第九十一話 Ⅱ
「ただいま~~」
「お帰り!ママ」
我が家へ到着する。
ぼくの声を聞きつけたリーザが玄関まで駆け出て来た。
「リーザ、ただいま」
「ママ、お帰り」
玄関で抱き合い頬を寄せ合う。
久々の娘の温もり。
久々の娘の匂い。
愛おしさがこみ上げてくる。
「ん~~~~リーザ!会いたかった」
抱き締める手についつい力が入ってしまう。
リーザの髪に顔を埋め、もう一度頬ずりする。
「ママ、ママ!くすぐったいよ!腕、きついよ!!」
ぼくの腕の中で、娘が笑い交じりの甘い悲鳴をあげた。
「ヴィシュヌもゾッケンも…ただいま」
リーザの後ろに控えてぼくを出迎えてくれた尻尾を持った家族たちにも帰宅の挨拶をする。
ちぎれんばかりに尻尾を振っているヴィシュヌの大きな頭と背中を撫で、足元にすり寄って来たゾッケンを抱き上げる。
ダイニングからお茶とお菓子の甘い香りが漂ってくる。
「お帰り、ユーリカ」
「母さん!ただいま…」
お茶の支度をしてくれていた母さんと抱き合う。
ぼくを迎えてくれた母さんの笑顔を目にした途端、色々な興奮やらなにやら…様々な感情が一気に解けて…なんだか不思議と泣けてきてしまった。
「ただいま…ただいま、母さん」
母さんの腕に抱きしめられ髪を撫でられながら、声を詰まらせてそう繰り返したぼくに、「一体どうしたって言うの?…おかしなユーリカ」と母さんのいつもの優しい声が、耳を柔らかくくすぐって行った。
ぼくの…愛する家族と…日常。
「お疲れ様、ユーリカ。着替えてらっしゃいな。それからお茶にしましょう。旅の話を聞かせて頂戴」
「うん。待ってて。すぐに着替えてくるよ」
自室へ戻り、旅装を解く。
部屋着に着替え、ドレッサーの前で髪を解く。
ふとドレッサーの鏡越しに、ベッドが目に入って来た。
―― 決して小さなベッドではないけど…アレクセイ大きいから、やっぱり二人で使うには少し小さいかな…?ベッドの買い替えも考えておかなきゃ…。
そう思ったとたん、今朝までのアレクセイの腕の中で目覚めた数日がありありと蘇り、身体中がカッと熱くなった。
鏡の中のぼくは…真っ赤だ。
「やだもう…鎮まれ!心臓…」
カァっと火照った頬に両手を当て紅潮を収めながらぼくは鏡の自分に小さく呟いた。
~~~~~
「…お待たせ」
「もー、ママ遅~い」
「ゴメンゴメン」
「お湯、沸かし直しましょうね。ちょっと待って…」
母さんが立ち上がりケトルを火にかけ直した。
「さあ、どうぞ」
「いただきます」
母さんがお茶と共に拵えて用意してくれていたのは、昔母さんと何度か作ったプルーンとナッツのケーキだった。
「美味しい」
一口頬張ったリーザが歓声を上げる。
「よかった」
「このケーキ、昔母さんと作ったよね。フリデリーケのお見舞いにも持って行って…」
「そうね…そんなこともあったわね」
―― ん、美味しい…。
そんな事を話しながら、母娘三人でいつもの他愛のないお茶の時間が始まる。
「はい、リーザ。お土産」
「わぁ、ありがとう。ママ、開けていい?」
「どうぞ」
リーザへのお土産はアントワープで買い求めたダイヤのブローチだった。
ダイヤで花のリースを象った可憐なデザインで、モチーフの一部がトレンブランになっている。
「わぁ!可愛い」
「つけてあげる。…はい、よく似合うね」
娘の胸元、鎖骨の下あたりにブローチをつけてやる。
肩にかかる金の髪とダイヤのきらめきが互いを引き立て合い、とてもよく似合っている。
「母さんにも…」
「まぁ、私にも?…嬉しいわ」
母さんに選んだのは、先生が母さんへ贈る指輪に合うイヤリングだった。
なるべく色味が近い、ローズカットのティアドロップ型のイヤリングには母さんにとてもよく似合うと思うんだ。
「まぁ…綺麗。…どう?」
母さんが早速イヤリングをつけて見せてくれた。
やっぱり揺れる涙型のイヤリングは母さんによく似合う。
「おばあちゃま、綺麗!」
「これ、絶対に母さんに似合うと思ったんだ。…思った通り!」
「ウフフ…ありがとう。あなたは?何も買わなかったの?」
「ぼくも買ったよ。ダイヤのついた飾り櫛」
「へぇ~。ママのブロンドにはダイヤ似合いそうだね。真珠は伯母様やテレーゼみたいな黒髪の方が断然映えるけど」
「そうだね…。ウン、いつかあなたに譲ってあげるね。でもあなたに譲る頃には…すっかりデザインも古めかしくなっちゃうかな?」
「そんなこと…!ねぇママ。それよりも、その薬指にキラリと光っている綺麗なヤツ、さっきから気になってるんだけどな~?それ…」
あっ!!
…何と言うか…突然リーザに振られて、ぼくはあろうことか…すっかり動転して、咄嗟に…もう一方の手でその指輪を隠してしまったんだ。
ぼくの思いもよらないリアクションに、リーザと母さんが「え?」というように驚いた顔で固まる。
一瞬気まずい沈黙がテーブルを支配する。
「ぼ…ぼく、ちょっと疲れちゃった…みたい。ご、ごめんね…先、休むね」
つっかえつっかえそう言うと、ぼくは呆気にとられた母さんとリーザをその場に残し…あたふたとテーブルを立つと逃げるようにその場を後にしてしまった。
アレクセイにプロポーズされて、とても嬉しかった。
夫婦としてこれから過ごす人生を考えると…天にも昇る心地になる。
でも…
でもその一方で、…ぼくは心のほんの小さな片隅で…どこか困惑もしていた。
今までぼくの大事にしてきた家族との生活。
娘と母の存在。
ぼくがアレクセイと結婚して夫婦になるという事は、それはすなわち、リーザと母さんの生活も否応なく変化していくという事を意味する。
…特にリーザは、娘は別れたとはいえ、実の父親がれっきとして健在なのに加え、思春期に差し掛かる年頃だ。
そんなリーザが、慕っているとはいえ、赤の他人の男性であるアレクセイが家族として一つ屋根の下で暮らすことを、一体どう受け止めるのだろうか?
彼女の本心はどうなのだろう?
それに十分分別のつく齢とはいえ、いずれアレクセイとの間に子供を授かることがあったら、彼女はどう感じるだろう?
それらの事が咄嗟に頭をよぎり、ぼくは…ぼくは、思わずアレクセイから貰った大事な大事な指輪を、娘の目から隠してしまっていた。
離婚という形で娘から父親を奪っておいて…自分だけ幸せを得ようとしていることの後ろめたさと罪悪感。
それらの気持ちがないまぜになってぼくの心を支配し…結局ぼくは何をおいても一番に伝えるべき娘に、その事を伝え損ねてしまった。
それもあんなに不自然な、気まずい形で…。
伝え損ねた言葉が錘のように心にのしかかり、口を重くさせる。
果たして―
果たしてぼくは、ぼくの一存で彼のプロポーズを受けてよかったのだろうか?
母さんのように…。母さんとヴィルクリヒ先生のように、やはり結婚という形を取るべきではないのだろうか?
でも…
でも…。
薬指にはめられた指輪に視線を落す。
アレクセイの笑顔…
アレクセイの大きな手
よく通る低い声
あの時のプロポーズの言葉…
ずっとずっと、十数年間ひたすら求め続けて来た存在。
やっぱり…諦めきれない。
ぼくは
今になってこれからの、結婚後の生活の現実問題を突き付けられ、アレクセイへの想いと娘への想いの間で板挟みになっていた。