第九十六話 Ⅰ
クリスマスをアーレンスマイヤ屋敷に招かれて過ごし、新年も押し迫った12月の末、俺たち家族ー、俺とユリウス、それからリーザとレナーテさんの四人は南仏グラースへ向かう列車の中にいた。
「グラース初めて!どんなところかな〜。楽しみ〜〜!ねえ、アレクセイ、グラースには海はある?」
車窓に釘付けになりながらリーザが碧の瞳を輝かせ俺に聞いてくる。
「乗り換えのカンヌは海辺の町だな。時間に余裕があれば海の方へ足を伸ばすのもいいかもな」
「私もあちらへ行くのは初めてなのよ。グラースにはサンデュ製薬のショールームもあるというし、もしお会いできたらあちらの協同経営者でいらっしゃるマダムユスーポヴァにご挨拶出来れば良いのだけど」
そう言えばレナーテさんはサンデュ製薬のパッケージデザイン全般を手掛けていたのだっけ。
「去年は思いがけず英国から帰国して来たアデールさん一行…、アデールさんとレオニード、それからJr.とロストフスキーさんにも会えたのだけど…今年はどうかなあ」
「まぁ!侯爵にロストフスキーさんも?懐かしいわねえ。お会いしたいわ」
「ねえねえ、ママ。そのJr.…?って子が、リーザの許嫁の君なんでしょう?」
「もう…リーザったら。多感な年頃の男の子なんだから、もしもあちらで会っても…あまりからかったりしちゃダメだよ!」
「なんだ?そりゃ。許嫁って…」
「この子ったらね、昔…昔のことよ。まだリーザがお腹の中にいた頃にとんでもない約束を侯爵と交わしたらしいのよ」
「ママのお腹の中の子供…つまり私ね、とレオニードおじ様と夫人の間に将来生まれるであろう子供同士を娶せよう…って!すごいでしょう?とんでもないこと言い出すでしょう?ママって」
面白くて仕方がない というように同じ顔立ちの4つの碧の瞳を輝かせながらレナーテさんとリーザがその経緯を説明する。
ユリウスはというと…。
少し決まり悪そうなバツの悪そうな神妙な表情を浮かべている。
「ハハ…。でもすごいな。首尾良く男児と女児が生まれて…しかも年の頃もそんなに不釣り合いと言うほどではない。お前のヒキの強さは…釣りだけじゃないんだな」
感心したような俺の口ぶりにユリウスは決まりの悪そうな表情のまま、答える。
「…んもう。茶化さないでよ。あの件に関しては…ぼくもいくら初めての出産を控えて舞い上がっていたとは言え…軽率なことを言ったなあと後々反省することになったのだから…」
「なんだよ。別に何てことない他愛のない話じゃないか。そんな反省するほどの話じゃあないと思うがな?奴さんもカタブツだがそんな冗談も通用しない御仁には思えなかったし…」
昨年のユスーポフ侯との邂逅を思い出す。
厳格が服着ているような人間ではあるが、ユーモアを解さないような野暮天でも了見の狭い人間でもないような気はしたが…。
「違うの。問題はレオニードじゃなくて…その…」
「ユーリカのその他愛のない提案が、後年もう当人たちも忘れた頃にひょんなことから…奥様の耳に入るところとなってしまったのよね?」
ーーそれも、やや事実を曲げられた形で。
…分かるでしょう?というようにレナーテさんが含みを持たせた意味深な視線を向けてくる。
「ホントに…誰かさんのおしゃべりのせいで、とんでもない誤解を招いてしまって…。そのせいでせっかく復縁したレオニードとアデール夫人は、結局別居婚という形を選ぶことになってしまって…」
そう言ってユリウスは傍の娘を軽く睨みつけた。
ユリウスに睨まれたリーザは舌をぺろりと出して肩をすくめてみせる。
「だってぇ…まさかフロイライ…アンナが奥様に喋ってしまうなんてこと…想定外だったのだもの」
「ホホ…。でもリーザのお喋りがなかったら、今頃サンデュ製薬の新事業も生まれなかったのよね」
別居婚という道を選びグラースの花農園と香料工場を買い取り彼の地へ移住したアデール夫人とユリウスとの間をユスーポフ侯爵が取り持ち、サンデュ製薬の新事業が誕生したんだっけ。
そうだな…。
それがなければ、俺もフィガロの記事を目にすることもなく、そうしたら今も尚ユリウスとは再会することもなく全く違う人生を生きていたんだな。
「うん!リーザのお喋りは、正しかった。やっぱお前は俺たちの天使なんだな」
そう言って俺は大きく頷きながらリーザの頭をクシャクシャと撫でた。
「だってそうだろう?俺がレーゲンスブルクへ来るきっかけになったのは…何だったかな?」
ユリウスもピンと来たようだ。
「あ!」
「ほら〜。リーザのお喋りはママとアレクセイの運命を繋ぐ大事なファクターだったんじゃん!」
リーザが鼻をツンと聳やかす。
「まぁ…そう言われればそう言えなくもないけど〜」
「もうこのぐらいにしときましょう。結果オーライということでいいじゃない。間もなく夕食の時間だわ。食堂車へ移動しましょう」
コンパートメントの壁掛け時計を見ると、いつのまにかそんな時間になっていた。
「そうだね。行こう。クリスマスの特別ディナーが振舞われるらしいよ」
「楽しみ〜!…でも鯉料理だったらリーザ嫌だな…」
「ありゃドイツの北部の料理だからそれはないだろう。ま、出てきたら…あっち着くまでパンで腹膨らましとくんだな」
「そうなったらママのパンも進呈するよ」
「じゃあ、おばあちゃまのも」
「えー!」
「ホホ…鯉はリーザの天敵だからねえ」
「あんなもの食べるなんて…クリスマスなのに呪われそうだよ」
「アハハ…。リーザはおかしなこというなぁ」
「笑いごとじゃないよ!ねぇ、鯉が出てこないように、みんな祈ってよ!」
「わかったわかった。他ならぬ俺たちの大事なキューピッド様の頼みだからな。俺の信条を曲げて今日は特別に祈ってやるよ」
アハハ…。
初めての家族旅行は初っ端から笑いが絶えない。
今年のグラース行きも、忘れられない旅になりそうだ。
〜〜おまけ〜〜
「こちらはサービスのシャンパンとなっております。お嬢様にはシャンパンの代わりにアイスクリームをお持ちいたしましょう」
給仕がシャンパンを注ぐ。
フルート型の細長いシャンパングラスに細かな泡が立ち上る。
「あの、シャンパンの代わりにわたくしもアイスクリームにして頂いてもよろしいかしら」
ユリウスがシャンパンを断り代わりにリーザと同じアイスクリームを所望した。
「はい。もちろんでございます。マダム。では後ほどお嬢様とお二人分アイスクリームをお持ちいたします」
給仕がユリウスに恭しく答えた。
「…ガキかよ」
「ガキで結構です〜。リーザ、楽しみだねぇ。アイスクリーム」
「そうだね。ママ」
「あなたは昔から甘いものに目がなかったものね。じゃあ大人チームは泡が消えないうちに頂きましょう」
レナーテさんがシャンパングラスを持ち上げた。
「そうですね。これから始まる家族の旅に…乾杯」
俺とレナーテさんのグラスがキンと小さな澄んだ音を立てた。
心づくしのクリスマスディナーの後(祈りが通じたのかメインは鯉でなくビーフだった)、デザートが供される。
そしてリーザとユリウスはデザートの皿の他に銀の器に盛られて供されたアイスクリームに碧の瞳を輝かせている。
黄味がかったクリーム色のバニラアイスにかけられた真っ赤なベリーソースと添えられたミントの葉と小さな星型のジンジャークッキーが中々見た目にもそそるものがある。
「ん〜〜〜〜」
一口口にしたリーザとユリウスが同じ表情で、同じ声のトーンで悶える。
「美味しい!ちょっと暖房きついなと思ってたからこの冷たさが心地いい!」
リーザが言うと
「うんうん。食事がコッテリ重かったから尚更アイスの冷たさとベリーソースの酸味が口とお腹をさっぱりさせてくれるね。メインにボリュームがあったからもうデザートはいいかなと思ったけど…このアイスがクッションになってデザートもいけそうだよ」
とユリウスが答える。
アイスに舌鼓を打っているユリウスとリーザの微笑ましい様子を見つめていた俺の目の前に不意に銀のスプーンが差し出される。
「ハイ!ご相伴」
ユリウスがアイスクリームをひと匙掬いニッコリと俺の目の前に差し出していた。
されるがままに差し出されたスプーンに食いつく。
甘くて冷たい物体が口の中でほどけ、喉を落ちてゆく。
「ん!うまい」
「おばあちゃまにも。ハイ、あーん」
傍らでは同じようにレナーテさんがリーザの差し出した一口をご相伴に預かっていた。
「冷たくて美味しいわ。リーザ、ご馳走様」
「どういたしまして」
甘いものは正直少し苦手だ。
アイスクリームだって、ガキの頃は兎も角、今では正直さほど美味いと思ったりしない。
だけどこの銀のスプーンで差し出された甘くて冷たいひと匙は…、本当に心から美味いと思ったんだ。