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第九十一話 Ⅲ

ユリウスと別れてもう間もなく一週間が経とうとしている。

 

あいつ…

どうしたんだろう。

留守にしていた間の仕事が猛烈に溜まっているのか?

(何たって今やドイツを、ヨーロッパを代表する実業家だ!)

旅疲れで体調を崩したのか?まさかの…知恵熱、じゃないよな…。

やっぱり俺の方からユリウスを訪ねようと決心したその時―

 

カラン…

 

ドアに取り付けられた真鍮のベルが鳴った。

 

開いたドアの向こうからチラリと見えた金の髪に思わずスツールから腰を浮かせて「ユ…」と声が出かけた。

 

「…リウスじゃないよ。…ゴメンね、ママじゃなくて」

 

現れたのは

娘のリーザだった。

 

~~~~~~

 

「どうぞ」

 

店番をおっさんに任せ、リーザをバックヤードへ招き入れると、サモワールに火を入れ、ジャムと一緒にリーザの前に紅茶を出した。

 

リーザは初めて招き入れられたバックヤードを興味津々に見渡し、珍しそうにそのロシア風の湯沸かし器を見つめ、湯気を立てたカップを手に取った。

 

「そのジャム舐めながら飲むのがロシア流だ。慣れんと行儀悪く感じるかもしれんがな」

 

俺に言われて、リーザが素直にその流儀に従う。

 

「ん…美味しい!このジャムおばあちゃまのジャムの味がする!」

 

そりゃそうだ。そのジャムはユリウスのおすそ分けだからな。

 

「ここ…男所帯なのに、意外と綺麗にしてるんだね。ウフフ…それに、このカップ…おばあちゃまのデザインの…だよね?」

 

リーザが笑いながら手にしたカップを少し掲げて見せた。

 

「ああ。まぁな。それはユリウスが持ってきてくれたんだ。…ここを整頓して綺麗にしてくれたのも…ユリウスが一緒に手伝ってくれた」

 

俺は鼻の下をポリとかきながら、目の前の娘に白状した。

 

「ふふ…すっかり愛の巣って感じだね。ねぇ、アレクセイ。そのリング、ママのリングと…お揃い だよね?」

 

その俺の薬指に光るリングにリーザがすかさず目をとめた。

 

~~~~~~

 

「ただいま」

 

「お帰りなさい。お疲れ様です。旅行、どうでした?」

 

久々に顔を出すオフィス。

留守を預かってくれたアニエスが帰還を労ってくれた。

 

「アニエスもお疲れ様。変わった事はなかった?」

 

「ええ。大丈夫です」

 

「はい。これお土産」

 

アントワープで買い求めたアニエスへのお土産を手渡す。

 

「わぁ、ありがとうございます。…開けてもいいですか?」

 

アニエスへのお土産はダイヤのブレスレットウォッチだった。

 

若くほっそりとした手首にダイヤが煌めく。

 

「素敵!こんな高価なもの…いいんですか?」

 

「もちろん。留守の間会社を守っていてくれたからね。あなたのおかげでぼくは楽しい旅を満喫できたよ」

 

「それは…一応副社長ですもの。当然です。…あ、綺麗!これってもしかして?」

 

アニエスが目ざとくぼくの薬指に光るリングをみとめ、瞳を輝かせてぼくの手を取った。

 

「…社長?」

 

「…アニエス~~」

 

そんなアニエスに、ぼくは、こちらへ帰って来てから誰にも吐き出すことの出来なかった葛藤を吐き出してしまっていた。

 

~~~~~~

 

「ええーーーーーー?!じゃあ…せっかくプロポーズされたのに…その後一度も会ってないって…クラウスさんのことを避けてるって、そういうことですかぁ?!」

 

「避けているって…訳じゃないんだけど…その…」

 

後ろめたそうにそう弁解したぼくに、アニエスは最早返す言葉もないようだった。

 

「イヤそれ…。ハァ…なんでそんな気遣い…。リーザは社長にそんなこと…」

 

「でも。でも!口には出さない…ううん、出せないけど、本当はそう思っているのだったら…。ぼくは…ぼくは…。すっかり浮かれて舞い上がっていたけど…帰って来てリーザの顔を見て、目が醒めた。あの子には、別れたけれどもれっきとした父親がいるのに…」

 

「醒ます必要なんて、ありませんよ。第一、そのリーザを、社長を裏切ったのは、父の方ですよ?リーザも、ましてや社長も、父に何の気兼ねもする必要はありません!心置きなく幸せになるべきです。それにあの子あなたにそんな気遣い、これっぽちも望んじゃいませんよ。寧ろ今の言葉リーザが聞いたら…きっとガッカリしちゃいますよ。「ママは私のことちっともわかってない」って」

 

「…そう…かな?」

 

「そうですよ。リーザはずっと社長の、大好きなママが幸せでいることを願っていたのですよ。今のリーザの感情や言葉に…嘘はないと私は思います。だけど…人の心や感情って、自分でも思ってもみないものを奥底に抱えていることもあるから…もし、もしもこれから先リーザがそういった感情に絡め取られて苦しむことがあれば…」

 

「あれば…?」

 

「私が寄り添って、その感情にトコトン付き合ってあげます。任せてください。…複雑な家庭事情ならば、私エキスパートですので。…何より、私とあの子は…姉妹ですしね」

 

「アニエス…」

 

「だから、幸せになることを躊躇わないでください。…思い切って、自分の感情に正直になって、一歩を踏み出して下さいよ。社長らしくないですよ~。新しい局面にいつも果敢に一歩を踏み出す社長が!」

 

「も…もぅ!人をまるでイノシシみたいに!!」

 

「いいじゃないですか。イノシシ。あ、そうそう。イノシシってとても母性本能の強い動物らしいですよ。ますます社長にぴったりじゃないですか~」

 

―― コンコン…。

 

「はい?」

 

「お話し中失礼します」

――あの、社長に、お嬢様とそれから…ゾンマーシュミット様が面会に見えておりますが…お通ししてよろしいでしょうか?

 

受付嬢がぼくたちにリーザとアレクセイの来訪を告げた。

 

「社長!ホラ、これが…リーザの今の偽りない気持ちですよ。ホラ、前進前進!」

 

アニエスに励まされ、ぼくは答えた。

 

「ありがとう。お通ししてください」

 

 

「ママ」

 

アレクセイを背後に従えて、リーザがやって来た。

 

「ごめんなさい、ママ。仕事場に私用で来てしまって。…でも、これって…後回しにしては…よくないこと…なんじゃない?」

―― アレクセイ。

 

リーザが背後のアレクセイを振り返る。

 

「ユリウス…。すまん。ノコノコとオフィスにまで押しかけてきてしまって…」

 

大きな身体を心なしか縮こませたアレクセイが気まずそうにぼくに突然の来訪を詫びる。

 

そんなアレクセイにぼくは、首を横に振って答えた。

 

「ありがとう。アレクセイ、それからリーザ。ねぇ、アレクセイ。…ちょっと二人で話そうか」

 

――少し外します。リーザ、ありがとう…。

 

娘の肩を抱き寄せ頬にキスをすると、ぼくはアレクセイと一緒にオフィスを出た。

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