第八十九話
あれから何度か元恩師のヴィルルクリヒと話し合いを重ね、イザークはもう一度エレオノーレ基金から奨学金を受けてミュンヘンへ発つことになった。
ミュンヘンの大学の医学部で指を治しながら、自身も指の故障と向き合い理学療法を学び、今後の演奏の現場に役立てていきたいという。
第一次世界大戦が生み出した多くの負傷者という負の遺産は、理学療法という新たな分野の目覚ましい発展を促した。
ミュンヘンへ赴きその分野の第一人者に診察してもらったところ、元通りとはいかなくとも近年急発展した理学療法と同時に理論に基づいたリハビリテーションを根気よく続けて行けば、ある程度までは必ず回復するだろうという先行き明るい診断も貰えたし、イザーク自身も演奏と身体というまだほとんど手つかずの未知の領域を前に、俄然意欲と生き甲斐を得たようである。
解剖学や生理学などイザークが今まで触れたこともなかった分野の学問も体系的に学んでいく必要があるために、奴は大学の寮に入ることとなった。
そこで学びながら自らが治験者となり回復へむけて試行錯誤をしていくようだ。
「ピアノの初学者のための新しい身体の使い方のメソッドを確立して、いつかゼバスに―、後進の指導の現場に戻りたい。そして同時に自分のように無茶な酷使で指を壊した演奏家たちの光明となりたい」と志を語り、ヘルマン・ヴィルクリヒを男泣きさせていた。
家族―、息子のユーベルはレーゲンスブルクへ残し、単身ミュンヘンで研鑽を積むこととなり、ユーベルはその間フリデリーケが面倒を見ることになった。
今までも子育ては妹頼みだったイザークだが、今回フリデリーケがユーベルを自宅に引き取り養育する(イザークは今回のミュンヘン行に際して自宅アパートを引き払った)、しかもそれが何年に亘るか分からないとあり、この際ユーベルを正式にフリデリーケと養子縁組したらどうかという意見も周囲の人間から出たらしい。現在のフリデリーケの社会的地位とユリウスやカタリーナ、そしてキッペンベルク商会の奥方(驚いたことに、赤ん坊の頃のユーベルに乳を授け乳母を務めていたのは、あのモーリッツの奥方だという!)らと親しくしている彼女の人脈などからも、その方がユーベルがこの街で生きていきやすいだろうから…と。しかし、フリデリーケが、周囲のそんな声に対して「兄さんとこの子は離れていても親子なのですから」と、今の叔母と甥の関係のまま責任もって養育することを請け合って、周りを納得させたらしい。
毅然としたフリデリーケの決意に、ユリウスらレーゲンスブルク女子の面々は、これまで以上にフリデリーケとユーベルの力になろうと決意を固め、そして俺も及ばずながら奴の先輩として、イザークが心おきなく治療と新たな挑戦に邁進できるよう、そしていつかイザークが志を成し遂げここへ帰って来るその時まで、息子の成長を見守っていこうと、心に決めたのだった。
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着々と話は進み、支度も整って、イザークは復活祭休暇明けからミュンヘンでの治療を始めることが決まった。
イザークの出発を、フリデリーケとユーベル、そしてユリウスと俺、ダーヴィトとカタリーナさん、ヴィルクリヒ、そしてモーリッツ夫妻で見送った。
まだ3歳にもならない頑是ない息子に、列車が出る時刻までイザークは自分がいなくなってからのこれからのことを言い聞かせていた。
毎日聖書を読みなさい
周りの人、全ての事に感謝の気持ちを持って生きなさい
まだ幼すぎるほどに幼いユーベルに、父親の言葉の真意は今一つピンと来ていなかったかもしれない。
だけど、いつにない父親の切ないほどの真剣なまなざしに、この幼い息子も真剣に耳を傾け「はい。分かりました」と健気に答え、その様子がイザークをはじめ見送りに来た皆の涙を誘っていた。
汽笛の音が出発を告げる。
最後にイザークはユーベルを固く抱きしめると、意を決したように俺たちに背を向けタラップを早足で上がり、車内へと入って行った。
次第に遠ざかり小さくなっていく汽車を、手を繋いでいつまでもじっと見つめているフリデリーケとユーベルの後ろ姿に―、かつて同じようにペテルブルクへ帰っていく父親を見送っていた自分と母親の姿が重なった。
列車を見送ったあとの母親を見上げると、いつも涙ぐんでいて、父親が帰ってしまう淋しさよりも俺は―、母親のそんな顔を見るのがなによりも悲しく切なかったんだっけ…。
そんな事を思い出しながらフリデリーケに目をやる。
傍らの彼女は強い眼差しで、兄が旅立って行った後の線路をじっと見つめていた。
凛と立ち、背筋を伸ばし、口元をキリリと結び、そこに屹と存在していた。
フリデリーケの凛々しい横顔を見ながら、「大丈夫だ。この家族は、彼女がいればきっと新しい形でまた上手く纏まっていく」と確信した。
時代は変わる。
人のありようもそれに合わせて変わっていく。
それは時に一抹の寂しさや心の痛みを伴うけれども、フリデリーケのこんな表情を見ていると、変わる時代も悪くない…と思った。
父親を乗せた汽車が走り去ったあとの線路をじっと見つめていたユーベルにフリデリーケが声をかける。
「淋しい?ユーベル」
声をかけられたユーベルが線路から視線を外しフリデリーケを見上げて答えた。
「ううん。…ぼくにはおばちゃんがいるから…」
―― ママはぼくを産んですぐ天に召されてしまったし…お父さんもミュンヘンへ行ってしまった…。でもぼくには…ぼくにはおばちゃんがいるから。ね、おばちゃんは…ぼくを置いてきぼりにしないよね?ずっと…ぼくと一緒にいてくれるよね?
「ユーベル…」
その言葉に、気丈に兄を送り出したフリデリーケの青い瞳に涙がみるみる込み上がって来た。
「うん。うん…。おばちゃんはずっとユーベルのそばにいるよ。…だから、安心して。おばちゃんとユーベルは…ずっと一緒だよ」
こみ上げる涙をこらえながらフリデリーケが、傍らの稚い甥の小さな身体をギュッと抱きしめた。
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「さ、行こうか。ユーベル」
「うん。おばちゃん」
手を繋いだ二人がホームに背を向けた。
「ソラ!」
俺はユーベルを抱き上げると、ひょいと小さな身体を肩に背負った。
「わぁ!」
俺に肩車をされたユーベルが歓声をあげる。
「坊主、お父さんの新しい挑戦、応援してやろうな」
肩の上の温かな重みに向かって、俺は声をかけた。