第九十話 Ⅶ
ヴィルクリヒのお使いも果たし、俺たちは今回の旅の最後の目的地、そう「(二人で)海を見る」ために、オステンドに移動した。
オステンドはベルギー王室も御用達の、同国きってのマリンリゾート地で、海岸線に沿ってホテルやレストラン、そしてカジノなんかが立ち並ぶ瀟洒な北の保養地だ。
さながら「北のカンヌ」と言った趣か。
また海峡を挟んでイギリスという地理から、この地はイギリスからのリゾート客も多く、ベルギーの公用語であるフラマン語、フランス語の他に英語も公用語となっている。
ヨーロッパの北の海とはいえ、短い夏を謳歌するかのようなリゾート地らしい開放感と明るさに溢れている。
「わぁ、なんか…海が近いというだけで…空気、というのかな?空の色なのかな?何もかもが全然違うね」
オステンドの駅に降り立った瞬間、ユリウスが「海」という彼女にとっての非日常で異界を感じ取る。まるでヒゲをピンと立てて外界にアンテナを張り巡らせる猫のようだ。
「そうだな。俺も…何だかワクワクしてくるよ」
ホテルに荷物を置いて、早速海へと繰り出した。
デッキに停泊したヨットや海岸にずらりと並ぶ色とりどりのパラソルやデッキチェア、そしてスイムウェアで海水浴に興じるリゾート客たち…。
ここはどこまでもぽっかりと明るく、開放感に満ちている。
慣れない砂に足を取られて歩きにくそうにしているユリウスの腕を支えるようにして二人で海岸線を歩く。
「あ…っと!ごめん、アレクセイ」
靴のヒールを砂に取られて少しよろけたユリウスをとっさに支える。
「あン…歩きにくいな。ちょっと肩貸して」
ユリウスが立ち止まると俺の肩につかまりながら、何と履いていた靴とそれから靴下を脱いで素足になった。
「わ!砂の感触がこそばゆい」
絹の靴下を丸めて無造作に靴に押し込むと、両手に靴をぶら下げて、足元の砂の感触に目を輝かせ、その場でくるりと回った。
「ね、アレクセイも、それ脱いじゃいなよ。砂、気持ちいいよ」
ユリウスに言われて俺も「そうだな」と早速靴を脱ぎにかかった。
同じように脱いだ靴下を丸めて靴の中に押し込み、パンツの裾を捲り上げる。
足の裏に感じる温かい砂の感触が心地いい。
「おぉ!!」
「ね?おぉ!ってなるよね」
茶目っ気たっぷりに瞳を輝かせながらユリウスが俺に笑いかけた。
靴を放り出し、波打ち際に走って行く。
「冷たい!」
海水に足を入れたユリウスの声がワントーン高くなる。
「どりゃ!俺も…」
俺も手に持っていた靴を放り出し、波打ち際のユリウスの元へ走り寄る。
「これが…海の蒼さだったんだ。これが、波のうねりだったんだ。…これが潮の香りだったんだ!…ぼくはあなたとこうして、二人で海を目の当たりにして、本当の意味で初めて海を感じたよ。…あなたと海へ来れて…良かった」
走り寄って来た俺に、潤んだ瞳を向けユリウスが手を差し出した。
その手をギュッと握る。
二人並んで足を海水に浸し、海と対峙する。
「あ~。なんか、海ってすごいね。ちょっと日常では感じることが出来ないような開放感だよ。…ねえ、なんか叫んでみようよ」
「おう。…いいぜ。じゃ、お前何か叫んでみろよ」
「えぇ~~~?ぼくからぁ?」
「言い出しっぺからどうぞ。ホレ!」
「じゃあ…」
俺にせっつかれユリウスが、意を決したようにスゥっと大きく息を吸うと、
「ヤッホーーーーーーーー!」
と大海原に向かって叫んだ。
え?
ヤッホー?
…てか、ここ海だぞ?木霊は返って来ないだろ?
「…なんで笑うの?」
手をつないだまま、ククク…と身体を折って肩をゆすりながら笑っている俺に、ユリウスはいたく不満げだ。
「いや…アハハ…だって。ヤッホーはないだろ?ヤッホーは…アハハ」
なおも笑っている俺に、ユリウスが膨れツラで言い返す。
「じゃあ!じゃあ、なんて言えばいいのさ!?そんなに笑うなら…アレクセイお手本見せてよ!」
やべ…
ハードル上げちまったな。
「ホラ!」
ユリウスがせっついて来る。
言われてみれば…海って、何を叫べばいいんだ?
「早く!」
再三せっつかれ、俺も大きく息を吸い込むと腹の底から叫んだ。
「海――――――――!」
俺のその叫びに、ユリウスは一瞬目を丸く見開きパチクリと瞬かせた後、さっきの俺以上に身体を二つに折り曲げて、身を捩って笑い出した。
「アハ…アハハハ!それ、まんまじゃん!あー可笑しい!アハハハ…」
屈託なく大笑いしているユリウスに俺も何だか可笑しくてたまらなくなってくる。一緒になって大笑いしながら「アハハ…お前も叫んでみろ!ホラ、海―――――――!」とせっついてみる。
ユリウスもノリノリで俺に続いて笑いながら叫ぶ。
「うみーーーーーーーー!」
「お!いいぞいいぞ。…うみーーーーーーー!!」
「キャハハ…うみーーーーーーーー!」
「…結婚して下さーーーーーーい!!」
「アハハ…え?!」
―― 言った!!
遂に言った!!!
海に向かって放たれたその一言に、ユリウスが手を繋いだまま俺の方に身体を向け、まんじりともせず俺を見つめる。
うっ…
まるでこいつの碧の瞳に射抜かれるような緊張と沈黙が俺を直撃する。
もう一度、固まっているユリウスの、もう一方の手も両手で包み込んで俺は、先ほどの言葉を再び、今度は彼女の目を見て言った。
「俺と結婚して下さい。ユリウス」
俺に両手を握られたまま石のようになっていたユリウスの口からようやく言葉がこぼれ出た。
小さいけれど、はっきりとした美しいソプラノで、ユリウスは答えた。
「はい」
と。
あぁ…
俺はユリウスを抱きしめ…それから俺たちは足を海に浸しながら、この旅で一番長いキスをしたんだ。
キスの後に、いつものように互いの鼻筋と鼻筋を擦り合わせて微笑み合う。
「良かった…。これがムダになんなくて」
「?」
その言葉に怪訝そうに小首を傾げたユリウスの右手を取り、ジャケットのポケットをまさぐると、俺は彼女の細い薬指に、アントワープで(こっそり)買い求めた例のアレを滑らせた。
ユリウスの白い指に指輪に散りばめられたダイヤがキラリと煌めく。
「ダイヤ…小さくてゴメンな。でも、ウン!よく似合ってる」
指にはめられたそのささやかな契りの指輪と俺の顔を交互に見つめたユリウスの碧の瞳からポロリと涙が零れ落ちた。
「…!」
言葉にならない声と共にユリウスの涙は次から次へと白い頬を伝ってゆく。
「ヘルマン・ヴィルクリヒがレナーテさんにプレゼントしたやつよりはだーいぶささやかだけど…でも、ホラ!その代わり…俺とお揃いなんだぜ!…自分で言うのもなんだけど、なかなか悪くないと思わないか?」
もう一度ゴソゴソとポケットをまさぐり、同じデザインのそれを自分の薬指にはめてユリウスの顔の前に掲げる。
ユリウスが無造作に涙を手で拭い、指輪のはめられた俺の手を見てコクリと頷いた。
「うん。とても…。あなた指が長いから、とても指輪が映えるね。…ねぇ、この指輪、ぼくたちおじいちゃんおばあちゃんになっても…ずっと、ずっとつけていようね」
笑顔でそう言うと、「本当にキレイ」と夏のオステンドの太陽に向かって指輪のはめられた手を翳す。
ユリウスの白い指にはめられた指輪のダイヤモンドが太陽の光を受けて海面にキラキラとした光を落していった。
