第九十話 Ⅱ
アムステルダムに到着し、予約していたホテルに向かう。
ユリウスが一緒なので、厳選に厳選し、俺の財布事情で一番張り込んだホテルにしたつもりではあるが…。
中流階級向けのそのホテルは清潔ではあるが、アーレンスマイヤ家の人間が常宿とするような格の高いホテルではないから、やはり内装もサービスも、それなり であって…。
ポーターも見当たらないので、俺がユリウスのスーツケースを提げて部屋へと向かう。
清潔ではあるが内装も装飾らしい装飾はなく簡素な内装だ。
唯一の目を楽しませる要素といえば、窓の外の運河の風景と緑豊かな街並みを見渡せる借景といったところか…。
「…ゴメンな。せっかく初めての二人での旅なのに…。あんまいいホテルじゃなくて」
そう言った俺にユリウスはキョトンとした面持ちで目をパチクリと瞬かせた。
「え?どうして?素敵なホテルじゃない。清潔で、ホラ!オランダらしい運河も窓から見渡せる。何だかこの部屋は…ぼくの普段の住まいの延長のようで、とても落ち着いた気分になるよ」
そう言ってユリウスが部屋の窓を開け外の空気を入れると、振り返って続けた。
「だから、この部屋に君と二人いるとまるで…」
そこまで言ってユリウスは何かに気付いたように押し黙り、少し決まり悪そうに視線を逸らせた。
「まるで?」
ユリウスが呑み込んだ言葉の先を促した俺に、ちょっと慌てたように「ううん!いいの、何でもない。とにかくぼくはこの部屋をとても気に入ったんだ!さ、アレクセイ。支度しよ!今夜のマーラー、楽しみだなぁ」
ごまかすように話題を今夜のコンセルトヘボウに持っていくと、ユリウスはスーツケースから、持参したドレスを取り出してハンガーに吊るした。
「アレクセイもタキシード、掛けておいた方がいいよ」
「お、おう。そうだな」
俺もスーツケースからタキシードを取り出しハンガーに掛ける。
「よくタキシードなんて持ってたね」
「ああ、これはな、お下がりだ」
「お下がり?誰から?」
「お前の親父さん。最初な、ダーヴィトに借りようと思ってたんだけど、そしたら「私のお古でよければ使っていなさい。君もこれから何かと要りようになるだろうから」ってな。サイズもぴったりでさ、助かったよ」
「ふぅん。父様が…。そっか…。アレクセイ、ありがとうね」
「ん?なんでだ?礼を言うのは俺の方…」
「ううん。あのね…うち、マリア・バルバラ姉様の上に、実は嫡子の男の子がいたらしいのだけれど…だから…」
「着てみなさい」と譲ってくれたタキシードに袖を通したときに、「うむ。サイズも丁度良いな」と目を細めて俺を眺めていたアルフレートのおっさんの顔が脳裡に浮かぶ。
そうか…。あの眼差しの向こうに、おっさんはこいつの腹違いの兄ちゃん、成長した姿を見ることを叶わなかった息子を見ていたのかも…な。
「このタキシード、これからずっと大事に着させてもらうよ」
おっさんが俺を通してみていた人物の分まで な。
「うん…。ありがとう。優しいね、アレクセイは」
ユリウスが俺の手をギュッと握り締め、肩に頭をコツンと凭せ掛けた。
俺の掌の中のユリウスのほっそりとした手をギュッと握り返す。
俺とユリウス…
二人寄り添って手を繋ぎながら、掛けられたタキシードを眺めていた。