第八十六話 Ⅶ
「ヨールカを祝いましょう」とアデール夫人に招かれて、お祖母様とユリウスと三人で本館へ向かう。
「新年おめでとう。乾杯」
英国から運んで来たシャンパンで乾杯する。
(先ほど夫人が夫をアゴで使って運ばせていた木箱には、年末年始にロンドンで買いつけた高級なシャンパンや今時分なかなか手に入りにくい果物などが満載になっていたらしい)
テーブルにはユリウスが持って来たキャビアを載せたカナッペやチーズや生ハム、そして温室で育てられたイチゴやメロン、果ては南国産のマンゴーまで並んでいた。
女性陣はシャンパンのお伴にそれらの貴重な果物をつまみながらお喋りに興じていた。
一方で男性陣といえば―
挨拶と乾杯のあとはわきまえて大人たちから少し離れた場所でソワを膝に抱いているJr.はさておき、もう二人は女性陣の笑い声から少し距離を取るかのように窓際へ避難している。
口数も少なく、多分無理やりこの場へ引きずりだされたのであろう、ロストフスキーとかいう奴の部下は明らかに恐縮し切って縮こまっている。
ふと窓際のユスーポフ侯爵と俺の目が合う。
こちらへ来い と、奴が俺に目で合図した。
「せっかくのキャビア。我々はシャンパンよりもこちらで行こうではないか?」
そう言ってニヤリと俺たちの前に掲げて見せたものに、思わず目を瞠った。
それは、最高級のウォッカだった。
キャビアを肴に改めて男三人でウォッカで乾杯し直す。
「…美味いな」
「であろう?近隣諸国で作るまがい物の粗悪品とはモノが違う」
「それにしても、すごい量のキャビアですね…」
「ああ。ユリウスが手土産で持ってきてくれたんだ。俺らじゃ食い切れなかったからちょうどよかったよ」
「アルフレート氏が持たせたのだろうな。我々が逗留していた頃にもよく出して下さったものだった…」
「へぇ…」
頭では納得しているものの、ついついこの男とアーレンスマイヤ家との浅からぬ繋がりを思い知らされると、憮然とした顔になってしまう。
「だからそんな顔をするな。我々とアーレンスマイヤ家は…単なる古い知己でビジネスパートナーというだけだ。革命後に我々がアーレンスマイヤ家に逗留したのもそういう縁と、事情を良く汲んでいるから身柄を引き受けてくれていたに過ぎぬ。であろう?ロストフスキー」
「相違ございません」
あいつと別れて帰国する直前にアーレンスマイヤ家で起きた横領未遂の背景にロマノフ家の財産が絡んでいたことは薄々知っていた。
大方ユスーポフ家はずっとアーレンスマイヤ家と協力しながらあの機密を守るという超極秘の特務を担っていたのだろう。
ロマノフ家との深い関わり。
起こってしまった革命。
そして
ニコライ二世退位直後に亡命したユスーポフ侯爵と、政権を握ったボリシェヴィキが一家をイパチェフ館に移送した時には既に杳として姿を消していた皇女のうちの一人。
「…そう言えば皇帝一家をイパチェフ館に移した際に、皇女が一人足りないと、関係者の間で大騒ぎになっていたな。一家全員処刑に逸って鼻息荒かったウラルソヴィエトの奴らが歯噛みしていたらしいぜ」
「…何が言いたい?」
概ね友好的だった奴の口調が氷点下に下がる。
「別に。…ただ俺は、あの一家処刑には強く反対を唱えていたから…せめて皇女の一人でも誰か心ある人間に導かれて安全な地へと逃れられたのかなぁと思って、内心快哉を送っていたという訳さ」
「…そうか」
再び奴が氷の刃を鞘に納める。
「ああ。大方親戚の英国かはたまたドイツかデンマークか、それともギリシャあたりか。その辺の王室あたりで心安らかに暮らしてればいいなと思っていたよ」
「…これはあくまで聞いた話だが」
グラスのウォッカをグイと飲み干すとそう前置きをし、窓の外を見つめながら奴が話し出した。
「皇帝陛下退位の翌日、代々皇帝の傍近くに仕えていたとある家臣が「形見に」と陛下より孔雀石の小箱を下賜されたらしい。実はその箱はからくり箱となっていて、果たしてその箱の中には陛下からの最後の密命が忍ばせてあった。皇帝陛下の忠実なその家臣は、その日のうちに皇女の内の一人を保護し、旅券を整え、数日のうちにサンクトペテルブルクを後にし、二度と故国へ戻らなかった。一行は無事縁の土地へと辿り着いたが、皇女の縁戚関係の国々の王室はいずれも皇女の身柄の引き取りを拒否したそうだ。ギリシャなどはけんもほろろの扱いで謁見の申し出さえも拒んだらしい。結局皇女と最も縁の深い王室の一つである英国王室が極秘ではあるが彼女の後見となり…今は名を変え新しい身分を得、かの国で新しい人生を生きているようだ。自立への関心も高く、今年からスイスの時計職人を養成する学校で機械細工を学ぶらしい」
「…ふん。随分と詳しいんだな」
「まぁな。…あいにく地獄耳なもので な」
「もう一つ…聞いてもいいか?」
「なんだ?」
「なぜ1905年の…モスクワ蜂起の時、俺の助命嘆願をした?あんたにとっては…俺が生きていてメリットになる事など何一つなかったはずだ。現に俺は…ソヴィエトの一員として12年後にロマノフ王朝を倒した。あんたは…地位も身分も失い国を追われる身となった。…ユリウスの…ためか?」
その質問にレオニード・ユスーポフは表情を変えず暫く俺をじっと見つめていたが、おもむろに口を開いた。
「…正直それも…全くないとは言えぬ。あれの…貴様を想う一途な気持ちに打たれて、柄にもない行動を起こした。だが、それだけではない。貴様先程「私のメリットにならぬ」と言っていたが…もとより私は自分のメリットなど考えてはおらぬ。そんなことは全く重要ではないからだ。…私はあの国の、ロシアのメリットを考えて、だからこそ貴様を助命した。あの頃のロシア帝国はもう既に死に体に近い状態だった。幸か不幸か1905年の蜂起は何とか鎮圧できたが、次も抑えられる保証は全くなかったし…必ず次はあると踏んでいた。ロシアが生まれ変わったその時に、あの国が貴様という人材を必要とするであろうから…だから私は助命した。それだけだ」
「…」
断腸の思いでロシアの未来を託してくれたこの男の想いに、志半ばで命からがら祖国を逃げ出し、今ここにいる自分が急に堪らなく情けなく恥ずかしく思えて来た。
グラスを手に俯いた俺の肩に、大きな手の感触を感じた。
「顔を上げろ。貴様はよくやった。貴様の兄君もそうだったが、個人では、個人の資質や志だけではどうにもならないことは、残念ながらある。必ず正義が、誠意が受け入れられるようにはこの世の中は出来ておらぬのだ。…ホラ、見てみろ。貴様が俯いているから、女性陣は私が貴様を責め苛んでいると勘違いをし始めたぞ。飲め!今日はヨールカの祝いなのだから」
レオニード・ユスーポフがクイと長椅子の女性陣をアゴで示すと、俺の空いたグラスにウォッカを注いだ。
透明のスピリッツが熱く喉を流れ胃の腑に落ちる。
「美味いな…」
「当然だ」
―― 我々の、祖国ロシアの熱い命の源なのだから
「Jr.」
奴が少し離れた場所でポツリと犬を抱いていた息子を呼びよせる。
「はい。父上」
「先ほども自己紹介があったと思うが、彼はアレクセイ・ミハイロフさんと言って…ヴァシリーサ殿の孫息子で、それから…私の古い知り合いでもあるのだ。今は…?」
「ドイツのレーゲンスブルクで楽器屋のおっさんをやってるぜ。よろしくな。音楽は好きか?」
「はい。聴くのは好きです。…ですが…演奏する方はさっぱりで…」
少し申し訳なさそうにレオニードJr.が答える。
「仕方ない。そもそも両親が…私もアデールも、その方面はからきしなのだから。生憎だったな、Jr.」
長椅子で談笑しているアデール夫人にチラと目をやりながら奴がシレっと答える。
「はぁ…。そういうものでしょうか。…あ!でもだったら、アレクセイとユリウスの子供ならば、音楽の才能は申し分ありませんね!」
―― ブッ!!
…思わずウォッカ吹いちゃったぜ。
レオニードJr.の突飛な思いつきに思わず阿呆のようなリアクションをした俺に、傍らの父親までが事もなげに言ってよこす。
「なんだ?そのリアクションは。求め合っていた二人が再会して再び手を取り合った。ならばその先にあるのは…一つしかないではないか!」
「いやその…」
まいったな…。
「侯…」
何かに気付いたようにロストフスキーが侯爵に耳打ちした。
「身分証明の問題か?ならば私が一肌脱いでしかるべき筋に手を回してやってもよいぞ?」
「あ、いや。お気持ちは有難いのですが…それはドイツに来て程なくおっさ…アーレンスマイヤ氏が」
「であろうな。ん?…ならば何も問題ないではないか!一体何を愚図愚図しているのだ」
なんで俺新年早々こいつに叱られてるんだ?
「いやそうですが…、でも俺もあいつもまだ再会して間もないというか…これから段階を踏んでですね…」
そして何俺はこいつに弁解してんだ?
俺の弁解に、奴は話にならんといった面持ちで傍らのロストフスキーと顔を見合わせ大きなため息をついた。
ロストフスキーも何やら残念そうな目で俺を見ているし。
「何が段階だ!何が!!よいか?そんな呑気なことを言っている場合か!これから有り余るほど人生の時間があるティーンエイジャーであるまいし!そなた一体いくつになる?もう三十代も半ばに入っているのではないか?そなただけではないぞ!…あれとて、若くは見えるが、もう今年33になるのだぞ?さっさとしかるべき次のステップへあれの手を取り進んでやるのが、男としての責任というものではないのか?」
「はぁ…」
「はぁ ではない!…あれが今とても幸せでいることは、顔を見れば一目瞭然だ!それはいい。だがな、男はただ一緒にいるだけで幸せ…それではダメなのだ!きちんとあれの人生を受け止める責任を持つ。それが男としてのケジメというものではないのか?」
…なんだ?よもやの絡み上戸か?
でも、シャクに触るが奴の言う事はいちいち正論だった。
今を大切に生きる事と同じぐらい男の責任を女に対して払うという事も大事だ。
「そう…だな。あんたの言う通りだ。…てか」
目の前の予想外にお節介焼きで親切な、氷の刃とかって嘗て呼ばれていた男の真剣な表情に、思わずプっと小さく吹き出した。
「てか?…一体何だ。何がおかしい」
笑われた氷の刃が憮然と続きを促す。
「いや、あんた…。俺はさ、親父の記憶なんてないに等しいんだけど…、もし今俺の親父が目の前にいて、俺のこんな体たらくを見ていたら…きっとこんな感じだったのかなぁ…なーんて…な」
言葉にすると可笑しさがこみ上げてくる。
堪えきれずに俺は腹を抱えて笑い出した。
俺の言葉に唖然と目を剥いている奴に、ロストフスキーも必死で笑いを堪えて肩が小刻みに震えている。
Jr.だけが笑わずに、しかしその代わりに嬉しそうに俺に言ったんだ。
「父上がアレクセイのお父様ならば…僕らは兄弟ですね!」
「な…!」
変な方向へと転がって行った話の展開にもはや奴は返す言葉もなく絶句している。
かつての宿敵と、恩讐を越え、肚を割って話し、(なぜか)叱られ、背中を強く押されて、こうして俺の1921年はスタートを切った。