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第九十五話 Ⅱ

「おーい、まだか!日が暮れちまうぞ?」

 

焦れたアレクセイがリビングから寝室のドアに声をかける。

 

「待って、もう少し!」

 

ドア越しにユリウスの声が帰ってくる。

 

「ホホ…レディの身支度を急かしてはダメよ」

 

「すいません…あいつ。お待たせしてしまって」

 

「いいのよ、いいのよ。まだ時間に余裕は充分あるわ。リーザはもう会場へ向かったのよね」

ーー掛けてらっしゃいな。

 

娘宅のリビングにやって来たレナーテが、焦れるアレクセイを鷹揚に宥め、ソファへ掛けるよう促す。

中々部屋から出てこない妻に肚を括ったアレクセイは少し呆れたように軽く肩をすくめてみせ、再びソファに腰掛け長い脚を組んだ。

 

「はい。いい顔して出て行きましたよ」

 

「そう。よかった。今日はヴォルフィが活躍すると聞いたのだけど」

 

「ええ。オーボエコンチェルトのソリストを務めます。オケをバックにコンチェルトのソロを務めるのは音楽家としては最高の名誉ですよ」

 

「この日のためにね、キッペンベルクの大奥様もわざわざヴィラから帰省しているのですって。可愛い孫の晴れ舞台ですものね」

 

「マジか!あ、いや。…アハハ。息子で叶わなかった念願を孫でリベンジ…ですかね」

 

「ウフフ。どうかしら。このまま公現祭までこちらに滞在されるようで…。あちらさん…ベッティーナたちは大変ね」

 

「あぁ…まぁ。ご愁傷様…ですかね」

 

「まぁ、酷い。ホホ…」

 

「アレクセイ、母さん、お待たせ!何盛り上がってるの?」

 

そこへ漸く支度を終えたユリウスがリビングに姿を現した。

 

ほっそりとした身に纏っている薄緑色のベルベットのドレスが、二人が出会った年のほろ苦い後味を残した降誕祭

の学内演奏会で着ていたあのドレス姿を思い起こさせる。

 

感慨もひとしおに、言葉もなくジッと自分を見つめるアレクセイに、「どうしたの?魂抜かれたみたいな顔をして」とユリウスが僅かに小首を傾げて微笑みかける。

 

「あ、いや。その…グリーンのドレス…」

 

「え?」

 

アレクセイの言葉にユリウスが自分のドレスを見下ろす。

 

「ホラ、あの年の…俺たちが出会った年の降誕祭の演奏会にお前…」

 

「あ!」

 

そこまで言われて漸くユリウスがアレクセイの言わんとしていることに気づく。

 

「そう言えば、あの日もこんなグリーンのベルベットのドレス、着てたわねえ」

 

しみじみとレナーテもあの頃を思い出したように娘を見つめる。

 

「そう…だったね。母さんがドレスを選んで、紅をさして髪を結って…綺麗にしてくれたんだ」

ーーそれで…「綺麗よ、ユーリカ」って…ぼくを送り出してくれた。

 

二人に指摘されて微笑んだユリウスの笑顔に、あの頃の面影が差す。

 

あの頃の自分にとって唯一の心を許せる友達だったアレクセイ。

 

彼の演奏を聴きに行くときの浮き立つような心の高揚。

だけどそれは…美しくエレガントで完璧な淑女だった婚約者アルラウネの存在を目の当たりにし無残なほど萎れてしまい、ぺしゃんこの心を抱えて屋敷に帰宅したのだっけ。

 

まだてんで幼かった自分。

彼に対して芽生えた恋心すら、自覚していなかったほどに…。

 

「ふふ…」

 

あの頃の自分につい含み笑いが込み上げてくる。

 

「なんだよ?」

 

そんなユリウスの頰を、アレクセイの長い指が軽くつまんだ。

 

「いや…あの頃のぼく、てんで子供だったな〜って…ね」

 

そう言ってユリウスが自分の頰を摘んだ夫の右手の指輪をそっと指で撫でた。

 

「そうだったわね。シュンと塞いで戻ってきた15のあなたを慰めるのは…」

 

「大変だった?」

 

「いいえ。そんなあなたが堪らなく可愛くって愛おしくて…」

 

分かるでしょう?と言うようにレナーテがアレクセイに目配せした。

 

「ええ。言わんとしていることはよーく、分かります。あの頃のこいつ、ホンットに愛くるしかったから」

 

大きく頷きながらアレクセイがそのままユリウスの頭を優しく引き寄せ、金の髪に口付けた。

 

「あらあら、ご馳走さま。随分と当てられちゃったわ。さ、そろそろ出ましょうか。リーザも出演するし、あの子のよく見えるいい席、取らなきゃね」

 

「そうですね。…行くか」

 

「ウン!」

 

ーーあ、雪、また降り出しましたね。車、拾います?

 

ーーいいわよ、近いしこのぐらい。

 

 

コートを着込むと三人は雪のチラつき始めたクリスマスのレーゲンスブルクの街へ繰り出して行った。

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