第九十四話
婚姻届を出しユリウスと夫婦になった俺は、当初の予定通り、今迄寄宿させてもらっていた楽器屋の二階の部屋を引き払い、ユリウスのメゾネットへ移ることになった。
二階建て4LDKのユリウスのメゾネットは割に広い。
おまけに角部屋なので窓も多い。
ユリウスと話し合って俺たちの寝室は一階の今迄音楽室に使っていた部屋にし、音楽室を二階に移すことにした。
二階の今迄ユリウスの寝室だった部屋からドレッサーやらライティングビューローやらを移動させる。
家具やピアノの運搬を手伝ってくれたのは、ユリウスの幼馴染だという運転手の男だった。
ハンスという名のこの男はフランクフルト時代のユリウスの幼馴染で、ユリウスは嫁いだ先の屋敷で偶然にも運転手の仕事に就いていた奴と再会したらしい。
ユリウスの婚家の破産後、職を失っていたが、ユリウス自らフランクフルトへ出向き、自分の運転手として引き抜いたという。
以後母親と共にレーゲンスブルクへ移住し、ユリウス専属の運転手として送迎は元より、常に傍近く控え、怪しい人物はいないか、危険はないか目を光らせている。(非公式だが、兼ボディガードの役目もあるらしい。例のロシア絡みの胡散臭い連中もまだ少なからずアーレンスマイヤ家周辺にウロついているみたいだし、仕事で成功したユリウスには新たに営利誘拐のリスクも生じて来たためだ)
長身でガタイが良く鋭い目つきをしている奴は、あのミハイル・カルナコフをどこか彷彿とさせる。
厳しい顔つきをしているが不意に見せる笑顔のギャップ…とかもかな。
ユリウスは今迄使っていたベッドを、奴の母親に譲ることにしたらしい。
(奴の母親は今はアーレンスマイヤ家の口利きで、ゼバスの食堂の賄いとアーレンスマイヤ商会のオフィスビルの掃除婦の仕事を得ていた)
ベッドを持って帰るために、小型トラックを借りて乗り入れて来ている。
「悪いな。あんたのアパートへの搬入、手伝うよ。ユリウス、ちょっと出てくる」
「うん。行ってらっしゃい。おばさんによろしくね。ハンス、ベッド引き受けてくれてありがとう」
「いやこっちこそ。こんな高級なベッド。ありがとな。おふくろも寄る年波が最近腰にきてるみたいで、助かるぜ。クラウスは引越しの途中なのに、外していいのかよ?」
「なーに、俺の荷物なんて大したものないからな。問題ないさ。あんただって流石にこれ一人でアパートの部屋には搬入できないだろ?」
「…そりゃそうだな。助かるよ、ダンケ」
そう言って厳しい顔を少し綻ばせた。
「じゃ、ちょっと行ってくるよ」
荷台にベッドを乗せ、俺とハンスは奴のアパートへ向かった。
「行くぞ?」
「おう」
ーーせーの!
二人でベッドを抱える。
ハンス母子が住んでいる地区は昔イザークが住んでいた地区だった。
あの時よりも区画整理がされていて、随分と綺麗に住みやすそうになっている。
「エレベーター、入りそうか?」
「うんしょ…っと。何とか入りそうだ」
エレベーターにベッドを押し込みその隙間に無理やり身体をねじ込む。
エレベーターが大儀そうにガタンと動き出した。
「先に出てくれ。それからベッドを倒そうぜ」
「そうだな」
ーーヨイショ!
ベッドをエレベーターから引きずり出し奴の部屋のドアの前まで運ぶ。
ビーー
部屋のブザーを鳴らすと、「ハイよ!ちょっと待ってね」という声と共にドアが開いて見慣れた顔二つがドアから覗いた。
一つ(一人)は当然ハンスのお袋さんで、もう一つの見知った顔はー
ゲルトルートだった。
「あら、クラウス。運ぶの手伝ってくれたのかい?ありがとうね。相変わらず男前だねぇ」
あの楽器店とゼバスは古くからの付き合いのよしみで、モグリであそこの学食を利用しても、今更誰も咎めたりしない。そんなわけで学食の賄い婦として働いている奴のおっかさんとも必然的に顔馴染みになっていた。
「ハハ…。ありがとよ。ちょっとおじゃまするぜ」
「ああ。あたしの部屋はその突き当たりだよ。ありがたいねぇ。こんな立派なベッド。あたしは果報者だ」
「おふくろ、ベッド今までの場所でいいか?」
「ああ。同じ場所に置いとくれ」
フレームを置いてトラックに引き返す。
今度はマットだ。
「行くぞー」
「おう!」
先ほどと同じ要領で部屋まで運んでフレームにセットする。
「あー!重かった」
「結構腰くるな」
二人で運び終えたベッドの横で腰に手を当て身体を伸ばす。
「あ、これユリウスから。今まで使ってたベッドリネン類。洗濯もしてあるので一緒にどうぞって」
「まぁま!何から何まで悪いねえ。あらあら、こんなに高級品…。いいのかい?」
「まぁ…新しいベッドのサイズと合わないんで…いいんじゃないすか?」
「そういや、今日新しいベッドが搬入されてたな。クィーンサイズの!え?この色男」
ニヤニヤしながらハンスが肘で小突いてくる。
「ンだよ…。お前こそ…いつの間にちゃっかりゲルトルートと。いつからだよ!」
チラリとゲルトルートの方に視線をやる。
「あぁ…まあ。アパートすぐ近くだし、あいつ、身寄りがなくて天涯孤独だっていうから…お袋と気も合うみたいで、ああして意気投合してるんだわ」
交際している とは言わなかったが、ハンスは俺の勘繰りを否定もしなかった。
あいつ…ね。
「んじゃ、俺帰るわ。いくら荷物少ないっても引越しの最中だしな。じゃあお邪魔しました。ユリウスも「おばさんによろしく」と言ってました。…今度遊びに来てくださいよ。皆で」
そう言って、チラリとゲルトルートの方に視線をやる。
「皆」の中に自分が含まれていることを察したゲルトルートが、少し決まり悪そうな、しかし面映そうな表情を浮かべながら傍のハンスと奴のお袋さんに視線で伺う。
そんなゲルトルートに、二人が小さく頷いて見せた。
「ありがとうございます。お嬢様に宜しくお伝えください」
使用人としての節度がそうさせるのか、ゲルトルートは俺の誘いを言葉通りに受けることはしなかったが、されど拒絶もしなかった。
まぁ…ハンスとお袋さん経由で折に触れて声をかけ続ければ、そのうち実現もするかもな。
「じゃ、俺車返しに行きがてらこいつ送ってくわ」
ーー行こうぜ。
俺の肩をポンと叩いてハンスが二人にそう告げた。
「ハイよ。クラウス、また学食にご飯食べにおいでよね」
「ありがとうございます。食堂の方にもまたお邪魔します」
暇を告げると俺とハンスは再びトラックに乗り、元来た道を引き返して行った。
〜〜〜〜
その晩ー
「え?!ハンスと…ゲルトルートが?」
ドレッサーの前で髪を梳かしていたユリウスの碧い瞳が鏡越しに大きく見開かれている。
「みたいだな。…お前も知らなかったの?」
ベッドの縁に腰かけた俺が鏡に映るユリウスに話しかける。
鏡越しのユリウスが大きく首を縦に振った。
「…たまにウチに来てくれるゲルトルートと送迎のハンスがエントランスでかち合っているようなのは…知ってたけど。それ以上のことは…」
ユリウスはまだ驚き冷めやらないようだった。
「まぁさしずめ…大きな価値観が一致して、距離を縮めて行ったんだろうなあ」
そう言って自分の言葉にウンウンと頷く俺にユリウスが「価値観?」と訊き返す。
「お嬢様大事!!ってトコだよ!それはまぁ俺も同じだな。…来いよ、お嬢様。いつまで俺を待たせるんだ。コンニャロ」
大人しく愛妻の身仕舞が済むのをお預け喰らわされた犬のように待っていた俺は、とうとう我慢できなくなり、ドレッサーの前のユリウスの腕を引き抱き寄せ、そして強引にベッドに押し倒した。
「あ…」
口紅を落とした淡い薔薇の花びらのような唇から漏れた吐息交じりの声を唇で塞ぐ。
唇はそのまま顎先、首筋、そして胸元…とユリウスの白い身体のラインをなぞる。
愛撫に組み伏せられたユリウスの腰がピクリと僅かに反った。
キシ…
重ねられた俺たちの身体の重みで、新しいベッドのスプリングが小さく軋んで音を立てた。
〜〜後日譚〜〜
「…なんですか?」
先程からやたらゲルトルートに向けられてくるユリウスのニヤニヤ笑いに耐えかね、ゲルトルートが主人を振り返る。
「べ〜つに〜」
ーーおおかた…先週末のあの件だろう…。
ユリウスの意味深なニヤニヤ笑いの意味するところを大体察したゲルトルートがそれ以上は乗るまいと敢えてスルーして仕事の手を動かし続ける。
ゲルトルートに取り合って貰えないユリウスは、ならばと直球を放って来た。
「ハンスとは…いつからなの?」
その問いかけに思わず二人の間に沈黙が流れる。
されど特段自分(とハンスのこと)を咎めたてしているわけでもないユリウスの口調と態度に、ゲルトルートもこれ以上ムキになって否定するのも馬鹿らしく思えてきたので、素直に打ち明けることにした。
「お嬢様のおっしゃる…「いつから」というのは…正直言って曖昧ですね。でも…思い返してみたら…そうですね、レナーテさんのデザインの仕事がお忙しくなってこられて、こちらへ伺う事が増えてきた頃…でしょうか?しばしばエントランスでお嬢様を迎えに来て待機しているハンスと一緒になる機会が多くなって…それでお互い色々話すようになって。聞くと住まいも私のアパートのすぐ近くで…」
「あー、そう言えばそうだね。ゲルトルートとハンスは…アーレンスマイヤ家の使用人の中でも少数派の通い組だもんね〜」
「あのエリアは物価も安くて再開発も入っているし、中々暮らしやすくて、人気があるのですよ」
「で、急速に距離を縮めた…と」
「まぁ…そういうことです」
照れ臭そうに白い顔を僅かに染めてゲルトルートがユリウスの言葉に同意した。
「結婚…するんだよね」
「いずれ…近々…」
ユリウスの言葉にコクリと小さく頷き、ほとんど消え入りそうな声でそう答えた。
「ねぇ、ゲルトルート。そのことを…お父様に、報告してあげて。あなたの…あなたとハンスの口から。父様ね、あなたの幸せな報告をずっとずっと待っているんだよ。ね?…すごく喜ぶから」
「…わたくしのような…ものの…」
「のような じゃないよ!父様はね、あなたのことだって、まるで娘のように思っているんだから。実際レオニードにも言ったことあるらしいよ。「あれも私の娘のようなものだ」って」
「そんな…勿体ない…」
「勿体無いことなんて、これっぽっちもないよ!当然だよ」
「そうで…しょうか?」
「そうだよ。あぁ、でもゾフィ叔母様はちょっとがっかりなさるだろうね。なんてったってお気に入りのあなたの縁談をまとめようと張り切っていたから…」
「そういえば、幾度かゾフィ様に殿方と引き合わされました…」
「でしょう?」
「…誠に勿体ない話です。あの…ゾフィ様は…お気を悪くされないでしょうか?…その…」
「何で?…あぁ、自分が持ってきた縁談ではないからってこと?だーいじょうぶだよ。そんなことで気を悪くするような人じゃないし。まぁ、多少はガッカリするかもしれないけど…きっと祝福して下さるよ」
「そうでしょうか?」
「ウン!請け合うよ。でもさ、正直言うと叔母様には悪いけど…叔母様が引き合わせた殿方の誰よりも…ハンスの方がいい男だと思わない?」
茶目っ気たっぷりにそう言ってきた主人に、ゲルトルートも笑いながら頷く。
「はい。…実はわたくしもそう思いました」
「ご馳走さま!!…朝から当てられちゃった」
まるで少女の頃のようにゲルトルートと幼馴染との間に芽生えたロマンスにユリウスがはしゃいで盛り上がる。
「楽しみだな〜。ゲルトルートとハンスの子供!可愛いだろうなあ。おばさんも心待ちにしているのではない?」
「お気が早いですよ。それにわたくしの前に…それを仰るならばお嬢様では?」
「え?えーー?!ぼ、ぼく?」
「そうでございましょう?それこそ…アーレンスマイヤの旦那様も心待ちにされておりますよ」
同世代の人間では誰よりも気心知れた古くからのこの侍女と幸せな話が弾み、ユリウスは心底楽しそうだ。
ゲルトルートもそんな主人を目にして心から幸せを感じたし、また、自分のことも我が事のように喜んでくれる主人の気持ちが心底有り難く嬉しかった。
が、朝の予定を考えるといつまでもこうして話に興じているわけにも行かなかった。ゲルトルートがマントルピースの上の置き時計にチラリと視線をやる。
「あの、恐れながらお嬢様…」
「ん?」
「お嬢様、確か七時丁度の列車にお乗りになる と仰られていらっしゃったのでは?今日は早いからハンスの送迎も頼まなかったと…」
ゲルトルートの言葉に恋バナに舞い上がっていたユリウスが一気に現実に引き戻される。
「え、やだウソ!今何時?」
「6時40分を過ぎましたが…。そろそろお出に…」
「そうだよ〜〜!わー!乗り遅れる!!アレクセイはほっといても時間になったら部屋から出てくるからいいとして…悪いけどぼくが出たらリーザ起こしてもらえるかな?あの子最近朝が中々起きられなくて。ドアの外から声かけてもやたらいい返事だけ返って来てまた夢の中に逆戻りしちゃうから、悪いけどちゃんと起きてベッド出るまで見張ってて!」
「はいはい。畏まりました。あとは?」
「あとはいつも通りで!じゃあリーザのことだけくれぐれもお願いね〜!」
ーー今日は早くから出勤してくれてありがとう!
慌てて帽子を被り上着を引っ掛け、ハンドバッグをひったくるようにして掴んだユリウスが、最後にゲルトルートの華奢な肩を抱き寄せ頰を寄せると、慌ただしくアパートを出て行った。