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​第九十話 Ⅳ

チェックアウトと列車の時間まで余裕があったので、少し足を伸ばしてアルティス(動物園)へ遊びに行くことにした。

 

「アレクセイ!このクマ、何という名前なんだろう?」

「さぁな」

 

その時、通りかかった飼育員が、俺たちの会話が耳に入ったからなのか、たまたまのタイミングなのか、「ヘンリーおはよう」とクマに声をかけて行った。

 

「ヘンリーだって」

「だな」

 

クマに向かって「ヘンリー」と呼びかけてみる。

 

名前に反応したクマが、俺たちを見上げた。

 

「こっち向いた!」

 

少女の頃のようなユリウスの笑顔が弾けた。

 

 

 

「ぼくね、リーザが生まれてからようやく初めて動物園へ行ったんだ。ミュンヘンのね。で、その時に初めてシマウマも見て。シマウマって…意外と大きいよね。体格もがっしりとしているし。ぼくはてっきりポニーぐらいの体型を想像していたから、思いがけない大きさに驚いたよ」

 

シマウマ舎の前でユリウスが娘と見たシマウマの印象を語った。

 

「ねぇ、アレクセイ。覚えてる?あなた最初で最後のお忍びデートの時に、ぼくの縞模様のドレスを見て「シマウマ」って言ったの」

 

「ん?…そんなこと言ったか?」

 

一応空とぼけてみる。

本当は鮮明に覚えていたけどな。

こいつの愛らしい縞模様のドレス姿と…その姿があまりにも眩しくて…照れ隠しでつい口走ったシマウマ発言…。

 

「えーー?!覚えてないのぉ?ぼくさ、あの時一生懸命デートに着ていくドレスを選んだのに、「シマウマ」なんて言うんだもん。…それであなた、シマウマを見たことがないと言ったぼくに、「いつかミュンヘンの動物園でシマウマ見に行こう」って言ってくれて…」

 

「あぁ、それなら覚えてる…かな」

 

ポリと鼻の頭を掻きながらつい漏れた俺の辻褄の合わない発言に、ユリウスがプッと吹き出した。

 

「なぁんだ!やっぱり覚えてるんじゃない」

 

笑いながら俺を肘で軽く小突く。

 

「悪い…」

 

「随分と…あの時から時間経っちゃったけど…、こうしてあの頃の約束を、一つずつ回収することが出来るなんて…なんか夢みたいだねぇ」

 

「夢じゃないさ…」

 

二人でシマウマを見ながら、あの時の切ない恋に想いを馳せ、俺は隣に立つユリウスの身体にそっと腕を伸ばして抱き寄せたんだ。

 

 

~~~~~

 

併設の水族館もなかなか見事なものだった。

 

水槽のガラスがギリシャ建築風(といえばいいのか?)の柱とアーチで囲われて、まるで美術館のようだ。

 

展示されている魚も多岐に亘っており、ガラス越しに泳ぐ色とりどりの南の海の魚たちがいたかと思えば、なぜか東洋の錦鯉が水槽を悠々と泳いでいたりする。

 

「ウチの庭の一角にある東洋庭園の池にもね、ニシキゴイがいるのだけど、この魚って美しい外見とはうらはらに、ものすごく貪欲なんだ。離婚して実家戻って、幼いリーザが初めてニシキゴイを目にしたときね、池の鯉に餌やろうとして餌を握りしめて池の縁に立った途端に、もう池中の鯉がリーザ目がけて一斉に押し寄せて来て。もう、本当に押し寄せる!って感じなの。鯉の上に鯉が折り重なるようにして、丸い目をカッと見開いて水面から出した口をパクパクさせて。その様子にリーザすっかり気圧されちゃって、「怖いよ!」ってわぁわぁ泣き出して。でも鯉は餌欲しさに必死だし、リーザはそれどころじゃないし。あんまり泣きすぎてその晩…熱出しちゃった。あれ以来あの子今でもニシキゴイ苦手みたいで…。東洋庭園にもあまり近づかないかな。父様はご自慢の東洋庭園に手を尽くして手に入れたニシキゴイを孫と一緒に鑑賞したいのに、あれから何度誘っても「イヤ!」ってつれないの。リーザ曰く「あれはまさに悪夢だった」ってね」

 

「ハハ…アハハハ!あの天真爛漫で怖いものなしみたいなリーザがねぇ。アハハ…」

 

「あの子今でこそあんな感じでしっかり者の優等生キャラだけど、小さな頃はちょっと臆病でおっとりとした子だったんだよ。こっち帰って来て初めてモーリッツのところのヴォルフィと会った時も、ヴォルフィに憎まれ口叩かれてベソかいてたしね」

 

「へぇ!今ならば十倍ぐらいにして返って来そうだけどな」

 

「だね。…もしかして、あの子があんなにしっかりした子になってしまったのは…ぼくのせい…なのかな」

 

「?」

 

「ぼくが―」

―― ぼくが前の夫と別れて、あの子と母さんと、レーゲンスブルクに帰って来て…。今までのお嬢様お嬢様とかしずかれていた生活が一変して。きっと幼心に「自分も今までの自分でいてはいけないんだ。もっとしっかりしなくては」って思わせてしまったのかも。経済的に引け目を感じさせることだけはないよう、あの子の父親の分まで頑張ったのだけど…そんな母親の姿を幼い頃から傍で見続けていたから、余計に だったのかな。親の離婚のせいで、あの子を無邪気な子供のままでいさせてあげられなかった。親の離婚と父親不在の家庭環境が…あの子に早く大人になることを強いてしまったのかも…。

 

「それは…そりゃ、そういう面も…全くないとはいえないかもしれないけど、そんなに負い目に思う事でもないと思うぞ」

 

「アレクセイ…」

 

「だって今のリーザは、とても魅力的な女の子じゃないか?」

――そうだろ?

 

おれの投げかけにユリウスが大きく頷く。

 

「しっかり者で聡明で、ちょっと勝気で、でもその何倍も優しくて…。言っとくけど、そういうところ、まるで昔のお前そっくりだぞ?人を想いやって、自分が変わろうと努力することは…悪いことじゃない。お前は今の、ありのままのリーザをそのまんま受けとめてやればいいんだよ。間違えても「自分のせいでごめんなさい」なんて思うな。第一その考え方はリーザに失礼だと俺は思うぞ。お前も、リーザも、それからレナーテさんも、お前たち母娘はこれでいいんだ」

 

ユリウスの顔を両手で包み碧の瞳に語りかける。

 

「そっか。…ごめんなさい じゃなくて、ありがとう なんだね」

 

「そうだそうだ。ん…、何だか腹減って来たな。せっかくのいい天気だし、あそこの屋台で何かつまもうか」

 

「いいね!コロッケにしない?実はずっと気になってたんだ。アムステルダムのコロッケ」

 

「お前もか?俺もだ。よし、決定!昼飯はコロッケ」

 

正午の鐘をききながら、屋台で買い求めたコロッケと俺はビール、そしてユリウスはシードルで屋外ランチにする。

 

「美味しいね」

 

コロッケを一口齧ったユリウスが俺に微笑む。

 

「美味いな。お前一つで足りるのか?」

 

「うん。元々お昼を摂る習慣ないし。十分だよ」

 

「そっか。俺はもう一つ…と」

 

一個目のコロッケの残り一口をビールで流し込み、もう一個にかじりつく。

 

「あ~。お天気はいいし、コロッケは美味しいし。アムステルダム、最高!」

 

大きく伸びをしながらユリウスが空に向かってそう言った。

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