第八十六話 Ⅲ
お祖母様たちを前にユリウスのピアノに合せてストラディヴァリを弾く。
この屋敷のサロンには前の居住者が残して行ったベーゼンドルファーがあった。
元々は本館のサロンにあったらしいが、「自分はピアノは弾かないから、ユリウスがここを訪れた時に弾いてもらえばいい」とアデール夫人が譲ってくれたらしい。
エッチングの施されたガラスのはめ込まれた小さな本棚には、ユリウスが弾くためのピアノ曲集が置かれていたが、さすがにヴァイオリン用の楽譜は置いていなかったので、気を利かせてユリウスが持って来たヴァイオリンソナタの楽譜を何曲か披露して、あとは二人で適宜打ち合わせをしながらクリスマスキャロルやお祖母様も知っている古い歌曲などを適当にアレンジして聞かせた。
演奏を終えた俺たちにお祖母様たちが拍手で応えてくれる。
「素敵な…素敵な演奏でしたよ。あなたたち二人がそれぞれに互いを想いながら演奏したのは以前に聴きましたが、…今日の演奏はあの時の切なさと違い、幸せにあふれていましたよ」
お祖母様の賛辞に嬉しそうにユリウスが俺の顔を見上げて微笑む。
聞くと、初めて二人が会った時に、ユリウスはあの思い出の『夢路より』をお祖母様に披露したらしい。
こいつもあの時のキラキラと輝く恋の思い出を大切に胸に秘めて生きてきたんだなと改めて思い至り、胸がいっぱいになった。
「ヴァイオリンの独奏も良かったけど、ユリウスのピアノを得てあなたのストラディヴァリはより鮮やかに高らかに歌っておりましたね。そんなに練習を重ねたレパートリーであるわけでもないのに…あなたたちは、よほど相性が良いのでしょうね」
それは初めてあいつのピアノと合わせたあのスプリングソナタの時から感じていた事だった。
こいつよりも上手いピアノ奏者は数多いるだろうけれど、俺のストラディヴァリが最も感情のままに高らかに歌うのは、こいつの伴奏を得た時だと俺は思っている。
「そうなんです。彼のヴァイオリンに合せると、自分がどこまでも音楽の高みに上っていけるような…そんな気持ちになるのです」
俺の腕に手を絡めて嬉しそうにユリウスが答えた。
「本当に…聞いていてそれはこちらにも伝わってきましたよ。これからは二人の演奏をこうして楽しむために…また長生きする理由が一つ増えましたよ」
お祖母様も笑顔で答えた。
元気で暮らしている祖母の幸せそうな笑顔がこの上なく嬉しい。
ユリウスがいてくれたおかげで、俺は…少しはこの迷惑ばかりかけまくった祖母に、孝行を出来たのかな…と、その笑顔を見て思った。
「そうそ!あなたがたがいつか聴かせてくれた『夢路より』。今度は二人で聴かせておくれでないかい?」
祖母のリクエストに俺とユリウスが頷き合って笑顔で応じる。
「勿論。喜んで」
17年前はギターだったが、満を持して今日はヴァイオリンと歌との競演だ。
Beautiful dreamer wake unto me・・・・
俺のストラディヴァリの前奏に続いてユリウスが歌い出す。
17年ぶりに聞くユリウスの歌声。
あの頃と変らない澄んだソプラノに、人生を重ねて来た分の豊かさと深みが増した。
伴奏しながら思わず彼女の歌声に溺れる。
…Beautiful dreamer awake unto me
最後の一節を歌い終えたユリウスから曲を引き継ぎ、後奏で〆る。
楽器をそっと顎から下し、ユリウスに拍手を促す。
拍手を受けたユリウスが手を胸の前に当て、片足を弾いて優雅なカーテンシーで応えた。
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「ああ、なんて幸せなのでしょう。こんなに満ち足りた表情のあなたたちを見られるなんて」
「17年前、初めてこの曲を合わせた時は、遠出した先だったので、そこにあったギターを借りてアレクセイのギターに合せて歌ったんです。ヴァイオリンに合わせて歌えて…嬉しかった」
ユリウスが俺のストラドに感慨深げに目をやる。
「そういやな、この間こいつの親父さんから聞いたんだけど、この楽器を父さんが購入した時、その現場にこいつの親父さんが立ち会っていたらしいんだよ。こいつの親父さんと俺の父さんとは…友情の絆で結ばれた間柄だったらしい」
「まぁ…。何と…!」
思いがけず飛び出した自分の息子の話題に、おばあ様は目を瞠り暫し絶句していた。
「父は…今から40年以上昔に、ドイツに視察に訪れたアレクセイのお父様…ミハイル・ミハイロフ氏の案内と接待を仰せつかったそうです。その折にミュンヘンの代理店に取り寄せてもらっていたストラディヴァリの受け渡しに立ち会ったそうです。…一緒に過ごした時間は三日足らずだったようですが、その時にお互いの理想や生き方、そしてそれぞれの国のあり方などを、肚を割ってとことん話した…と聞きました。それで父は…父とアレクセイのお父さんは約束を交わしたそうです。ミハイル氏はいつか自分の国のあらゆる階層の人々が等しく教育を受けられるような世の中になって、それぞれの才能を伸ばせる…そんな社会制度が整ったら、自分の国からここドイツへ優れた人材を留学させると。それに対して父は、もし音楽家がドイツへ留学するようなことがあれば、自分の地元の…レーゲンスブルグの音楽学校に迎えようと請け合ったそうです。それが…奇遇にもアレクセイが亡命している間に在籍していた聖セバスチャンです。このヴァイオリンには幾重にも重なる縁があった。父とアレクセイのお父様を結びつけ、偶然に導かれるようにアレクセイはドイツへ逃れてゼバスで学び、そしてぼくと巡り会った。アレクセイからお祖母様の手へと渡ったヴァイオリンは、お祖母様と共にロシアを出て、新天地で再びぼくと邂逅を果たし、またドイツへ戻って来て…アレクセイの元に還った。このヴァイオリンが辿って来た数奇な運命に想いを馳せると…胸がつまります」
ユリウスが俺の手にあるヴァイオリンの表板をそっと撫でた。
「ええ。本当に…。もしかしたらわたくしが無事にこうしてあの激動のロシアを出国してここへたどり着いたのも…、ヴァイオリンの、ミハイルの、息子の意思と加護だったのかもしれませんね。‟このヴァイオリンをあるべき場所へ“という…」
お祖母様も目じりに光るものをそっと指で押さえながら、もう一方の手を、ヴァイオリンの上のユリウスの手へそっと重ねた。