第九十話 Ⅴ
アムステルダムからユトレヒトは、列車で一時間程度の距離だ。
散々楽しんだアムステルダムを後にし、いよいよ今回のそもそもの目的、楽譜の買い付けと音楽祭の開催されるユトレヒトへ到着したのは夕刻近くだった。
夕刻とは言え日没までにはまだまだ時間があるので、街をブラブラ歩きついでに外で夕食を摂ることにした。
アムステルダムと同じくユトレヒトにも運河が張り巡らされており、独特の趣のある景観を作り出している。
運河沿いのオープンテラスでディナーにすることにした。
運河に面して出されたテーブルで夜風を受けながら、ジャガイモのフライと共に魚介のフリットや鰊のマリネ、ビールで蒸した貝などをつまむ。
すっきりとした白ワインが進む。
ユリウスは普段あまり食べつけない魚介の珍しさに、フォークも進んでいるようだ。
「魚介、大丈夫か?」
「うん。あまり食べつけないけど、美味しいね」
バイエルンではまずお目にかからない蒸したムール貝にも果敢に挑戦している。
「旨味が濃厚だね。こういう美味しさは…あまり経験したことがないけど、気に入ったよ」
少食なあいつにしては珍しく食指が働くようだった。
「バイエルンで魚介と言ったら…鱒ぐらいだもんなぁ」
「ふふ…そうだね」
「ご夫婦で旅行ですかな?」
隣のテーブルの初老の夫婦が話しかけて来た。
俺とユリウスが思わず顔を見合わせる。
夫婦って…やっぱそう見えるよなぁ。
俺が答える前にユリウスが華やいだ笑顔で「ええ。そうなんです。念願の」と答えた。
「そうですかそうですか。ユトレヒトはいい所でしょう?きっと忘れられない旅になる事請け合いですよ」
「はい」
テーブルの上の俺の手をギュッと握り、ユリウスが大きく相槌を打った。
「二人の旅と、それから我々の女神たちに」
老夫婦の旦那の方が茶目っ気たっぷりにグラスを掲げた。
俺たちもそれに倣ってグラスを掲げる。
「素晴らしいユトレヒトの夜と出会いに」
―― 乾杯!
四つのワイングラスが澄んだ音を立てた。
~~~~~
「お料理も美味しくて、人も優しくて…ユトレヒトも素敵な街だね。なんだか明日からの音楽祭も…いいことしか想像できないよ」
「だな…」
「アレクセイはいよいよ買い付けの開始だね。今日はよく寝て明日に備えなくちゃだね?」
「何だよ!俺をそんなにさっさと寝かせたいのかよ!…つれないなぁ、ユーリカさんは」
ふざけて傍らのユリウスの身体をムギュッと抱き寄せる。
「あン…。しょうがない子だね。きかん坊アリョーシャは。…じゃあ今日はぼくが横で子守歌を歌ってあげるよ」
おどけてユリウスが俺をいなすと、小さなハミングでよく知られた子守歌を口ずさみ始めた。
まるで夜鳴鶯のような美しいソプラノ…。
「ん…。それも悪くないな」
耳慣れたその子守歌を俺もハミングで口ずさむ。
ほろ酔いの俺たちは二人子守歌を口ずさみながら運河沿いを歩いた。
~~~~~
音楽祭は古楽が盛んなユトレヒトの夏を彩る行事で、同時に業者と音楽関係者向けの見本市も開催されていた。
(俺はヴァイオリンの商談で懇意になった先輩から業者パスを都合してもらっていた)
街中の至る所で開かれているコンサートやワークショップはどれも盛況で、現場の空気を感じるだけでもワクワクしてくる。
プログラムをユリウスとチェックし、目星をつけたいくつかのコンサートに行くほかは、落ち合う時間と場所を決めて別行動をとることにした。
俺は主に見本市で買い付けの商談を。
そしてユリウスはチェンバロのワークショップに参加を申し込んでいた。
~~~~~
買い付けの商談をするアレクセイと別れ、予めワークショップの開催者から郵送で届いていた書類に付された地図を頼りに会場へと向かう。
ぼくが参加したのはチェンバロのワークショップだ。
チェンバロはアーレンスマイヤ屋敷の音楽室にあるやつを昔から手すさびの見様見真似で弾いていたから…いつか機会があればきちんと手ほどきを受けてみたいとずっと思っていた。
良い機会なので思い切って一歩を踏み出してみたんだ。
参加者はプロの音楽家ばかりかな…オランダ語、分かるかな…とドキドキしながら会場入りしたぼくだったが、講師の方も参加者の人たちも皆とてもフレンドリーだった。
2時間のワークショップは本当にあっという間だった。
オランダ語は…正直ちょっと分からなかったけど、それでも模範演奏や指導を受けて良くなっていく皆の演奏を目の当たりにして、まさに目から耳からうろこが落ちるようだった。
修了後講師の先生と参加者の皆と別れを惜しみ、アレクセイとの待ち合わせ場所へと向かう。
と、その途中で思い立って見本市へ立ち寄ってみることにした。
(ぼくも実はアーレンスマイヤ商会名義で業者パスを出してもらっていたんだ)
音楽関係者の熱気に包まれた見本市の会場を見て回る。
楽譜やそれから古楽器なんかを扱う業者さんのブースの間を縫うようにして見て回っていたその時、まるで鳥の声を思わせる素朴な笛の音に思わず足が止まった。
リコーダーの工房のブースのようだ。
小さな子供の吹くような大きさのものから、チェロのようにエンドピンがついた大きなものまで…沢山の種類がある。
「いらっしゃいませ。マダム」
食い入るように演奏に耳を傾けていたぼくに、楽器を下した店員さんが挨拶してくれた。
「ドイツも古楽は盛んですね。どちらからですか?」
え?なんで?
…あぁ。ぼくの首から提げられたパスに記された社名と、姓から察したのか。
「バイエルンです。バイエルンのレーゲンスブルク」
「お一人で?」
「いえ…。夫の商用に同伴しているのです」
…夫って、言っちゃった!
「アーレンスマイヤ…商会?旦那様が社主ですか?」
「いえ。夫は別の楽器店で働いていて…買い付けの最中です。夫の仕事の邪魔になるから…私は別行動です」
――このパスは…実家に頼んで都合してもらいました。
「そうですか。リコーダーの演奏経験はおありですか?」
「いえ。以前演奏会で聴いた事はありますが…正直音程をコントロールするのが難しい楽器だな…という印象を持ちました」
ゼバスの定期演奏会で以前リコーダーのアンサンブルを聴いたことがあったけど…音の美しさとは裏腹に音程のコントロールとフレージングやアーティキュレーションの処理の甘さが目立っていたんだ。
「そうですか…。マダムはなかなかシビアな耳をお持ちですね。その奏者の皆さんにはこれからますます研鑽を積んでもらいたいものです。リコーダーは音を出す事や運指は極めて簡単な楽器です。スッと息を吹き込むだけで簡単に音が出る。だけど容易に音が鳴るだけに、音域全般に音程を保つのが非常に難しい。フレーズの処理にも細心の注意を要する。入り口は広いけれど極めるのはなかなかハードな楽器と言えます」
「そうかもしれませんね。…でも先ほどの演奏は…見事でした。安定した音程と技術の上に音楽としての表情があり、全く聞いていて不安を感じさせませんでした。あの…先ほどの演奏を聴いていて…私もリコーダーに挑戦してみたくなったのですが…私にも演奏ってできますかしら?」
「ええ。それは勿論。先程も申しました通り、リコーダーは入り口は広く誰でも気軽に楽しめる楽器ですから。音域によって楽器が数種類ありますが、どれから挑戦してみますか?」
「じゃあ…先ほどあなたが吹いていたやつ…」
「かしこまりました」
楽しみだな…。
ここの楽器は受注生産だという。何個か実際に手に取り吹かせてもらって、吹き口やトーンホールの配置が一番しっくり来たタイプを注文しているところに、商談を終えたアレクセイが声をかけて来た。
「ユリウス?」
「あ!アレクセイ!」
「おまえ…ここで何してんだ?」
アタッシュケースを提げたアレクセイがぼくの手元の受注申込書をひょいと覗き込む。
「ぼくね、リコーダーをオーダーしたの。ね、アレクセイも、リコーダーやらない?練習して二人で重奏しようよ」
「面白そうだな…。よし、やるか」
流石アレクセイ。ぼくの提案に即答で乗ってくれて、結局アレクセイも一本リコーダーを買い求めることになった。
「あ、申し遅れました。私、バイエルンのレーゲンスブルクで楽器店に勤めております」
アレクセイが懐のポケットから名刺入れを取り出したのを見て、ぼくもあたふたとバックから名刺を取り出し、名刺の交換をし合った。
完成の暁にはアレクセイの楽器店に納品してもらう事にして、半金を支払いぼくらはブースを離れた。
「アレクセイ、首尾はどうだった?」
「まっかせなさーい。秋の新学期には新しい譜面が店頭に沢山並ぶぜ。乞うご期待だ」
「それはゼバスの学生も楽しみだね。秋入荷だったら聖誕祭の学内コンサートにも間に合うかもね」
「まぁな。リコーダーも楽しみだな」
「うん、ぼくもチェンバロのワークショップ受けたし、これからバロックの作品にもどんどん挑戦していきたいね」
「マリアさんのギターもあるしな。アーレンスマイヤバロックアンサンブルの結成なるか?」
「いいねえ」
「いつかゼバスでも広がるといいな、リコーダー。学生の中にも古楽好きの連中結構いるしな」
「ねえねえ!練習して上達したら、楽器屋さんの店頭でデモンストレーション演奏やろうよ」
「お!いいなぁ。頑張ろうぜ」
まだリコーダーも手に入らないうちからこれから先の話に、あーでもないこーでもないと盛り上がりながら、俺たちは見本市の会場を後にして行った。