第九十六話 Ⅳ
泣きながらユリウスが出て行ったサロンが気まずい沈黙に包まれる。
「アレクセイ、気持ちは分かりますが…お前ちょっと言い過ぎですよ。あのように…頭ごなしに言うものではありません」
「ごめんなさいね、アレクセイ。あなたの気持ちはよく分かるけれど…ユーリカ、あの子強情っぱりだから…。一度言い出したら聞かなくて…」
「そうそう。ママはなんでも自分のことは結局自分で決めるの。それはアレクセイがどうこう言っても多分曲げないと思う…」
「う…。ううぅ〜〜」
最早、唸るしかない俺に
「兎にも角にも、バカ はありませんよ。アレクセイ。…それにお前、せっかくのユリウスの吉報に…赤ん坊を宿した妻に、まだありがとうも、愛してるの一言も、言っていないではないですか!」
ーーちゃんと。ユリウスと向き合って、さっきの暴言を詫びて、言うべきことをちゃんと彼女におっしゃい!
「…ハイ」
…返す言葉もない。
確かに…婆さんの言う通りだ。素晴らしい喜びをもたらしてくれた妻に…俺は本来かけるべき言葉をまだ…何一つかけていなかった。
「部屋へお戻りなさい。さ、わたくしたちももう休みましょう。今日は長旅で疲れたでしょう」
婆さんの言葉に
「ええ。そうですね。ではお言葉に甘えて」
「お祖母様、アレクセイ、おばあちゃま、おやすみなさい」
リーザとレナーテさんも立ち上がり、悄然と立ち尽くしている俺の頰にキスをしてくれると、サロンを後にして行った。
〜〜〜〜
寝室へ戻ると、そこにユリウスはいなかった。
「クソ!クソったれ…!!」
腹立ち紛れに、枕を拳で二、三発殴り、むしゃくしゃした気分を鎮めるためにバルコニーへ出るとタバコに火をつけた。
夜空に紫煙が立ち上る。
「ハァア〜〜」
ーー俺の…アホタレ!!
こうしてクールダウンすると、さっき自分のとった態度や言動に、腹立たしさがこみ上げてくる。
何で…もっと優しく思いやりのある言葉が出なかったのだろう?何で、あいつを泣かせちまったんだろう…何で!最初に喜んであげられなかったんだろう!!
「…」
押し寄せてくる悔恨に、最早頭を抱えるしかない。
しばらく苦い悔恨に頭を抱えてのたうち回った後に、決意を固めた。
「謝ろう」
頭を上げ、短くなったタバコをもみ消す。
「タバコも…しばらくはお預けだな…」
謝って、あいつの意見もきちんと聞いて、その上で納得のいかないことは…専門家、カタリーナさんやフリデリーケにも教えを仰いで、その上で二人で一番いい方法を模索していこう。
あいつと、俺の子供のことなんだ。
二人で考えて意見を出し合って、模索して決めていけばいい。
「あいつ…どうせレナーテさんのとこだろうな」
ガウンも着ずに部屋を出て行ったらしい。
ベッドの上に畳まれたまま置かれているあいつのガウンを手に、俺はあいつを迎えに、部屋を後にした。
〜〜〜〜
「ユーリカ!あなた…」
「お願い、母さん。今夜はここで寝させて!…あの部屋へは戻りたくない。…今アレクセイのそばにはいたくない!」
レナーテが部屋へ戻ると、一足先にサロンを飛び出して行った娘が所在なげに佇んでいた。
「…身体が冷えているわ。…上に何か羽織るぐらいしてきなさい」
取り敢えず自分のガウンを羽織らせ、火の近くに座らせる。
「落ち着いた?」
母親の優しい声にユリウスはコクリと頷く。
「赤ちゃん…授かったのね。おめでとう」
両手をキュッと握りしめ、祝福の言葉をかける。
コクリと頷いたユリウスの、暖炉の火に照らされた頰にポロリと涙が落ちる。
「泣かないの…。感情的になるのは…お腹の子に良くないわ」
感情の昂りを鎮めるようにレナーテがユリウスの頭を抱き寄せ、背中を撫でる。
そしてユリウスの嗚咽が収まるまで、ずっとレナーテは娘の背中を優しくさすり続けていた。
「母さん…何で、こうなっちゃったのかな…。ぼく、大丈夫なのに…何で、何でアレクセイはあんなに頭ごなしにダメって言うんだろう?何で…何でかな?」
並んでベッドに入り、ポツリポツリとそう訴えた娘に答える。
「それは…あなたが、あなたと、お腹の子供が大事だからよ。男の人はね、お腹に実際に子を宿している女とは違うから…そうやって心配して気遣って…祈るしか出来ないのよ。分かってあげて。彼が声を荒げてあなたを止めようとしたのは…それだけあなたのことが大切だからなのよ」
「…分からない」
「…でも分かってあげて」
「母さんも…ぼくを身ごもりながら、出産ギリギリまで働いていた。…ぼくだってリーザの時は、そうだった」
「自分の身体を過信してはいけないわ、ユーリカ。あの時は…リーザの時はあなたもまだ充分若かった。それに…私の時は…そうせざるを得なかった。頼る人も誰もいない私は…生きるために、お腹のあなたを生かすために、そうするしか方法がなかったの。今のあなたとは全然状況も違うのよ」
娘の髪を優しく撫で梳きながらそう言って聞かせたレナーテの肩に、ユリウスが頭を預ける。「母さん…」そう呟いた声が涙で微かに掠れている。
「泣き虫ユーリカ。今日だけで、涙の堤防が壊れっぱなしね」
歌うようにそう言って頭を頬を優しく撫でる母親の手の優しさに、色々な感情が胸にこみ上げてくる。
命がけで自分をこの世に産み育ててくれた母親への感謝の気持ち、夫の愛情…。
ーー明日、ちゃんとアレクセイに謝ろう。…その上で、これからのことを二人で話し合おう。赤ちゃんも…二人で立つ初舞台の夢も諦めたくない。ちゃんとアレクセイと二人で決めよう。
ユリウスがそう決心したその時ーー
ーーコンコン…
ノックの音の後にアレクセイの声がした。
「夜分遅くにすみません。レナーテさん。あの…」
その声にレナーテが答える。
「いるわよ」
ーーホラ、旦那様が迎えに来てくれた。良かったわね。戻りなさい!
ドアの外に答えるとレナーテは娘の手を取ってベッドから立たせて、ドアを開けた。
「あの…」
少し気まずそうな顔で立っているアレクセイに、娘の背中をトンと軽く押し出す。
「ハイ!帰んなさい。…ごめんなさいね。でも、ありがとう。迎えに来てくれて。こんな娘ですが…これからもよろしくお願いしますね」
「母さん…」
「おやすみ、ユーリカ、アレクセイ。また明日」
そう言うと、レナーテは二人の前でドアをバタンと閉めた。
「ユリウス…」
「アレクセイ…」
「これ…着ろよ」
夜着一枚のユリウスに、アレクセイが手にしていたガウンを羽織らせる。
「いくぞ…」
そのままユリウスの手を取り、部屋へと向かう。
ぶっきらぼうな物言いだが、繋がれた夫の手は―、大きくそして温かった。繋がれた手から安らぎが流れ込み、そして全身を満たす。
「アレクセイ…」
前を行く背中に声をかける。
「ん?」
「あの…ごめんなさい。それから…ありがとう…。迎えに来てくれて。それから…ぼくのことを気遣って心配してくれて。…アレクセイ?」
不意に立ち止まった夫が自分を強く抱きしめる。抱きしめられた耳元でアレクセイが囁いた。
「俺こそ…悪かった。すまん!…子供、すっごく嬉しかったんだ。ありがとう、ユリウス。愛してる。…これからのこと、二人でちゃんと話し合おう」
抱きしめられ耳元でそう囁かれたユリウスが、「うん…うん」と何度も頷きながらアレクセイの背中に両手をそっと回した。