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​第八十七話

「クネーデル、上がったぞ~」

 

「はいよ~」

 

「おーい、クラウス~。ここビールお代わり3つな」

 

「はいヨ~」

 

 

午後八時過ぎ―

 

俺は酒場の厨房とホールをひっきりなしに往復していた。

 

(俺の説得の甲斐あって)イザークが新しい一歩を踏み出すことになった。

 

春から大学付属の病院で最新の治療をしながら、理学療法を学ぶことになったイザークは、その準備に専念するためにレーゲンスブルクに戻って来て以来世話になっていた酒場を辞めることになった。

 

そのイザークの抜けた穴の補充人員として急きょ入ったのが、この俺様というわけだ。

 

 

あの駅でのド派手な再会劇のおかげもあってか、俺とユリウスの関係はわりにすんなりと街の人たち公認となっていた。

ユリウスが普段から街のために多大な貢献をしており、また離婚して故郷へ戻ってきて以来ずっと身持ち固く娘を立派に養育していた実績の賜物というべきか、いきなり現れたどこの馬の骨とも知れない男との結婚を前提とした交際もおおむね好意的に受け入れられているようである。

 

それは勿論あいつの実家の、あの父親を頂点とするアーレンスマイヤ家の人たちや、ユリウスの実母のレナーテさん、それから事実上彼女と夫婦同然のヘルマン・ヴィルクリヒも同様で、つまり俺とユリウスは自動的に結婚秒読みも同然だった。

 

勿論俺はそのつもりでいるし、あいつだってそうだと思う。

 

俺たちは遠からず夫婦となる。

その覚悟は固まっている。

不滅の恋人と結婚の誓いを立て、かけがえのないよき伴侶として共に手を取り合って生涯を過ごす。

 

あとは…その目的に向かって必要なのは(切実に!)先立つもの…なわけで。

 

そういう訳で俺はこれ幸いとイザークの抜けた穴に名乗りを上げ、ダブルワークに日々勤しんでいたのだった。

 

~~~~~

 

故国にいた頃から元より大した財産は持っていなかったうえに、身一つで国を逃れ亡命してからタクシーの運転手やナイトクラブのボーイ、ダンサーで細々と溜めていた金は、パリを出た時に必要最低限の汽車賃と宿代以外はスヴェーチャの元に全て置いて来た。

 

幸いすぐに働き口と住まいは確保できたが、ここへ辿り着いた時俺はほぼほぼ一文無しだった。

 

自分一人の生活ならばまったく頓着ないが、ずっと想い焦がれて来た不滅の恋人へのプロポーズと結婚という一大事を控えているとなると、話は別だ!

 

クリスマス休暇に再会したお祖母様からは結婚資金の援助の有難い提案もあったが…さすがにそこを甘えるのは…俺の男としての沽券にかかわる。

 

古臭いと言われようが、石頭と言われようが…自分の結婚ぐらい自分の力でどうにかしたい。

 

俺も、それからユリウスだって何も派手な結婚式や豪華なハネムーンといった贅沢ははなから望んじゃいないが…だが。

 

せめて、せめてプロポーズした時に指輪のひとつぐらい贈りたいじゃないか!

 

ユリウスが望んでいるのではなく、俺が、俺自身が結婚を誓った最愛の女性にそうしたいんだ。

 

そんなこんなで、名付けて「結婚資金のためのクラウスの所得倍増計画」が密かにスタートしたわけである。

 

所得倍増計画の大きな柱は二つ!

 

まず一つ目は本業の増益だ。

はっきり言ってこの楽器屋はかなり放漫経営である。

店主のおっさん自身が音楽に明るくないのもあり、まったくやる気がないのだ。

だから経営も潰れない、自分が食べて行けるだけのギリギリの利益が上がればいい ぐらいのノリなのだ。

幸いこの街に楽器店はここ一つしかない上に、ゼバスの古くからの御用達となっているから、まぁ…ゼバスがつぶれるか競合店が現れでもしない限り何となく安泰なのである。

俺にバトンを渡した(つもりでいる)おっさんは、「潰さなければお前さんの好きにしていいよ」と言ってくれているので、その言葉に甘えて俺はまずこの楽器店の経営の抜本的な見直しに取り掛かることにした。

 

積極的に店頭に出て上得意様であるゼバスの奴らと話をしてマーケティングリサーチをする。

今まであまり受けたがらなかった楽器のメンテナンスや購入、下取りなんかの相談にも積極的に乗ってやる。

 

と同時に、卒業生にも営業をかける。

特にヴァイオリン科の人間は、今は音楽から離れてしまっているが学生時代に愛用していた良い楽器を未だに所有している人間が割といたりする。

 

彼らに営業をかけて、委託品として預かり、メンテナンスし、楽器の欲しい学生との仲介をする。

 

そして双方からの利鞘を稼ぐ。

 

これは案外ハマった。

 

イザークをパートナーとしてストラディヴァリを意気揚々と鳴らしていたかつてのクソ生意気なヴァイオリン少年を、今でも覚えてくれていた人が割にいて、概ね好意的に話に耳を傾けてくれたし(天才は何も聖イザークだけじゃないんだぜ!)、そして―、悲しいことだが、営業をかけた卒業生の中には、先の大戦で命を散らした人間が少なからずいた。

彼らの遺族が、「息子の愛した楽器が、また次の持ち主に大事にして貰えるのならば」と涙ながらに楽器を託してくれたのだった。

 

遺族の涙で稼いだ利鞘で結婚資金を貯めるのは…正直とても気が引けた。

そんな俺に、楽器屋のおっさんは言った。

「お前さんが楽器を仲介することで、じゃあ誰かが不幸になるのか?遺族の方々も次の持ち手に愛する家族の遺愛の品が大事にされて救われる、次の所有者も良い楽器を得て前の持ち主に感謝する。そしてお前さんも結婚資金が貯まる。それに…きっと前の持ち主だって、あの世から楽器の行く末を見届け安堵しているんじゃないのか?皆少しずつ幸せになるんなら、何ら問題ないさ」

 

ハハ…。さすが年の功と言うか…なんだか達観してるというか…。

でもその言葉で少し罪悪感が薄れたというか…気持ちが軽くなった…というか。とにかくそこは様々な縁に感謝し、故人に手を合わせ冥福を祈りながら、続けていくことにした。

(余談だが、この委託営業は思いがけないおまけもついて来た。卒業生の元に足しげく通ううちに、今は名士として社会の第一線で活躍している諸先輩方に人脈が出来たのだった)

 

そしてもう一つが、ダブルワーク、つまり副業だ。

 

これも幸いイザークの抜けた穴に自ら売り込んで、厨房の雑用兼ホール係として雇ってもらえることになった。

 

週に四日ほど、本職の楽器屋が閉店した後店に入り、酒場の厨房とホールをコマネズミのように走り回る。

 

「お待ち!ビール7つ」

 

ドン!

 

馴染みの酔客たちのテーブルにビールのお代わりを持っていく。

 

「待ってました!ホレ」

 

酔客の一人が俺の手にジョッキを握らせた。

 

ん?

 

ひーふーみー…テーブルの客は6人だ。

 

「これは奢りだ!乾杯しようぜ、クラウス」

 

「お、おう。…ありがとよ」

 

乾杯~~

 

ガチン!

 

7つのジョッキが勢いよくぶつかる音がホールに響いた。

 

 

「で、結婚資金は順調に貯まってるか?クラウス」

 

「…まぁな。ボチボチだな」

 

「あの威勢のいいべっぴんさんも、ついに身を固めるのかぁ。幸せにしてやれよ」

 

「おう」

 

「プロポーズ受けてもらえたら、彼女連れて酒場来いよ。祝福してやるから」

 

「ん…。ダンケ」

 

「あの…さ」

 

テーブルの常連の一人が少し言いづらそうに切り出す。

 

「イザークの奴も、実はあのべっぴんさんのこと…」

 

「ん?あぁ。まあな」

 

イザークだけじゃない。何と言ってもあの美貌だ。事実ユリウスが出戻って来た時、今度こそは!と「お嬢さん共々是非に」と再稼の申し出が結構な数来たという。密かに遠くから憧れの眼差しで見ていたヤローどもは案外この街に沢山いたのかもしれない。

 

「なんかさ、ロベルタがまだここのホールで働いていた頃も、イザークに熱を上げてしきりにアプローチかけるロベルタに対して、イザーク終始つれない態度でさ。いや。冷たいわけじゃないのよ。紳士的な態度は崩さないのよ。だけどさ、それが何だか余計につれなくってさ。俺たちの目から見たら…二人齢の頃もぴったりで中々お似合いに見えたから…なーんかもっと心開いてやればいいのになぁと思ってたんだ」

 

「逆に、あんなつれない態度見続けてたから…二人が結婚したと聞いたときには、驚いたよなぁ」

 

「ああ」

 

「へぇ…」

ロベルタっていうのか。あいつの亡くなった女房。

 

「あいつの奥さん、どんな女性だったんだ?」

 

「何だよ。クラウスイザークの先輩なんだろ?知らないのか?」

 

「まな…。俺中退してっからさ」

 

「そか…。ロベルタはさ、俺らと同じ、貧しい下町の生まれで、おふくろさん亡くしてから酒浸りになったろくでなしの父親とまだ小さかった弟の…家族を支えて齢を偽ってここの酒場のホールで働いていたんだ。働き始めた頃は…無理して大人ぶっていたけど、あれ15になってなかったよなぁ」

 

「ああ」

 

「だからさ、皆どこか…その健気な少女に自分の娘や妹を重ねていたんだと思う。可愛がられていたよ。学はないし、容貌も…まぁ十人並みってとこだけど、チャキチャキしていて情にもろくて…この酒場のマスコット的な存在だったな」

 

「うんうん」

 

「とある年の秋から、イザークが新しいピアノ弾きとしてこの酒場で働き始めたんだ。街の名門音楽学校ゼバスの現役学生で、俺たちとは明らかに人間の種類が違うイザークに、あいつたちまちコロリと参っちまって。しかも…自分の住む世界と違うゼバスの生徒のイザークが手の届かない雲の上の存在かと言えば、奨学金を得て学んでいて、自分と同じ出自だと知ると、尚更だ。かなり強引にアプローチかけてたよなぁ」

 

「んだ」

 

「へぇ…」

 

「だけど肝心なイザークがさ、全然なびかないワケよ。というよりも。気付いていたのかもどうか怪しいけどな。ロベルタの気持ちに」

 

「気付いてなかったんじゃねぇのかな。奴さんもピアノと自身の生活と、病が重くなった妹さんのことで頭いっぱいだったしな」

 

「でもよかったよ。あのタイミングで新しい奨学金が下りて。あれは本当に天の救いだったよな」

 

「うん」

 

「それって…エレオノーレ基金?」

 

「そ。あのあんたのべっぴんさんの一家が運営管理している例のアレ。…イザークが第一号だったんだ。やっぱ見てる人はちゃんと見てくれてるんだろうなぁ。キッペンベルク商会の奥様に潰される寸前でイザークはその基金に救われて、それから重病人だった妹もアーレンスマイヤ家の庇護を受けて病を治すことが出来て、奴さんはウィーンへ本格的な修業へ旅立ってたわけ」

 

「一方…ロベルタも…同じころに父親が亡くなって天涯孤独になって。…しかもイザークの妹を娼館を売るようにロクでもない入れ知恵をしたのは、実はあいつの親父さんだったらしいんだよ。…それ知ってロベルタイザークに会わせる顔がないって。イザークが酒場を辞めるのと前後して、ひっそりと逃げるようにここを辞めて、街からも出て行ってしまったんだよ」

 

「ロベルタ言ってたよ。あいつの力になってやりたいのに…それどころか奴の大事な妹さんに親父が酷いことをしたようで、合わす顔がないって」

 

「ロベルタだってあの親父さんには随分ひどいことされてたのにな」

 

うっかり口を滑らせた一人に、「おい!」とその場にいた奴が釘を刺して彼女の名誉をこれ以上傷つけないよう制する。

 

「あ…すまん。これは聞かなかったことにしてくれ」

 

「…ああ。分かった。だけど…ここで聞いたことは絶対に外に漏らさないと…誓うから、話してくれないかな」

 

俺の言葉にテーブルの連中がどうしようかと逡巡し、しばし互いに顔を見合わせる。皆が目で頷きあい、先ほど口を滑らせた奴が話を続けた。

 

「ロベルタの親父さん、ロベルタの弟を人買いに売り飛ばして、それだけじゃ飽き足らずに…酒を飲むはした金欲しさに、娘の…ロベルタの操を馴染みの飲み仲間に売ったんだ。あのニヤケ顔の奴に、娘の純潔をはした金で売るなんて、悪魔の所業だぜ」

 

「あのニヤケ野郎がロベルタの純潔を踏みにじった話を得意げに吹聴していた時は…身体中の血が怒りで沸騰したぜ」

 

「お前さん、その怒りに任せて奴をボコボコにしてたじゃないか」

 

「まぁな。俺らの大事な妹で愛娘を汚した奴には当然の報いだ。いっそのこと厨房の肉切り包丁で奴のイチモツちょん切ってやるべきだったぜ」

 

「それはあたしがやろうと思って、厨房から持ち出したところをあの人に止められたんだよ。「それはやめておけ!」って。クラウス、いつまで油売ってんだい!いい加減仕事戻っとくれ。でないと時給差っ引くよ!」

 

気付いたらテーブルの横に頭からツノを出しかけたおかみさんが立っていた。

 

「あんときゃ、おかみさんもドサクサに紛れてあの男とっちめてたもんなぁ」

 

「当たり前だよ!ホラ、クラウス。戻る時についでに空いたジョッキも下げる!」

 

「はいヨ。すんませんでした!」

 

テーブルの空いたジョッキをガシャガシャと集めて俺は厨房へと下がって行った。

 

そう…だったのか。

 

イザークの亡くなった妻が、ロシアのスパイに仕立て上げられそうになった気の毒な娼婦だったことは、その事件が他ならぬアナスタシアとボリシェヴィキ絡みだったことから俺も知るところだった。

 

だけど…。

 

彼女の辿って来た哀しい過去が、踏み躙られた純潔が…俺の心の中でビールの後味よりも苦くいつまでも残っていた。

©2018sukeki4

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