネフさんが」
ーーはしたないところを見られてしまい、恥ずかしかったですわ。
クリミア幽閉時代を懐かしむように、ネーリが笑いながら往時を語る。明日の命の保証もない苦難の時期だったろうに、何故だかアデール夫人もネーリも、懐かしむような穏やかな目をしている。
「…ごめんなさい、ネーリ」
当時のわがままを申し訳なさそうに詫びたJr.に、
「いいんですよ」
とネーリがまるで母親のような慈愛のこもったまなざしをJr.に向けた。
「そう言えば、あの凧は…、ヴァーシリーがこさえたものでしたわね。うふふ、あの子手先が器用だったから」
「ヴァーシリー?」
「わたくしの末の弟よ。わたくしの家族は…家族全員父と母以下六人の弟たちもヤルタに幽閉されていたのよ」
「そして、別ルートでヤルタを脱出したお義父上以外の家族全員が後にマールバラに救出されている。処刑された皇族も多くいた中、家族全員誰一人欠けることなく生き残れたのは、実に稀なことであるな」
革命後のソヴィエトの皇族たちに対する処遇に関しては、俺にとっては実に耳の痛い話…ではある。
せめて…目の前の夫人の家族が、誰一人処刑されることなく死地を脱したのは…不幸中の幸いだったと…言うべきなのか。
「その…すまない。俺たちが…」
彼女らの殺害された親類縁者のことを思うと、申し訳なさに頭が下がる。
「アレクセイ…」
そんな俺にサバサバとした声でアデール夫人は答えた。
「もう、やめましょう。お互い…会うたびに過去を謝罪し合うのは。…わたくしたちあの頃は対岸の立場だったのですもの。仕方ないわ。少なくともわたくしは、故人を悼む気持ちしか今は持ってはおりませんわ。しがらみも…それから幾分かの恨みも…故国へ置いて来ましたから」
「アデールさん…」
「それも、そうだな。今そなたがアデールたちに頭を下げたということは、私もまた、1905年のモスクワでそなたにした事を詫びなくてはならぬが…?」
「必要ねえな」
そう答えた俺に侯爵も「であろう?」と黒い瞳でそう語り、大きく頷いて見せた。
「ならばわたくしだって…伯父が、皇帝陛下がヴァシリーサ様のお孫さんに下したことを、詫びなければなりませんわ」
「ならばぼくだって!…ぼくの家は代々アレクセイがずっと戦って来た相手の…」
そこにいた皆がそれぞれに与えた過去の傷を謝罪し合う。
何だって俺たちは…!!
ハァ…
複雑に絡み合うような因果にため息がでてくる。
そんな重苦しくなりかけた空気を一変させたのは、意外なことに侯爵の一言だった。
「よし。未だ事あるごとに我々をがんじがらめにするその因縁、今ここでキッチリ!落とし前つけてみぬか?」
ーーえ?
皆の視線が侯爵に集中する。
「いわば、因縁戦。勝負だ」
「は??」
-----------◇-----------
「勝負だ」
そう言い放った侯爵に、ユリウスとアデール夫人が口を開く。
「しょ、勝負って、一体…。貴方のことだから、それなりの案があってのことだろうけど…もっと詳しく説明して?」
「そうよ。勝負なんて物騒なこと、去年の決闘騒ぎだけでもう沢山!」
二人(…というかアデール夫人)に詰め寄られた侯爵が、小さく肩をすくめて答える。
「そう急くな。…そうだな。私の提案は、こうだ。あそこに売られている凧、あれで白黒カタつけようというのだが、如何であろう?」
侯爵が凧売りの露天を指差した。
「凧?」
「そうだ。あれならば誰も傷つけることもあるまい。…但し、やるからには真剣勝負だ。私は一切手加減せぬゆえ」
侯爵の黒い瞳が不敵に光る。
「…あの時のテニスの試合と同じだね。面白い!受けて立つよ」
侯爵の提案に我が家の負けず嫌いが一にも二にもなく食い付く。
「んで?どーすんだ?ミハイロフ家対ユスーポフ家でやんのか?」
俺の質問に侯爵は少し考えるような間の後に口を開いた。
「いや」
「えぇと。じゃあ、何をもって雌雄を決するのでしょうか?」
生真面目そうな面差しでそう問いかけたJr.に侯爵が再び答える。
「そもそも、我々の間に遺恨はとうに無くなっている上に、そもそもここに勝者などおらぬゆえ。であろう?」
「…だな」
それは侯爵の言う通りだ。
革命に敗れて国を追われる形となった侯爵と、現政権から厄介者とされて処刑寸前のところを命からがら亡命した俺。
ここに、所謂歴史の勝者はいない。
「因縁戦…と先程言ったが、訂正しよう。これはさしずめ…憂さ晴らし であるな。だから必ずしも両家で争う必要はないのだ。それに、我がユスーポフ家は男子が三人、に対してミハイロフ家はそなた一人。戦力に偏りがあろう?ここは公平にくじ引きで組み分けをする」
「くじ引き?」
「左様。リーザ、すまぬが同じくらいの大きさの流木の枝を、そうだな…4本拾って来てくれぬか?Jr.、お前は凧を二つ買ってくるのだ。よいか?公正を期すために同じものを二つだ」
そう言って侯爵が懐から財布を取り出し息子にお金を握らせた。
「わ、分かったわ。ソワ、行こう」
「分かりました」
リーザはソワと砂浜に小枝を拾いに、そして、Jr.は凧を買いに、二人の子供たちが指示通りに動き出した。
「レギュレーションを定めよう。今ここには男性が四人、女性が六人。計十名いる。これを五五に組み分けする」
侯爵の仕切りに皆が頷く。
「ただし、戦力をなるべく均衡にする為に、くじは男女別々に引く。それから…今回に限り、失礼だがお年をお召しになられているヴァシリーサ夫人と、それから身重のユリウスは特別枠だ。二人は女性のクジから外し、別に引いてもらうことにする」
「なるほどな」
「ちょっと!今のは聞き捨てならないな!要するにおみそってことでしょう?ぼくならば大丈夫だよ!」
負けず嫌いの塊であるユリウスが予想通りその言葉に噛み付く。
「ユーリーウース」
頭を抱える俺とは裏腹に侯爵がまるで小さい子供の駄々をあやすようにユリウスに言って含める。
「そなたの気持ちも気性もよーく分かっている。だが何も参加を見合わせろ と言っているわけではない。そなたも、それからヴァシリーサ殿も、立派に戦力の一員であるぞ。ただ、身体を労わる必要があり無理は禁物のそなたたちには、特別のルールを設けるという、それだけのもの。…分かるな?」
侯爵に優しく言い含められて「それならば…」とユリウスが折れる。
「分かってくれたのならば、結構。続けるぞ?」
一同が頷き先を促す。
「勝負は勝ち抜き戦ではなく総当りだ」
「時間はどうする?無制限か?」
俺の質問に奴が答える。
「一応時間に制限を設ける。そうだな…1試合につき、7分で行う。7分揚げて高く揚げていられた方を勝ちとする。尚、途中で落ちたり糸が切れた場合はその時点で試合終了。凧が落ちた方の負けとする。7分で勝敗が決しない場合は更に3分の延長。それでも決しない時は引き分けとする」
傍で律儀にロストフスキーがルールを手帳に書き留めている。
「俺たち男はいいとして…女性はどうする?おそらく凧なんて初めて揚げると思うぞ?」
「では、女性の場合は揚がるまでチーム内の助けを借りて良いこととしよう。但し特別枠の二人は制限時間いっぱい補助をつけてもいいとしよう」
「ぼくは補助なんていらないよ!凧は子供の頃に揚げたことあるし、腕にも覚えがあるもん」
「(いいから)黙ってろ!」
俺と侯爵の口から一斉に出た同じ言葉に、一同は声を立てて笑い、ユリウスはぷうとむくれる。
「わたくしはチームの殿方の助けを借りることになるでしょうねえ。お荷物かもしれませんが、よろしくお願いしますね」
鷹揚にそう言った婆さんに、男性陣皆が「勿論です」と恭しく答える。
「そして最後は大将戦だ。これは10分で延長はなし。ルールはこれで良いか?」
「異論はないね」
他の皆もコクリと頷いた。
「おじさま〜、これでいいかしら」
そのタイミングでソワを連れたリーザが小枝を抱えて戻ってきた。
「上等だ。アデール、口紅を貸せ」
怪訝そうな顔のアデール夫人から口紅を受け取ると、侯爵は拾ってきた枝の半分に口紅でマークをつけた。
「これを…こうして、まずは女性…ヴァシリーサ夫人とユリウス以外の女性からだ。各々一本ずつ枝を引くがいい」
砂浜に突き刺した4本の枝にアデール夫人とネーリ、それからレナーテさんとリーザが群がる。
「どうしましょう?」
「年の順で引いていく?」
「お若い方からですか?それとも年長者の方からですか?」
「いっそのこと名前の頭文字の早い人と遅い人がジャンケンして、勝った方から引いていくのはどうかしら?」
「いいですわね。そうすると…一番早いのがアデールでわたくし、それから…」
「一番遅いのがレナーテでわたくしですね」
ジャンケンした結果、遅い方から遡ることになったようだ。
レナーテさん、ネーリ、リーザ(エリーザベト)、そしてアデール夫人の順に枝を引き抜く。
「リーザの枝には砂がついてるから、口紅だね」
「わたくしもです」
「私たちの枝の先は綺麗ですね」
「ではわたくしたち、同じチームですわね。宜しく、レナーテさん。凧は…揚げたことありまして?」
「うんと昔…。子供の頃に」
アデール夫人とレナーテさん、そしてリーザとネーリで、女性の組み分けが出来たようだ。
女性陣が枝を回収してシャッフルし元のように先を砂浜に埋める。
「じゃあ、殿方の皆さん、どうぞ」
「おう」
俺たちも女性陣に倣って、頭文字の最初と最後(つまり頭文字Aの俺とSのロストフスキー)でジャンケンをし、結果俺、侯爵、Jr.(同名のこの親子は父姓の頭文字に従った)、ロストフスキーの順で枝を引く。
「こちらは…」
「私とJr.と」
「俺とロストフスキーさんがチームだな」
なんちゅーか、異色の組み合わせ…だな。
「ま、よろしくな。やるからには勝とうぜ」
俺がロストフスキーに握手の右手を差し出した。
「はぁ…そうですね」
なんだか少し困惑したような表情で俺の差し出した手をおずおずとロストフスキーが握り返す。
「おいおい…頼りねぇなあ。しっかりしてくれよ、相棒よぅ」
思わず檄を飛ばした俺に、
「あの時の…テニスの時と一緒だね。でも、結局負けちゃったけど、ロストフスキーさん、テニスは結構いい線行ってたよね」
とユリウスが横からロストフスキーを援護する。
「それは私も保証するぞ。子供の頃に一緒に凧揚げもしたが、奴は中々うまいぞ」
「はぁ、きょ、恐縮です」
侯爵とユリウスに褒められ恐縮し切って長身を屈めるロストフスキーの背中をバンバン叩く。
「ンだよ。ならモチッと堂々としてろよ。「俺に任せろ!」ぐらいにさぁ」
「いや…もう、これは誉め殺しです。わたくしは…テニスも凧揚げも、侯には到底叶いません」
「ねぇ、ぼくたちのくじの順番まだぁ?」
「おう、お待たせ。引いていいぞ」
最後に二本砂浜に突き立てられた枝を、ユリウスと婆さんがそれぞれ引き抜く。
「では組ごとに分かれよう。口紅の方は我々の方へ、口紅じゃない方は、アレクセイとロストフスキーの方へ」
侯爵の号令の下、チームに分かれる。
残念ながらユリウスとは敵同士になってしまったようだ。
「今度は一緒だね、レオニード」
「そうだな」
「お前と一緒だから、少しは足手まといになる気兼ねが薄れましたよ」
一方婆さんと俺は同じチームだ。
考えてみたら…お祖母様と俺が共同で何かをするって…初めてじゃないのか?
「任せてください。勝利しましょう」
チームは両家いい具合にばらけ、口紅チームがレオニード親子(侯爵とJr.)を筆頭に女性がリーザとネーリ、それからユリウスという面子。
そして口紅じゃないチームは、俺とロストフスキーさん、それからレナーテさんとアデール夫人、お祖母様という面子だ。
二手に分かれたところで改めて侯爵がレギュレーションを説明する。
「ルールはいたって簡単。制限時間7分の間により高く揚げた方が勝ち。勝ち抜き戦ではないので総当たりで計5試合行う。制限時間内に勝敗が決しなければ3分の延長。それでも決まらぬ場合は引き分けとする。女性は凧が揚がるまでを男性に代わってもらっても良い。特別枠の二人は無制限にチーム内の人間が手を貸して良しとする。但し手を貸すのは一人とする。時間の計測は前の試合を行なったものが行う。1試合目の計測は最後の人間が受け持つ。大将戦は延長なしの10分勝負。よろしいか?」
「良いわ」
「異論ございません」
「うむ。ではチームごと5分の作戦タイムの後に第1試合を始める」
「アレクセイ、ぼくは凧揚げは得意なんだ。悪いけど、この勝負絶対勝つからね!」
早くも俺に勝利宣言をし、勝つ気満々のユリウスに一抹の不安がよぎる。
かなり気分が高揚しているのだろう、碧の瞳が普段よりもわずかに緑がかって見える。
「なぁ…」
意気揚々としたユリウスの背中を見ながら侯爵にそっと声を掛ける。
「何だ?」
「すまんが…あいつがあまり興奮しすぎないよう、見ててやってくれないかな…。どうもイマイチ身重という自覚が希薄なようで…」
不本意だが、背に腹は変えられない。
侯爵に妻のお守りを頼む。
俺の頼みに侯爵がフッと小さな笑いとともに頷いた。
「そなたは不本意だろうが…あれと私の付き合いは、そなたよりもずっと長いのだ。大丈夫だ。任せておけ。そなたとユリウス、双方に悪いようにはせぬゆえ。それにリーザもいるから、心配なかろう」
「…すまんな」
そんな俺の肩を、苦笑いとともに侯爵がポンと軽く叩いた。
-----------◇----------- NEW 3/20
「勝敗の機微は、誰が誰と当たるかによるところが大きいな」
そう言って少し離れた侯爵親子チームの円陣をチラリと見やる。
「ですね…。卑怯かもしれませんが、あちらのオーダーを予測して、上手いこと女性に男性を当てて行くのが得策ではないかと」
「卑怯なもんか!ルールの中のことだ。多分あちらさんも俺たちのオーダーを予測してくるだろう。それから、俺はこの勝負のキモは…実はお祖母様だと思っている」
「ヴァシリーサ様が?」
「わたくし…ですか?」
「そう。おそらくあちらさんは侯爵かJr.を大将に当ててくるだろう」
「妥当…ですね」
「おまけにあっちにはユリウスがいる。腕に覚えがある と言っていた上に、見ての通りのジャジャ馬だ。そこそこの腕前はあるのだろう。…ですよね?レナーテさん」
「ええ。あの子ハンスたちの手ほどきを受けて昔よく路地裏で凧で遊んでたわ。結構上手に揚げてたわね」
レナーテさんもユリウスの腕前を保証する。
「そうなると…現時点での戦力はあちらの方がやや高いと見て良い。そこで、お祖母様だ」
「ユリウス様の分やや有利な戦力を、特別ルールの適用出来るヴァシリーサ夫人のアドバンテージでイーブンに近づけるのですね」
「そういうことだ。お祖母様の番は実質手助けする人間が揚げることになるから、つまり主力が二回登板出来るということだ。そうするとこちらは実質男性三人に女性が二人ということになり、戦力は俄然変わってくる。このお祖母様のアドバンテージを活かして確実に星を拾うことが出来れば…勝機は見えてくる」
「確かにユーリカの性格からして、特別ルールを適用して大人しく侯爵なりJr.なりに出番を明け渡すことは…まずあり得ないわねぇ」
「ホホ…さっきも自信とやる気をみなぎらせてましたものね」
「ベストなオーダーは俺たち男二人が確実に星を拾い、かつお祖母様の回にきっちり星を拾える組み合わせなんだが。あんたら身内だろう?何とかして侯爵親子のハラのうち読めないのかよ?」
俺の無茶振りにアデール夫人とロストフスキーが顔を見合わせる。
「恐れながら…それならば実際に敵同士だったあなたの方が侯の手の内を読むのに適しているのでは?」
「うっせー!…あんときゃ完膚なきまでにぶちのめされましたよ!!…クッソ、やな事思い出したぜ!こうなりゃ何としてもあのリベンジをしてやるぜ!!なぁ、アデール夫人。何でもいいから奴さんの弱点とかないのかよ?」
それに対してアデール夫人が即答する。
「ありませんわ」
「…そっスカ…」
こりゃご馳走様…。
自力で何とかすっか…。
あの(屈辱の)モスクワ敗戦を思い返す。
意外と…というか、案外奇襲も辞さないんだよな…。
(侯爵の罠で俺らボリシェヴィキは総崩れになったんだった)
とすれば…トリッキーなオーダーも組む可能性はあり…ということか。
うーーーーー!
なんだかアタマがこんがらがってきたぞ。
「もうすぐ、5分経ちます」
ロストフスキーの指摘に我に帰る。
ん?
ふと、あちら側のリーザとJr.が目に入る。
「ふむ…」
多分…侯爵はリーザの補助にJr.をつけるだろう。
(ナイトの役得だな)
前の試合の人間が次の試合のタイム計測をするということは…もしその読みが合っていればJr.→リーザとは続かないということだ。
それと…もし俺だったら一番初っ端に未経験者のリーザやネーリを持ってくることはしない。
未経験者なりに上手なお手本を見ているうちに目習いやイメージトレーニングが出来るからだ。
そうすると…一番手は、経験者のユリウスかJr.。
ネーリの補助も気心知れたJr.がきっと務めるだろう。
そうすると…ユリウスには侯爵が補助に着く可能性が高い。
「よし!」
ーーいいか?
声を潜めて皆に近寄るよう手招きし円陣を狭める。
「俺が考えたあちらのオーダーはこうだ」
砂浜にオーダーを書き上げる。
Jr.
ユリウス(補助に侯爵)
ネーリ
↓↑
リーザ
侯爵
「では、仮に相手方のオーダーがこうであるとして…我々はどう出ます?」
「うーん…」
頭をひねり、先ほどの相手方の予測オーダーの横に今度は自分たちのオーダーを書き足していく。
Jr. vs レナーテさん
ユリウス(補助に侯爵) vs お祖母様(補助に俺)
ネーリ vs ロストフスキー
↓↑
リーザ vs アデール夫人
侯爵 vs 俺
「子供の頃に揚げたことがあると言っていたので…。すいません、レナーテさん。トップバッター務めてもらってもいいですか?」
「ええ勿論。光栄だわ」
やはり母娘である。
俺に笑いかけたレナーテさんの碧の瞳が一瞬勝気な光を帯びた。
-----------◇----------- NEW 4/22
そして俺たちの世紀の憂さ晴らし(?!)、歴史の負け組一同による凧揚げ合戦が始まった。
「では第一試合」
―― よし!
俺の読みは的中した。
凧を手にしたJr.が前に出てくる。
対するこちらの一番手はレナーテさんだ。
「よろしくね」
「よろしくお願いします」
―― 始め!
侯爵の合図とともに俺は手にした懐中時計に目を落す。
「いけますか?」
「ええ、ありがとう」
Jr.とそれからロストフスキーの補助を受けたレナーテさんの凧が空に吸い込まれるようにぐんぐんと上昇していく。
さすがに子供の頃凧で遊んだことがある と言っていただけあり、ロストフスキーから凧を受け取ったレナーテさんは巧みに糸を繰り凧の高度を保っている。
が、やはりJr.の方が相当やりこんでいたのだろう、腕前は上だったようだ。
Jr.の凧はさらに天高く空へと昇ってゆく。
「終わりだ」
俺は時計から顔を上げ時間終了を告げる。
「やめ」
合図を受け凧がゆるゆると二人の手の中へと戻って来た。
「第一試合は…」
「そちらの勝ちだな」
初戦を制したのはJr.だった。
「ありがとうございました」
揚げ手同士が握手を交わし、次の揚げ手に凧を受け渡す。
「上手なのだろうとは予測していたけれど…やっぱ悔しいわね」
白星を飾ったJr.を横目に、レナーテさんがため息をつく。
「なんのなんの。あれだけ揚げれば大健闘ですよ。相手がJr.でなければ勝利していたと思いますよ」
「そう?ありがと。…あちらはやはりユーリカと侯爵のようね。…お次は頼んだわ」
「任せてください。参りましょう、お祖母様」
「はいはい。では頼みますよ」
婆さんと俺、それからユリウスと侯爵が凧を手に前に出る。
「ママ~、頑張って~」
リーザが母親に声援を送った。
「では、次の試合は…双方特別ルールの適用となるな」
「だからぼくは必要ないってば…」
「分かった分かった。…では手は出さぬゆえ、お手並み拝見といたそう」
負けず嫌いの相棒の言葉を、大人の余裕で侯爵がかわす。
「始め!」
Jr.の号令で二戦目がスタートした。
先程よりも風が凪いできて、凧を揚げるにはやや難度の高いコンディションだ。
俺もユリウスも助走をつけて巧みに風を読みながら糸を少しずつ伸ばしてゆく。
「揚がりました。お祖母様…」
―― ではこの糸巻きをしっかり持って、風に合せて糸を手繰ってみてください。
ユリウスよりもひと足先に凧が風に乗って空を泳ぐ。
俺はお祖母様に糸巻きを手渡し、二人で糸を手繰ってゆく。
凧を繰りながら横目でチラチラとユリウスの動きも確認する。
―― あ~~!そんなに走るな…。あ!
少ない風の分を助走でカバーしようと砂浜を駆けるユリウスに俺は気が気でない。
俺とお祖母様の凧に一足遅れて漸くユリウスの凧も宙空で安定し、俺もホッと胸を撫でおろす。
「…っとと!」
風がほとんどないので凧が暴れることもないが、それはそれでコントロールが中々難しい。ともすれば糸が撓むのをご機嫌を取りながら高度を保つ。
「昔、お前も庭でよく凧を揚げていましたねぇ。サロンの窓から空を泳ぐ凧を眺めていましたが…揚げてみるのと眺めているのとでは大違い!…夢中になるのも分かりますよ」
俺の腕の中で身体を支えられるようにしている婆さんが空を見上げたまま往時を振り返った。
「…見てたんですか?」
「ええ。お前、全然気づかなかったのかぇ?」
「…はい」
俺の腕の中で婆さんがクスリと小さく笑う。
「まぁ…そうでしょうねぇ。まさかわたくしも…あの時サロンの窓から眺めていたものを、まさかこの齢になってこうして自身が揚げることになるとは!思いもよらなかったですものね。ホホ…」
「あー、それは俺も…同感です。まさかあのお祖母様の…凧揚げをこうして手伝う日が来るとは…よもや予想だに…ダハハ」
お互い思わず苦笑いが漏れる。
「でも…中々爽快で楽しいものですね」
「でしょう?…あの時の自分に教えてやりたいですよ。「お前はこれから20数年後に、お祖母様と一緒に凧揚げをするぞ」ってね。尤もぜってーーーー!100パー信じないでしょうがね」
「ですね。…あの頃のお前とわたくしの関係ときたら…」
「ですよね…」
「あぁ、可笑しい!」
二人して糸を手繰りながら、いつの間にか苦笑いは朗らかな笑い声になっていた。
「二人して何大笑いしてるの~~?」
傍らで凧の高度を保つのに悪戦苦闘しているユリウスが大笑いしている俺たちの方へ顔を向け訊ねて来た。
一瞬ユリウスの注意が逸れる。
「ユリウス!」
「あ!コラ!!注意を逸らす…!?」
その時ちょっとしたアクシデントが起きた。
ユリウスが一歩下がったその場所に、砂に埋もれかけていた流木が僅かに頭を出していた。
後じさったユリウスの踵が流木に躓く。
「あっ!!」
流木に躓き身体のバランスを崩したユリウスに、俺はじめ皆が声を上げる。
よろけて倒れるユリウスに、思わず糸巻きから手を離し走り寄る。
―― ドサ!
ユリウスの身体が―、一瞬早く駆け寄った侯爵の懐の中に倒れ込んだ。
「大丈夫か?」
侯爵と駆け寄った俺から同時に声を掛けられたユリウスが、一瞬あって侯爵の懐の中で「…大丈夫…」と返答する。
「大事ないか?」
そう言ってユリウスの身体を抱き起した侯爵に、「うん。ありがと、レオニード。…それからアレクセイ」と言いながら立ち上がったユリウスが、ハっと我に返った。
「あ!凧!!」
ユリウスの手から離れて砂浜にポツンと落ちた糸巻きの先の凧は…
折からのベタ凪もあり、揚げ手の手を離れた糸はゆっくりと撓み、凧は高度を下げてゆく。
「あ~~~~」
なす術もなくそれを見つめているユリウスの目の前で凧はゆっくりと砂浜に落下した。
「あーあ」
何とも言えない残念そうなユリウスの声の後に、遠慮がちな「アレクセイ…」と俺を呼ぶ声がして、今度は俺が我に返る。
「アレクセイ、…これはどうすればよいのかぇ?」
声の主は凧の糸を懸命に手繰っていたお祖母様だった。
俺が糸巻きから手を離した間、必死に凧を落さないよう糸を繰っていたらしい。
「わーーーー!すみません、お祖母様」
急ぎ戻り糸巻きを受け取る。
お祖母様の安堵した様子が伝わってきた。
「時間です」
そこで第2戦が終了した。
「第2戦は…」
「お祖母様の勝ちだね。…悔しいなぁ」
ユリウスにそう言われて、思わず「え?でも、不測のアクシデントがあったから…これはノーカウントだろう?」と言った俺に、
「馬鹿を申すな。勝負は勝負だ」
「そうだよ。流木に躓いたのも勝負の内だよ。この試合はぼくの負け!」
と二人がにべもなくその言葉をはねつける。
「それに、そなた一人の意向で、ヴァシリーサ殿の奮闘を無にするのは、如何なものか?」
―― あ!
確かに侯爵の言う通りだ。
これは俺の試合ではなく、あくまでプレイヤーはお祖母様だ。
「ね?この試合はぼくの負け!…でしょ?」
ユリウスに再度念を押され、俺も納得する。
「そか…。お祖母様、大金星ですよ」
「ホホ…そうですか?…何はともあれ、お前の…皆の役に立てて良かったです。ユリウスや、大事はないかぇ?」
「はい。見ての通り。…次は負けません」
「まぁま、負けず嫌いですこと」
最後はその場の四人で和気あいあいと健闘をたたえ合い握手を交わし、天王山の第2戦は(アクシデントもあったものの)、何とお祖母様の勝利で幕を下ろしたのだった。
3戦目はリーザとロストフスキーだった。
やはり予測通りJr.がリーザの傍についている。
「いい?ぼくが凧を持っているから、意図を引きながら思い切り走って。風に乗ったら糸を出したり巻いたりしながら高度を保って!」
「うん!分かった」
「大丈夫?揚がるまで僕がやるけど」
「だーいじょうぶだって!レオニードとママの2試合を見ていたし。多分いけると思う!任せて」
「始め」
開始の号令のもと二人の凧がゆっくりと空へ上がって行った。
「リーザ、しっかり!!」
「お嬢さん、その調子ですよ」
初めての凧揚げに奮闘しているリーザに自陣から声援が上がる。
一方―。
「おい!ロストフスキー!!何リーザの方チラチラ見てんだ!集中しろよ!」
「ロストフスキーさん、手加減は不要だよ」
「そうだ!本気でかかってこい。ロストフスキー」
(当たり前だが年下でしかも女の子の)リーザを気遣いながら凧を操作しているロストフスキーに自陣敵陣双方から容赦のないブーイングが飛ぶ。
「そんな…だって…」
凧を揚げながらオロオロとロストフスキーが両陣営を交互に見る。
「集中なさい!ロストフスキー!!」
アデール夫人の叱咤に「はいぃ!!」とロストフスキーが弾かれたように返事し、凧に向き合う。
双方からやいのやいのと突き上げを食らい、ロストフスキーもとうとう肚を括った(というか居直った)ようだ。
「リーザ様、では御免!」
と一言断わると、風に凧を巧みに乗せ、ぐんぐんと凧は空に吸い込まれるように高度を上げて天高く昇って行った。
「わぁ…!」
今度は双方の陣から称賛のため息がもれる。
「やめ!」
結局結果はロストフスキーの圧勝で3戦目は終わった。
「大人げなくてすみません…」
握手を交わし申し訳なさそうにそう言ったロストフスキーに、
「遊びは本気出さなきゃ面白くないよ。ありがとう、ロストフスキーさん。隣で見ててもすごかったよ」
とリーザが中々大人な態度を示す。
「リーザの言う通りだ。ロストフスキー、見事なものだったな」
「いやもう…」
はぁ…。
勝ちは収めたものの、何だか心なしかドッと消耗した表情でロストフスキーが次のアデール夫人に凧を手渡した。
4戦目はアデール夫人とネーリの主従対決となった。
これも予測通りネーリにはJr.が、そしてアデール夫人にはロストフスキーがつく。
「ネーリ、僕が揚げる?」
「いいえ。若様とヤルタで…昔取った杵柄ですもの。出来ますわ。恐れ入ります、凧だけ保持していて頂けますか?」
「うん。分かったよ」
ネーリはヤルタ幽閉時代にJr.が遊びに出るのに伴についていた時に凧揚げも経験していたのだろう。
Jr.に凧を保持してもらい巧みに凧を揚げていった。
一方ロストフスキーから揚がった凧を受け取ったアデール夫人は中々苦戦しているようだ。
上手く風が読めず、ともするとすぐに糸が撓み、凧はゆっくりと高度を下げてゆく。
「あー!もっと糸を張って」
傍らのロストフスキーのアドバイスに「うるさいわね!今そうするところだったのよ!」と眦を吃と上げて言い返す。
「奥様、今いい風が来てますので、もっと糸を伸ばして!」
一方で隣で凧を揚げているネーリは自分の凧もそこそこに何と敵に塩ならぬ助言を送っている始末だ!
「そ、そう?…こうかしら?」
ネーリの助言にアデールも素直に従い糸を伸ばす。
「ちょっと!!」
「おい、ネーリ!何敵に助言をしておるのだ!?」
そんなネーリに自陣からはツッコミが炸裂し、
「いいぞ!ネーリ」
「ホホ…やっぱり主人大事なのですねぇ」
敵陣からはやんやの喝采が飛ぶ。
まぁ、結果はネーリの勝利で4戦目は終わった。
「誠に惜しゅうございました」
自分で負かしておいて本気で残念そうにネーリが敗者のアデール夫人に無念の意を吐露する。
「自分で負かしておいて何を言っているのだか。ホホ…でも次は負けなくてよ」
「はい…」
そんな二人のやりとりを見ていたリーザがポツリとJr.に呟いた。
「なんか…主従関係っていうのも色々複雑なものなんだねぇ」
到底理解しがたいネーリの忠誠心に、若い二人が目配せし合い苦笑いを交わしていた。
4戦を終えて双方二勝二敗の五分のまま、勝利の行方は最終、大将戦へと持ち込まれた。
NEW 5/5
そして、いよいよラスト、大将戦。
凧を手に双方のチームの大将、つまり俺とユスーポフ侯爵が前に出る。
「レオニード、頑張って!」
「おじ様、しっかり!」
あちらの陣から声援が上がる。
「アレクセイ、しっかりおやりなさい」
一方俺の背中にも頼もしい声援がかけられる。
「それでは、最後の試合を始めます」
俺の懐中時計に目を落したレナーテさんとJr.の仕切りで俺たちが向き合う。
「勝負だ。…レオニード・ユスーポフ」
「その勝負受けて立つ。…アレクセイ・ミハイロフ」
軽く握手を交わしたのち、「でははじめ!」の号令と共に俺たちの凧が空へと吸い込まれてゆく。
風はさっきとは打って変わって、少し強く荒れ模様となってきている。
絶えず風向きを変える風を読みながら俺と、そしてユスーポフ侯爵も凧に集中する。
いささか荒れ模様の風を受け、凧は空高くぐんぐんと高度を上げていく。
「わぁ…!」
「すごい!」
ぐんぐんと空へ吸い込まれていくように上がってゆく二つの凧に、ギャラリーから感嘆の声が上がる。
いつの間に、海岸を歩いていた観光客も俺らの周りに集まって来て、空高く上がった凧を見上げていた。
「…やるな」
「そなたこそ」
凧を揚げつつチラリチラリと相手に目をやる。
俺に声を掛けられた侯爵が不敵な笑いと共に返事をよこした。
「頑張れー」
「頑張れー」
皆の声援を受け双方一歩も譲らず膠着状態で時間はどんどん流れてゆく。
「あと一分です」
時計から顔を上げたJr.が俺と侯爵に残り時間を告げる。
「む…」
「むむ…」
もはや天高く昇り小さな点のような凧を糸から伝わる感覚のみに頼って辛うじて操作している状態に、思わずうなり声が漏れる。
侯爵も同じなのだろう。小さく唸り声を漏らした。
「残り30秒」
その合図に、自陣とそれから敵陣から悲鳴のような声援が上がった。
「レオニード!!」
「アレクセイ!!!」
…奴の名前を呼ぶ、俺の陣のアデール夫人の声と。
…それから俺の名を叫んだ、敵陣のユリウスの声。
「おい!!」
敵方に別れたそれぞれの夫に声援を贈った妻たちに、思わず俺たちが振り返ったのは、同時だったと思う。
その瞬間―
折から荒れ気味だった風が小さなつむじ風となり―、そして俺と侯爵の凧を瞬く間に飲み込んで…
二つの凧は絡まり合い、糸から自由になって沖の海中へと落下していった。
「あ!!!」
「あ~~~~!!」
俺たちの勝負の行方を見守っていた全ての人の口から声が上がる。
「終わりです!」
そのタイミングで、Jr.から終了が告げられた。
----------◇----------
「これは…」
「どっちの勝ちになるのだろう?」
自陣敵陣皆が俺たちの傍らに走り寄って来た。
「先に糸が切れたのは?」
「突風で分からなかったよ」
「じゃあ、糸巻きに残っている糸の長さで決めたらどうでしょう?」
「そか…お前、中々頭いいな」
Jr.の提案に、俺と侯爵が手にしていた糸巻きを同時に皆の前に示した。
だが―
…俺の糸巻きも、そして侯爵の糸巻きにも、もう糸は全く残っていなかった。
俺と侯爵は思わず顔を見合わせて、そして同時に破顔した。
「これは…」
「これこそ…、引き分けだな」
二人で破顔しながら固く握手を交わす。
「楽しかったぞ。…アレクセイ・ミハイロフ」
「俺もだ…。レオニード・ユスーポフ」
肩を抱き合って、笑いながらお互いの健闘をたたえ合っている俺たちを、そこにいた全ての人間の拍手が包み込んでいた。
「じゃあ、この勝負は…」
「ああ。二勝二敗一分けの」
「引き分けだな」
結局俺たちの凧合戦は勝負つかず、という結果に終わった。
でも俺たちは満足だった。
「この続きはまた来年ということで」
「おやまぁ!来年もやるのですか?…ではわたくしはますます健康に気を使って来年に備えなければなりませんね」
「来年は、…メンバーがもう一人増えるよ」
ユリウスがそう言って自分のお腹をそっと撫でた。
「じゃあお前は来年も特別枠だな」
「ええ~~~~?またぁ?」
ユリウスが不満そうな声を上げる。
「ん?何も必ずしもユリウスが子供とペアを組まずともよいのではないか?…今度は父親のそなたが生まれた子供とペアを組んだらどうか?」
侯爵の提案に皆が乗る。
「それ、いいね。…そうだよね。生まれてしまったら何もママが赤ちゃんとペアを組まなきゃならないこともないもんね」
「そうしたら、今度はわたくしとアレクセイが…おみそ枠ということですねぇ」
「ええ~?…いいですよ。特別枠は。…でも、いいっすよ。じゃあ来年は…俺と子供が二人で一人ってことで」
…それも何だか、楽しそうだな。
「うふふ。アレクセイ、じゃあ来年は…この子よろしくね」
ユリウスがそっと俺の手を取って自分の腹に持って行った。
「おう。任せろ」
「子連れであっても私は一切手加減せぬゆえ…」
侯爵の黒い瞳が不敵に光る。
「当然です。俺だって…さらさら負ける気はありませんよ」
その不敵な黒い瞳の挑戦を、真っ向から受けて立った。
----------◇----------
「あ、アレクセイ。これ、お返しします」
Jr.から時間計測に使っていた懐中時計を受け取る。
「…この時計の蓋の女性って…、もしかしてアレクセイの…」
「ん?ああ、…俺のおふくろだよ」
父から母へ贈られ、…そのまま母の形見となってしまった懐中時計の蓋の内側で微笑んでいるセピア色の母の笑顔に目を落す。
すっかりくすんで色あせたポートレート。
懐中時計の中で永遠に老いることもなく微笑み続けるマーマ。
ふっくらとした頬。柔らかな笑顔。
こうして…改めて見ると―、今更ながらに若かったことに気づかされる。
セピア色したポートレートのマーマの面差しは、やっと少女期を脱したばかりの、そんなあどけなさすらまだ残している。
「懐かしい…。マリア…、そうですよね。…こんな若かったのですよね…」
懐中時計を覗き込んだおばあさまがしみじみと傍らから語りかける。
マーマは…田舎、トボリスクから出て来てミハイロフ屋敷の使用人の職を得ていたらしい。
ミハイロフ屋敷ではよくしてもらっていたと時折幼い俺に在りし日の思い出を語っていたマーマ。…もしかしたら、おばあさまにとっても少なからず思い入れのある侍女だったのかもしれない。
と同時に思い至る。
ミハイロフ屋敷に引き取られて間もない頃―。
お祖母様からこの懐中時計を取り戻してくれたオークネフ。
もしかしてあれは…、お祖母様がオークネフに…!!
「あの…。つかぬことをお聞きしますが。お祖母様、もしかしてこの時計を…あの時オークネフから…」
言葉に詰まりながらあの時の思い出を手繰り寄せる俺に
「さあ…何のことだか…。もう昔のことは…覚えていませんよ」
とお祖母様が返す。
相変わらず…素直じゃねぇな。。。
しゃーない。俺の方から、歩み寄ってやるか。
「ありがとう…お祖母様…」
「だから…何のことだかわからないと…!?」
そのままお祖母様の小さくなった身体を抱きしめた。
…あの頃は、俺の抱擁を振り払い拒絶したお祖母様だったが、今度は俺を振り払ったりはしなかった。
「全く…。皆が見てますよ。…一人前の紳士がそんなに、甘えたりするものではありません!」
―― しょうがない子だねぇ。全く…。
そう言いながらも、俺の抱擁を受け入れ、俺の背を、いつまでもいつまでも撫で続けてくれた。