第八十六話 エピローグ
「じゃあ、ぼくはレーゲンスブルクで公現祭を祝うから、先に帰るけど、あなたはお店が始まるまでお祖母様に孝行してさしあげてね。一足先にレーゲンスブルクで待ってるよ。…お祖母様、この数日間本当にお世話になりました。また来ますね」
「ええ、ええ。またいらっしゃい。楽しみに待っていますよ」
別れを惜しみ、俺と口づけを交わし、お祖母様の頬に別れのキスをすると、一足先にユリウスはグラースを後にし、帰国の途についた。
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「アレクセイ、ちょっとよろしいですか?」
やべ…。
この妙に改まった口調から察すると…何かお小言モードだな。
だけど俺何か小言貰うようなこと、したっけか???
「はい。なんでしょうか?」
俺は姿勢を正し改まってお祖母様と向き合い、拝聴する姿勢をとる。
―― ゴホン…
もったいぶって咳払いなんかして、お祖母様が厳かに口を開いた。
「お前、ユリウスとのこと、どう考えているのかえ?」
(やっぱり)それか!!
「お前にとっては…ちゃんと手続きを踏んだ上での形式的な結婚の意味や意義など…きっとどうでもよいことなのでしょう。…マルキストというものは、そういうものなのでしょう?ですがね、ユリウスにとっては、女にとっては必ずしもそう言う事ではないのですよ。わたくしはね、何も…じゃああちらへ戻ってすぐに彼女にプロポーズをなさいと言っている訳ではありませんよ。だけど…きちんと彼女との将来のことを考えて、それを何となくでも構わないから彼女に意思表示なさい!第一あちらのご家族だって心配なさるでしょう?分かってますね?それに…」
そこまで言うとお祖母様は少し決まり悪そうにもう一度ゴホンと咳ばらいをした。
「それに?」
「遠からず授かるであろう…わたくしの初ひ孫が…中途半端な…事実婚の両親から生まれるのは、不憫です。止むにやまれぬ事情があるのならば兎も角、そういうわけでもないのならば、子供を授かる前に、キチンとなさい!」
―― ブッ!!
…思わず紅茶を吹いちゃったぜ。
子供って…。
昨日のJr.といい…ロシア人っつーのは…なぜ皆こうせっかちなんだ!
第一子供も何も…俺たちは数日前にやっとその…なんだ?肉体的にも?晴れて男女の関係になったばっかだぜ?
(出会ってからその間なんと18年だ!長かった~~~~)
「何ニヤついてるのですか!いやらしい!アデールさんもね、あなた方のことを気遣ってくれていましたよ。お前の…亡命者であるお前の身分が結婚の妨げになっているのであれば、わたくしが骨を折りましょうか?ってね」
何だよ…。夫婦で同じ事言ってるし…。
一見傲慢で権高に見えるけど、根っこはお節介なぐらい親切で世話焼きで…お人好しで。
似ていないようで似た者同士なんだな…。あそこの夫婦は。
「同じ事を…侯爵も申し出てくれました。ハハ…ありがたいことですね。だけど、その心配ならば無用です。あいつの父親が、アルフレート氏が色々な筋に働きかけて、きちんとしてくれました」
「そうですか…。ならばよいです。二度は言いませんから…あとはあなたが、あなたたちがよく考えて、ちゃんとなさいね」
「はい。勿論です。俺にとって彼女は言うまでもなく大切な女性です。彼女の幸せこそが、俺の全てです。だから…彼女を悲しませたりそのことで気を揉ませることは…何よりも俺の本意ではありません。…すぐにとはまいりませんが、必ずきちんと男としての覚悟と責任を示す事をお祖母様に誓います。なので、色々と歯がゆいこともあるかとは思いますが、もう少し俺たちの事を見守っていて下さいますか?」
「分かりました。ではあなたを、あなたとユリウスを信じて、わたくしは見守ってまいりましょう。もうこの事に関しては口出しは致しません」
俺の目を見つめじっとその言葉に耳を傾けて下さっていたお祖母様が、大きく頷いた。
「ありがとうございます」
「でもね…もしその、経済的な問題が…二人の結婚の障壁となっているのならば…遠慮なく仰いね。いくぶんかの…」
「お祖母様」
お祖母様の言わんとしているその先を制する。
「それは、ダメです。いけません。本来ならば俺の方がお祖母様に仕送りしなければならない立場なのに…それもままならない。お気持ちだけは…有難く受け取ります。本当にありがとう」
「だって…。わたくしの所持している…ミハイロフ家の資産は…あなたが受け継ぐべきものでもあるのですよ?ならば必要な今受け取っても…」
「いいえ。…こんなご時世に…、資産は持っていた方がいいです。俺は大丈夫。…そりゃ、胸張って若いとはもう言えない齢になりましたが、かと言って老いているわけでもない。事実身体も動くし、幸いドイツ語も不自由ない。これから己の腕一つ才覚一つで身を立てて行きますよ。…それに、ユリウスだって…俺がすぐにでも一緒になって生活の面倒をみてやらなくてはならないような無力な女ではない。優秀な実業家で自分の足できちんと立っている女です。家族も健在だ。だから…」
「そうですか…。分かりました。ならば、このことに関しても、わたくしはもうこれ以上は言いますまい。ただ…お金というものは急に入用な時もあるもの…。そういう時には恥じることなくすぐわたくしを、実家を頼るのですよ。オークネフにもよくよく話を通しておきますので」
「ありがとうございます。あの…お祖母様」
「なんですか?」
「俺は…昔とうに信仰を捨てた身ではありましたが、最近神…なのかどうかは分からないのですが、人知ではどうにもならない巡り合わせや、運命に想いを馳せ、感謝することが多くなりました。俺という人間が今ここでこうしてお祖母様と心安らかな新年を迎えながら、輝かしい未来の展望について嬉しいお小言を貰っている。それは…大なり小なり、俺をめぐる沢山の人間の後押しだったり、導きだったり…そういうものが積もり積もって成り立っているのだなぁ…と」
感慨深げにそう言った俺に、お祖母様は呆れたように小さく笑った。
「それを…まさしく神の導き というのです。…そんなことも分からなかったなんて、お前は本当に呆れた子だよ」
そう言ってお祖母様は手を伸ばすと、まるで小さな子供にするように、皺だらけの手で、俺の頬を優しく撫でた。