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第九十話 Ⅰ

「なぁ、一緒に…海を見に行かないか?」

 

アレクセイがちょっと照れたように、そう切り出した。

 

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「へぇ!オランダに楽譜の買い付けに行くんだ!すごいね。アレクセイ」

 

楽器屋のバックヤードでいつものように昼休みのひと時を過ごしながら、ぼくは思わず歓声を上げた。

 

「ああ、まぁな。ここのおっさん、好きにやっていいと言ってくれてるからさ、その言葉に便乗して…だな。ちょうどゼバスも夏季休暇に入ってあまり客も来ないし。あっちで古楽の音楽祭があるんだ。ユトレヒトは古楽が盛んだからな。だから思い切って足を伸ばしてみようかと。…俺もさ、お前見てて…なんて言うか、この楽器屋やって行くんだったら今のままじゃ全然ダメだと思ってな」

 

「へぇ~。この楽器屋も、新しい風が入ってどんどん変わっていくんだねぇ。ダーヴィトが言ってたよ。生徒が最近あの楽器屋、楽器のこととか音楽のこととか相談に乗ってくれるからいいって言ってるって」

 

「へぇ…。そりゃ嬉しいな」

 

アレクセイが照れ臭そうに鳶色の瞳を少し泳がせた。

 

 

「で、いつ発つの?」

 

「来月の頭だ。まぁ、一週間を予定している」

 

「へぇ。オランダは行ったことないけれど…ユトレヒトは運河が美しい街だと聞くよね。いいなぁ…」

 

言葉にはしなかったけど…、運河沿いの美しい街並みをアレクセイと二人寄り添って歩くのはさぞかし素敵だろう…そんなことを一瞬想像したぼくの心をまるで読んだように、アレクセイは言ったんだ!

 

「なぁ。その旅、お前も一緒に来ないか?」

 

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「え?」

 

まるでドンピシャのタイミングで切り出されたその提案に、ぼくは自分の耳を疑って、多分バカみたいな顔で訊き返してしまった。

 

そんなぼくに、

 

「あ、…ユトレヒトは、とても美しい街だというし、古楽の音楽祭も楽しそうだろう?それに…ユトレヒトは内陸の街だけど、ちょっとだけ足を伸ばして、隣国ベルギーの、海を見に行かないか?ホラ、お前と昔…」

―― いつか二人で海を見たいねって…あの時言っただろう?…随分と時間、経っちまったけど。

 

ちょっと照れ臭そうにアレクセイが鼻の下をポリと掻きながらそう言い添えた。

 

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1904年晩春

 

「アレクセイ!この水面を滑るように動いている足の長い虫は何?」

 

「そりゃアメンボだ」

 

「ねぇねぇ、アレクセイ!池の中に小さな黒い丸っちいのがいっぱいいるよ!これ何だろう?」

 

だいぶ水が温んできた池を覗き込みながら碧の瞳をキラッキラさせながらユリウスが俺に訊ねてくる。

 

「ん?それはおたまじゃくしだよ。カエルの子供。なんだお前、オタマジャクシ見たことないのか?」

 

あいつの傍らに立ち水面を覗き込んでそう言った俺にユリウスが答えた。

 

「うん。だって、子供の頃は衣服が濡れるといけないから水遊びは絶対にダメよと母さんからきつく止められていたから。こんな小さな生き物が…本当にカエルになるんだね?…信じられない」

 

なおも珍しそうに、ユリウスが池の浅瀬をチョロチョロと泳ぎ回るおたまじゃくしに釘付けになっている。

白い指先を池の水に浸して、俺を見上げてあいつは言った。

 

「ねぇ、アレクセイ。アレクセイは海を見たこと、ある?」

 

「まぁ…あるよ。クロンシュタットやペテルゴフの…ロシアの北の海だけどな」

 

「ふぅん。海ってどんなの?やっぱ広い?ここの池とどれぐらい違う?」

 

「バッカ!ここの池となんか比べ物にならなぇよ。広くて、浪の音が遠くに近くにザザーーっとして、うねる波の上を白い海鳥が悠々と飛んでいて、潮の香りがして…」

 

俺が語る海の話にユリウスは目を輝かせながら耳を傾けている。

 

ドイツは国土の大半が内陸だ。こいつが幼少時を過ごしたフランクフルトも、そしてレーゲンスブルクも、内陸で海からは遠い。

 

まだ見ぬ海の話に、食い入るように耳を傾けていたユリウスに、つい俺は叶うはずのない空手形を切ってしまった。

 

「いつか…一緒に、海を見に行こうぜ」

 

俺のその言葉に、ユリウスは「え?」というような顔で一瞬俺を見つめた。

その顔に、到底叶うはずのない望みを口にしてしまった俺が失言に気付いたのと、ユリウスが口をきいたのは同時だった。

 

「うん!…いつか海を見てみたい。君と一緒に!」

 

そう言ってあいつは、花がほころぶような笑顔を見せたんだ。

 

 

~~~~~~

 

「あの時の約束から…随分と時間も経っちまって…お前だってその間に…海なんてとうのとっくに見ているだろうし、そもそもそんな昔の約束、覚えちゃいないだろうけど。…俺が、そうしたいんだ。そのつまり…俺が、お前と、一緒に海を見たいんだ」

 

ユリウスは無言でまんじりともせずに俺の言葉にじっと耳を傾けていた。

 

固まったようなこいつの反応に俺も少し不安になる。

 

「…?おい、ユリウス?」

 

そんなこいつに呼びかけた瞬間、呪文が解けたようにユリウスが俺の首に両手を回して飛びついて来た。

 

「オワっ!!」

 

「アレクセイ!アレクセイ!!」

 

テーブル越しに不意に飛びつかれ、今度は俺の方がこいつに抱きつかれたまま固まったようになる。

 

「嬉しい!嬉しい!!…忘れる筈ないじゃん!あの時の約束、覚えていてくれて嬉しい!あなたと一緒に…海を見に行けるなんて!夢みたい!…行くよ、絶対行く!何としてでも予定に調整をつけて、君と一緒に海を見に行く!」

 

そう言ったあいつの声は感極まって涙で少し掠れていた。

 

抱きついてきたあいつの身体をギュッと抱きしめてから腕を緩めると、あいつの白い顔を両手で包み込み、まるで海の碧さのような二つの瞳を覗き込んで言った。

 

「よーし!決まりだ。俺たちの…十数年越しの空手形、回収しに行こうぜ」

 

かくして俺たちの十数年ぶりの宿願を叶える旅はスタートした。

 

~~~~~

 

レーゲンスブルク中央駅でユリウスと待ち合わせる。

 

「アレクセイ!」

 

生成り色のレース生地のアンサンブルドレスにレースの手袋、ストロー素材の帽子と、夏の装いにオフホワイトのスーツケースを携えたユリウスが俺に向かって両手を振ってみせた。

 

「おう!」

 

17年前は人目を忍んで列車の中で待ち合わせた俺たちだったが、今は堂々と駅で待ち合わせだ。

 

少女のように俺に向かって両手を振っているユリウスの微笑ましい姿に、駅員も笑顔で「旅行ですか?フラウ・アーレンスマイヤ。良い旅を」と笑顔で送り出してくれた。

 

「ええ、ありがとう。行ってまいります」

 

晴れやかな笑顔でユリウスが答えた。

 

ユリウスのスーツケースを空いている方の手に持ち、列車に乗り込みコンパートメントに入る。

 

 

ミュンヘン、そしてフランクフルトを経由してまずはケルンへ向かう。そこで列車を乗り換えて国境を越え、初日はアムステルダム入りし、コンセルトヘボウでマーラーを聴く予定だ。

 

ケルンで列車を乗り換え、車窓越しに壮大な大聖堂とライン川を眺める。

 

「大きいね」

「そうだな」

「アレクセイは…中に入ったこと、ある?」

「ないな。お前は?」

「ぼくもない」

 

「今度一緒に…行くか?」

「うん。絶対にね」

 

何気なく交わす約束が…あの頃のような空手形で終わらないことが、嬉しい。

 

こいつと交わす未来の約束。

 

幸せを噛みしめる。

 

~~~~~

 

「お前、少し目が赤いな」

 

「実は昨日…楽しみ過ぎてなかなか寝付けなくて…」

 

ちょっと恥ずかしそうにユリウスが白状した。

 

「おいおい、子供じゃないんだから。…まさか、お前また熱出したり…してないだろうな?」

 

前科アリだからな。

ユリウスの白い額に手を当て熱を確かめる。

 

「もう!熱なんて出しません!…いつのこと言ってるの?…イジワル」

 

プゥと膨れてユリウスが額に当てられた俺の手を払いのけた。

 

「ん。確かに。熱はないな。ゴメンゴメン。機嫌直せ、な?ハニー」

 

その白い額に口づける。

 

「誰かが入ってきたら起こすから、少し寝とけよ。ホレ」

 

何たって二人のアムステルダムの夜は…長いからな。ムフフ。

 

ユリウスの横へ移動し、頭を俺の肩に凭せ掛けてやる。

 

「ありがと…。ウン、不思議だな。あんなに興奮してたのに…こうしてアレクセイの肩に頭預けてると…何だか落ち着いて…」

 

スゥ…

 

ユリウスの小さな寝息が聞こえてくる。

金の頭の微かな重みと、甘く、でも爽やかな彼女の纏う香りが何とも心地いい。

 

眠る彼女の白い額と、頬に影を落とす長い睫毛を眺めながら、俺は傍らの恋人の肩を抱きしめた。

©2018sukeki4

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