第八十六話 Ⅵ

「ソワ、待って!…あ~!そこを掘ってはダメだってば!!」
小さなスパニエル犬が庭のボーダーを掘り返すのを、慌ててユリウスが止めにかかる。
「あ~!ここを掘り返したら庭師のおじさんに怒られる。めっ!いけない子だね」
夢中で土を掘り返していた子犬を目の高さに抱き上げて叱る。
ユリウスに叱られたソワという名の子犬は「キュウン…」とひと鳴きし、ユリウスのことをクリクリとした黒い丸い目玉で見つめている。
「まぁまぁ。。いいじゃないかよ。犬ってもんはこうやって外で土を掘ったり虫や鳥を追いかけたりして遊ぶもんだよ。な?ソワ」
ユリウスの手から犬を受け取り地面に下す。
庭に下されたソワはフサフサのしっぽを振りながら再び駆け出して行った。
「あーあ。アデールさん自慢の絹の毛皮も泥だらけ…。帰って来る前にお風呂に入れて綺麗にしなきゃ…」
ユリウスがはしゃぐソワの後ろ姿を見ながら盛大なため息をついた。
ソワ(絹)と名付けられたこのメスのキャバリアキングチャールズスパニエルは、アデール夫人が縁戚関係の英国王室筋から譲り受けたものらしい。
年末年始に英国に帰るアデール夫人からお祖母様が世話を頼まれて預かっているという。
「大人しい子で普段は屋敷内から出たことがない」というユリウスの話だったが、そんな犬がこの世にいるもんかと試しに庭に出してみたら、案の定ソワは今まで被っていたネコ(犬だがな)を即刻脱ぎ捨て、犬が変わったように庭を走り出した。
遠い祖先の猟犬の血が騒ぐのか、枝に止まった小鳥に吠え立て、風に揺れる木の葉にじゃれ、植え付けをしたばかりで柔らかな薔薇の花壇の土に短い鼻ヅラを突っ込み無心に掘り返す。
その度にユリウスは慌て狼狽え、「アデールさんが見たら卒倒する~」と止めに入る始末だ。
「あ~あ。あの綺麗だった毛皮が…見る影もない。キミは…本当はとんでもないお転婆娘だったんだね」
ユリウスに再び抱き上げられたソワと言えば、鼻と足は土まみれ、名前の由来となった柔らかな絹の毛皮は枯れ葉と土埃を派手に纏った凄まじい風体となっていた。お小言を頂戴したソワが機嫌を窺うようにユリウスの鼻先をペロと舐めた。
「くすぐったいよ。…やっぱ小型犬は舌も小さいね。うちのヴィシュヌにベロンとやられた日には、ひと舐めで顔がべちゃべちゃだよ」
くすぐったそうにユリウスが手の中のソワを抱き直す。
「お前にお転婆って言われてもなぁ」
「えぇ?なにそれ?聞き捨てならないなぁ。…ぼくのどこがお転婆だというの?」
…マジで自覚ないのか?
じゃあ、馬で列車を追いかける行為の一体どこが、お転婆じゃないのか説明してほしいぜ。
「ねえったら!」
ソワを抱いたユリウスが俺にズイと顔を寄せてくる。
黒と碧、四つの大きな瞳が俺を見つめる。
そのあまりの愛らしさに思わずプっと吹き出してしまった。
「俺はお転婆がタイプだってことだよ。な?ソワ」
ソワの頭をワシワシと撫でてやる。
「え~?何それ…。よく分かんないんだけど」
「まぁ、いいじゃないか。ソワも新年スペシャルアクティビティってことで。アデールさんはまだ帰ってこないみたいだし。それまでに元の通りにしておけば問題ねぇよ」
不満そうに唇を尖らせたユリウスの唇にチュっとキスをする。
「まぁ…そうだけど。うーーん。…なんだか色々上手いこと丸め込まれた感が」
「気のせい気のせい。よーしソワ!あとひとっ走りしたら屋敷に入ろう」
ユリウスの手からソワを抱き取り、地面に下す。
その時広大な敷地の外に車のブレーキ音がした。
と同時にソワがちぎれんばかりにフサフサのしっぽを振り、その音のする方へ向かって走って行った。
「お、おい!待てコラ!!ソワ、ストーーーップ」
慌ててそのあとをユリウスと追いかける。
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「わたくし、英国の気候は体質に合いませんわ。ずっとあそこにいると頭痛がしてまいりますの。あぁ、やっぱり南仏はいいわ。…あ、木箱はここでいいわ。ありがとう。…あなた、悪いけどこれ、厨房まで運んで下さらない?今使用人もクリスマス休暇を取らせているから人手がないのよ。悪いわね…。あら?…ソワ?」
その子犬は大好きな飼い主の気配を敏感に嗅ぎ取り、一目散にアデール夫人の元に駆け寄り足元にぴょんぴょんと飛びつきながら、飼い主の帰宅にちぎれんばかりに尻尾を振って喜びを表している。
…全身泥だらけ、枯れ葉を纏った姿で。
ジーザス!
思いがけない展開に思わず俺とユリウスが天を仰ぐ。
アデール夫人は一瞬この愛犬のありさまに絶句して凍り付いた顔を見せたものの、すぐにソワを抱き上げると平たい頭に愛おし気に頬をすり寄せた。
「ソワ。ただいま。…あなた泥だらけじゃないの。困った子ね」
―― ネーリ、お湯とリネンを用意して頂戴。それから櫛も。
毛皮のコートが土埃で汚れるのも意に介さず抱き上げ優しく話しかけるアデール夫人に、ソワがちぎれんばかりに尻尾を振りながら大好きな主人の頬をペロペロ舐めた。
「あ…あの。アデールさん、これは…」
しどろもどろで弁解しようとしたユリウスに気付いたアデール夫人が、懐の犬を間に挟む形でユリウスを抱きしめ頬を寄せる。
「新年早々あなたに会えるなんて、嬉しいわ。おめでとう。ユリウス」
「おめでとう。アデールさん」
ひとしきり挨拶を交わした後、ユリウスの後ろの俺に視線をやる。
「えと…あの」
戸惑いながらどう自己紹介を切り出そうか迷っていた俺に向こうから口を開く。
「ミハイロヴナ夫人に会われましたわね?彼女にもこの上ない幸せな新年がやって来て良かった。…初めまして…でよろしいのですわね?アデール・ユスーポヴァと申します。ムッシュ・アレクセイ・ミハイロフ」
国を追われたとはいえプリンセスに相応しい優雅な笑顔で俺に握手の片手を差し出した。
「は…初めまして。ミハイロフ…アレクセイ・ミハイロフです」
差し出された白い手を握る。
「…」
「…」
屋敷から出てくる男たちの声がこちらに近づいて来た。
「すまぬ…ロストフスキー、Jr.」
「いえ…」
「構いません」
「アデール、荷物は以上か?」
女房にアゴで使われ、苦虫を1000匹ぐらい一度に噛み潰したような顔で現れたのは―。
かつての宿敵で、この館の女主人の夫の、レオニード・ユスーポフだった。
モスクワ蜂起の時も側近くにいた伴の男と、恐らく息子なのだろう、面差しのよく似た聡そうな目をした子供と共に、凡そ15年振りに相まみえたこの男は、俺をみとめ、黒い目を僅かに瞠った。
一瞬の緊張をユリウスが破る。
「レオニード、新年おめでとう」
ハグし合い挨拶のキスを交わしている。
なんというか…随分親密そうだ。
そんな二人の様子に今度は俺が苦虫を1000匹噛み潰したような顔になる。
(傍らのそんな俺に、奴が上から目線でフッと鼻で嗤ったのがクソムカついたが)ユリウスはお構いなしに、「ロストフスキーさん。新年おめでとう」「おめでとうございます」「新年おめでとう。寄宿舎はどう?Jr.」「おめでとうございます、ユリウス。はい、大変ですが楽しいです」と傍らの随従と少年にまで親愛のハグとビズーを交わしていた。
「そんな顔をするな。…このような形で…再び相まみえるとは、人生は皮肉なものだな。新年おめでとう…アレクセイ・ミハイロフ」
あの頃の鋭い表情とは打って変わったような穏やかな表情で、かつての宿敵、レオニード・ユスーポフは俺に握手の右手を差し出した。