第九十五話 Ⅲ
プログラム
1.フランク作曲 交響曲ニ短調 FWV 48
~~15分休憩~~
2.モーツァルト作曲 オーボエ協奏曲ハ長調 K.314
(オーボエ独奏 ヴォルフガング・フォン・キッペンベルク)
3.フンパーディンク作曲 歌劇『ヘンゼルとグレーテル』より序曲
一曲目のシンフォニーが終わった後の15分休憩に入り、客席に本日ハープの賛助出演で舞台に立っていたリーザが客席の家族の元へやって来た。
「ママ、アレクセイ、おばあちゃま!…どうだった?」
「リーザ、まずはホッとひと段落だね。良かったよ、フランク」
「途中カットがあるとは言え、あんな大曲、よく頑張ったな。指揮の専科の学生も奮闘していたな。ウン、いい演奏を聴かせて貰ったよ」
「いい席を取っておいてくれてありがとうね。お陰でリーザの活躍がよーく見られたわ」
三人がリーザの奮闘に賞賛を贈り、女学校の制服姿のリーザを優しく抱き寄せキスをする。
「次は…いよいよヴォルフィの出番だよな。お前さんはあとは?」
「ハープでの出番はもう終わり。あとは最後のヘングレのトライアングルと、もしアンコールが来たら、アンコール…かな」
「きっと来るよ。どうする?ここでモーツァルト聴いてる?」
「ううん。ヘングレあるし袖に控えて伯父様と聴いてるよ」
「ほら、あっちにおじい様たちも聴きに来てくれているから、お礼を言っておいで」
ユリウスが少し離れたところに座っているアルフレートとマリア・バルバラ、そしてテレーゼの三人の方へ目線をやった。
「ウン!そうする」
ーーじゃあね、また終演後に!
そう言って制服のスカートの裾をはためかせ、軽快な足取りで祖父たちの方へと小走りに駆け寄って行った。
〜〜〜〜
「ユリアさん」
馴染みの声にユリウスが振り返る。
この上ない上機嫌な声の主は、わざわざ今日のためにレーゲンスブルクへ帰って来たキッペンベルクの大奥様だった。
「キッペンベルク夫人!」
「あなたの鮮やかな金の髪は、相変わらず格好の目印だわね。どこにいてもすぐに目に飛び込んでくるわ。…相変わらずお綺麗だこと。そうそ、再婚したのだったわね。おめでとう」
「ありがとうございます。キッペンベルク夫人も、変わらず溌剌とお若くて、何よりですわ。今日はヴォルフィのコンチェルトデビュー、おめでとうございます」
互いに肩を抱き寄せ頰を寄せ合う。
「そうなのよ!もう、わたくし気が気じゃなくて。昨晩も目がすっかり冴えてしまって!もう心臓が早鐘を打ち続けているのよ」
「目が冴えたのは、久々に田舎から出て来て興奮しているからだろう?」
大奥様の背後から呆れたような声がする。
「モーリッツ!」
「やあ」
キッペンベルク夫人の後ろからモーリッツとベッティーナ夫妻がやって来た。
モーリッツの腕にベッティーナの手が絡められ、相変わらず仲睦まじい。
「今日はヴォルフィのコンチェルトデビュー、おめでとう」
「ありがとう。…至らない点も多々あるだろうけど、今日の本番の日を迎えられたのも、ひとえに指導して下さった先生方と、支えてくれたオケの皆のお陰だな。親としても感謝の一言に尽きるよ」
モーリッツが親らしい一面を見せる。
「大丈夫かしら?あの子ったら。こんなに沢山のお客様の前で」
ベッティーナは息子の晴れ舞台に不安を隠せないようだ。
「大丈夫だよ。袖にはステマネでダーヴィトも控えているし。練習して来たことそのままやればいいんだよ」
「それに何よりあいつには、名前の加護もあるしな。モーツァルトのコンチェルトをヴォルフガングが演奏するんだ。失敗なんてするわけないさ」
アレクセイの(根拠のない)励ましに、ベッティーナが「ほんとに?」とでも言うようにアレクセイたち一行に不安そうな眼差しを向ける。
ベッティーナの視線に皆が大きく頷いて見せた。
やがて2部の始まりを告げるベルが会場に鳴り響いた。
「あぁ、いよいよ始まるわ!…どうしましょう!どうしましょう」
いよいよ始まる息子の本番にすっかりうろたえたベッティーナが泣きそうな声を上げる。
「ベッティーナ」
そんなベッティーナの両手を取り、ユリウスが彼女の目を見て話しかける。
「このコンチェルトは…とてもステキな曲だよ。もう余計なことは考えずに、この曲を楽しもうよ。それに…この曲は3楽章までフルで演奏してもたったの20分程度なんだ。上手くいっても…そうじゃなくても、たった20分!その20分の後に必ず終わりを迎えるんだ」
「20分…」
「そうだよ。…泣いても笑っても20分。だけどこれだけは言えるよ。その20分は、終わってからヴォルフィの長い人生において様々な局面で幾度となく思い返す、これからの彼の人生を導くかけがえのない20分になるはずだよ」
ーー間も無く、休憩が終わります。お席に付いて下さいますようお願い申し上げます。
「あ、ホラ。始まる。ね、楽しもう。じゃあね」
「ええ。ありがとう、ユリウス」
それぞれの席へ戻って2部の開幕を待つ。
やがて舞台上に2部最初の曲、モーツァルト作曲《オーボエ協奏曲 ハ長調》の演奏メンバーが舞台に上がり、最後に指揮者とソリストのヴォルフガングが舞台に現れた。
客席に向かって一礼するヴォルフィに観客席から拍手が起こる。
拍手が止んだところで、指揮棒が上がった。
2部第一曲目、ヴォルフィのソロによるオーボエ協奏曲が始まった。
第一楽章
オケの旋律に迎えられるようにヴォルフィのオーボエが曲に入る。
序盤の入りこそやや硬さが感じられたものの、持ち前の明るく天真爛漫とした気質をそのまま音にしたようなヴォルフィのオーボエは、ひたすら明るく澄み切ったこの曲によく合っていた。
カデンツァ辺りに差し掛かってくると硬さもすっかり取れ、闊達で清々しい音色が聴衆を魅了する。
次の緩徐楽章も美しくクリアな響きを存分に聴かせ、三楽章の軽快な旋律に入ると本人も演奏を十分に楽しんでいるのだろう、歌心溢れるオーボエの音色がオケを時に引っ張り、時に支えられ、雄弁に対話しながらラストへと疾走して行く。
最後のカデンツァもたっぷりと聴かせ、ヴォルフガングの人生初めてのコンチェルトは、こうして最高のフィナーレを迎えたのだった。
最後の響きが消え去り、ヴォルフィがゆっくりと楽器を下ろす。
静寂の後に舞台に向けられた万雷の拍手。
アレクセイが立ち上がり「ブラーヴォ」と舞台のヴォルフィに掛け声をかける。
その掛け声を合図にするかのように聴衆が次々と立ち上がり、舞台のソリストと彼を支えたオケ、そして指揮者に次々と掛け声が掛かる。
ーーブラーヴォ!ヴォルフィ!
ーーブラーヴィ!
ーーブラヴィッシモ!!
拍手と奮闘を讃える掛け声に感極まったヴォルフィが呆然と立ち尽くす。
そんなヴォルフィに指揮者が、お辞儀で観客に応えるよう促す。
我に返り今一度深々と観客席に向かって一礼したヴォルフィに再び惜しみのない拍手が贈られた。
そしてーー
初コンチェルトを成功させたヴォルフィの感激はこれだけではなかった。
観客席から赤いドレスに身を包んだ黒髪の美少女が白い薔薇の大きな花束を持って舞台に近づいてくる。
今度は拍手と共に、観客席とオケの面々から、「ヒュー!」と次々に喝采と口笛が上がる。
指揮者に促されるままに舞台上へ上がった黒髪の美少女ー、テレーゼ・フォン・アーレンスマイヤが優雅な仕草でヴォルフィに花束を差し出した。
あまりに感激しすぎてその場に固まって突っ立っているヴォルフィを指揮者の生徒が軽く肘で小突く。
我に返ったヴォルフィが差し出された花束を受け取ると、彼のミューズの肩を抱き寄せ、頰にそっと口付けた。
その様子に二たび観客席とオケの仲間からやんやの喝采と口笛と拍手が起こる。
感極まって目の縁を僅かに赤らめたヴォルフィがもう一度聴衆に向かって深く一礼した。
今日の演奏会のプログラムのラストは、クリスマスらしくフンパーディンクのオペラ《ヘンゼルとグレーテル》の序曲でしめられた。
ゆったりとした情感的な入りからやがて情景を音に写し出したような心躍るメロディへと展開してゆくこの序曲は、この会場内のすべての人たち全てにクリスマスの喜びと祝福を捧げる一曲となった。
最後の響きを惜しむようにゆっくりと指揮棒を下ろした指揮者と今日のプログラム全てを素晴らしい演奏で終えたオケのメンバーに改めて拍手が起こる。
指揮者が観客の方を向き一礼すると、恒例の楽器セクションごとの挨拶が始まる。
第1・第2ヴァイオリン、チェロ、ヴィオラ、コントラバスの弦五部、木管セクション、金管セクション、そしてハープを含む打楽器セクションを順繰りに立たせて行く。
それぞれのセクションの奏者が起立し一礼するごとに観客席から今日の奮闘を讃える拍手が起こった。
(この時ティンパニ奏者と共に起立したリーザに「ブラーヴァ!リーザ」とアレクセイが声を掛けたのは、親バカでご愛敬だ)
全ての楽器の紹介が終わり、指揮者がステージには上らないものの今日までオケと指揮の指導で皆を引っ張ってきた校長ヘルマンと、ステージマネージャーを務めてくれたダーヴィトを袖から引っ張って来る。
舞台上に指揮者とヘルマン、ダーヴィト、そして今日のソリストのヴォルフィが並んで立ち、一礼し、観客から拍手が起こる。
舞台に四人が揃ったタイミングで、今年ゼバスに入学したまだあどけなさを残す制服姿の5人の新入生たちが花束を抱えて壇上に上がってきた。
最後の5人目を「リーザ!」と指揮者が指名して前へ出るよう手招きする。
5つの花束の最後の一人は、今日の賛助を引き受けてくれたハープ奏者のリーザへ だった。
思わぬ事態に目を丸くして驚いているリーザを隣のティンパニ奏者の生徒が背中を押し、前へ出るよう促した。
促されるままに前へ出てきたリーザに観客から拍手が起こる。
拍手に答えて前に並んだ四人の末尾についたリーザがカーテンシーで応えた。
揃った5人に花束が手渡された。
花束を手にし最後に5人が一礼し、拍手を受けながらヴォルフィとリーザが元の席へと戻る。
ダーヴィトとヘルマン、そして指揮者が袖へ退くと、弦楽器から順繰りにオケの生徒たちも袖へと引っ込んで行く。
奏者のいなくなった舞台上に、アンコールの手拍子が起こる。
手拍子に促されるまま再び舞台に奏者と指揮者が登場し、観客が彼らを盛大な拍手で迎える。
アンコールは、これもまたクリスマスらしいチャイコフスキーのバレエ組曲《くるみ割り人形》から「花のワルツ」だった。
ハープの聴かせどころがあるこの曲はリーザの面目躍如だ。
優雅なカデンツァを会場いっぱいに響かせる。
華やかなワルツがフィナーレを迎え、指揮棒を下ろした指揮者が指揮台を降り、両手を上げてオケに合図する。
その合図に合わせオケの皆が声を合わせて観客に「メリークリスマス!」と祝福の言葉を贈る。
もちろんその声の中にリーザのソプラノも混じっていて…。
クリスマスの心温まるひと時をプレゼントしてくれたオケのメンバーに今日最後の大きな拍手に送られてメンバーが退場し、コンサートの幕が下りた。
惜しみのない拍手を送りながらユリウスが隣のアレクセイに呟いた。
「リーザ、楽しそうだったね。輝いてたね。…親のぼくの知らないところで、あの子はこんな世界へ足を踏み入れていたんだねぇ。…ねぇ、ぼくはね、サロンなんかで請われてお客様や家族の前でピアノを弾くことはあるけれど…舞台に立って、大勢の人の前でこんな風に演奏したことはまだないんだ。でもね、今日の演奏を見て、ぼくも舞台というものに立ってみたくなってきた。あのね…もし、もしも だよ。…ぼくの腕前でもそれが可能なのだったら…あのね…、あなたと…」
ためらいがちにそこまで言ったユリウスの言葉の続きをアレクセイが続けた。
「お前が舞台に立つときは…俺も一緒だ。俺たち二人でドレスアップして舞台に立って演奏して…拍手をもらう。ステキだな。…いつか、いや、絶対!実現させようぜ」
そう言ってユリウスの手をキュッと握ったアレクセイに、ユリウスはコクリと頷いた。