第八十六話 Ⅰ
クリスマスの翌日、俺は南仏グラースにいた。
南ドイツのレーゲンスブルクもロシアに比べたら冬の厳しさなどもののうちに入らないが、この南仏の冬の暖かさと太陽と来たら!
俺は思わず着ていたトレンチコートを脱いで抱え、祖母が暮らしているという屋敷へと向かった。
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「ぼくもとってもとーーっても!残念だけど、でもやっぱりクリスマスと新年はおばあさまとお祝いすべきだよ」
レーゲンスブルクにもクリスマスマーケットが立ち始めたアドベントに差し掛かった頃、まぁ…当たり前だが目前に迫ったクリスマスをどう過ごすかという話になり、ユリウスは俺に店が休暇に入ったら絶対に南仏のお祖母様の元に元気な姿を見せるべきだと強く主張した。
「お祖母様、あなたが訪ねてくる日をそれはそれは…もう首を長くして待っていらっしゃるんだよ。ぼくもクリスマスは家族で過ごすから…残念ながらあなたについて行けないけれど…、クリスマス休暇になったらすぐに、行ってあげて?ね!」
ユリウスの言うことは尤もだ。
「ああ、そうだな。お前の言う通りだ。ゼバスの演奏会が終わって休暇に入ったらすぐ、グラースへ行くよ。…しかしなんだな。俺たちはクリスマスには縁がないというか…昔付き合ってた頃も、クリスマスは一緒に過ごしたことなかったよな」
「ふふ…そうだね。でもあの時は…出会った年の、1903年のクリスマスは…まだぼくたちは恋人同士ではなかったよ」
ユリウスが俺の首に両手を絡め見上げて笑う。碧の瞳が茶目っ気たっぷりに輝く。
「ああ。そうだったな。俺はお前のその愛らしい面影を胸に抱きながら悶々とクリスマスと年明けを過ごしていたんだっけな」
愛しい恋人の腰を抱き寄せ、鼻先と鼻先をすり寄せながら囁く。
俺の吐息を間近に感じたユリウスのくすぐったそうな笑顔が弾ける。
「ぼくも…演奏会の会場で見たあなたと…アルラウネの存在にモヤモヤとしながらクリスマスと年明けを過ごしていたよ。おまけにあなたは…年が明けてもレーゲンスブルクに戻ってこないし!」
当時を思い出してユリウスが上目遣いに俺を睨んでむくれて見せた。
二月になっても中々レーゲンスブルクへ戻ることが出来なかった俺を心配して待ちわびたこいつが、いつもの場所に日参して雪だるまになっていたのを見て屋敷へ送り届けたと…後からダーヴィトから聞いたんだっけ。
お互いへの想いを温めていたあの頃の俺とユリウス。
一緒にいられた時間の半分ぐらいは俺たち、互いを片思いして過ごしてたんだよな。
「ねえ。何考えてるの?」
物思いに耽った俺に、ユリウスの碧の瞳が覗き込む。
「ん?あ、ああ。…あの頃のこと。思えば…想いが通じ合ってから…あっという間の僅かな時間しかなかったんだなあって」
「そうだね…。そうだったね。恋人として過ごした時間は…たったの半年だった」
ユリウスも俺の言葉に当時に想いを馳せるように、その美しい碧の瞳がどこか遠くを見つめるような眼差しになる。
あの頃は、あの短い愛の思い出を胸に一生を生きていくと思っていたが、こうして再び巡り合った今となっては、もうユリウスなしの人生など考えられなかった。
遥か彼方へ過ぎ去った過去を見つめているかのように遠くを見つめているユリウスの顔を両手で包み込み、俺に瞳を向けさせる。そしてそのまま柔らかな唇に口付ける。
俺の深い口づけにユリウスがそっと受け入れ応えてくれる。
長い口づけの後、互いの唇を啄み合いながら離れたその距離でユリウスが俺に囁く。
「ねぇ、アレクセイ。ぼくは今とても幸せ。ぼくたちはこれから…ずっと一緒だよね。今日も、明日も、明後日も…。ずっと…。だから、特別な日はいつも一緒にいられないお祖母様のそばにいてさしあげて」
返事の代わりに俺はもう一度強くユリウスを抱きしめ、唇を奪った。
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グラースの街は小さい。
程なくして現在祖母が暮らしているという屋敷のある敷地に到着した。
敷地も広くて瀟洒な屋敷だ。
聞くところによるとヤルタで知り合い仲良くなったアデール大公女と共同購入したらしい。
大きな母屋はプリンセスアデールが自宅兼オフィス(例のあの化粧品会社だ)兼ショールームとして使い、祖母たちは別館の方で暮らしているという。
フィガロのあの写真も恐らくここの庭園で撮られていたのだろう。見覚えのある大きなオベリスクに仕立てられた冬咲の薔薇が至る所に咲いている。
本館を通り過ぎ、別館の扉のノッカーを叩く。扉の向こうから現れた懐かしいオークネフの優しい目にみるみる涙が溢れてくる。
「…申し訳…ございません…」
そう言いながら顔を伏せて涙にむせぶオークネフの震える肩に、そっと手を置く。
「オークネフ…オークネフ…ありがとう。ずっとお祖母様に付き従っていてくれて…。お祖母様を守ってくれて…」
幼い頃辛いことがあると取りすがってベソをかいていたこの老執事が、いつの間にか俺よりずっと小さくなっていたことに今更ながらに気づく。なんとも言えない温かく切ない想いが込み上がってくる。
「ごめん…ごめんなさい…オークネフ。散々心配かけて…ごめんなさい…お祖母様を泣かせて…ごめんなさい。それから…ありがとう…」
すっかり老いて小さくなったオークネフの温もりを感じながら俺はー、いつしかあの頃の優しくて頼りになる執事に縋って泣いていた小さなアリョーシャに戻っていた。
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「さあさあ、ヴァシリーサ様が、もう朝から首を長くしてお待ちでございますよ。わたくしのアレクセイはまだ着かないのか?と」
再会の涙を拭い目尻に盛大な皺を刻んで笑みを浮かべて浮かべたオークネフにサロンへ案内される。
「お祖母様…」
俺の声に振り向いた祖母はー
最後に会った時よりも一回り小さなおばあちゃんになっており、だけど顔色の良い穏やかな表情から、今の彼女が恵まれたいい環境にいる事が一目で分かった。それが嬉しいのと安堵と、それから…今に至るまでに祖母にかけた心痛を思いそれらが一気に心の中にないまぜになり…俺は祖母に声をかけることもできずに、サロンの入り口で阿呆のように突っ立って、お祖母様と対峙していた。
そんな俺の様子に、呆れたようにお祖母様の方から歩み寄り、俺を抱きしめてくれた。
昔と同じ、お祖母様の纏っていた上品な香水の香りに包まれる。
「全く…この子は…。このわたくしを…一体何度泣かせたら…一体どれだけ気を揉ませたら…気がすむのか」
涙でくぐもったお祖母様の声に、俺の感情が一気に決壊した。
「ごめんなさい…ごめんなさい…おばさあさま…ごめんなさい…」
ガキの頃のように泣きながらもはやこの言葉しか出てこない俺に、「本当ですよ…わたくしの可愛いアレクセイ。…無事で…生きてこの婆の前に姿を見せてくれて、ありがとう。お帰りなさい」と泣きじゃくる俺の髪を背中を、いつまでも優しく撫で続けてくれていた。
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ようやく感情が収まった俺に古参の侍女でオークネフと共に革命以後もずっと付き従っていてくれたリザがお茶を淹れてくれた。
サロンには精緻な彫りを施した銀のサモワールが鎮座しており暖炉の上にはイコンが恭しく飾られている。ヨールカのために取り寄せたのだろうまだ飾りの飾られていない樅の木が用意されていた。
「お茶…ロシア風なのですね…」
「ええ。アデールさんがサモワールを手に入れて下さってね。…そのヨールカのツリーもニースのロシア人コミュニティからアデールさんが取り寄せて下さったのですよ」
「飾りつけは坊っちゃまにして頂こうと思ったので、まだご覧の通り手付かずです」
ペテルブルクの子供時代を思い出す。
ヨールカが近づくと玄関とサロンに設置されたツリーを飾りつけたっけ。
「お祖母様…今は、皆に大事にされて幸せなのですね」
「ええ。とても。アデールさんや侍女のネーリさん、それからアデールさんの夫のユスーポフ侯爵、それに折に触れて手紙を下さって、こちらの工場へ来るときにはいつも顔を見せてくれるユリウス…。わたくしは皆さんから大事にされて心穏やかな晩年を送っておりますよ。おまけに今年のクリスマスは…こんな奇跡まで!」
感極まってお祖母様がこみ上げてきたものをそっとハンケチで拭う。
「…是非今迄の事のお礼を申し上げなければ…と思ったのですが、母屋…留守にしているようですね」
母屋には人の気配がなかった。
「アデールさんは、クリスマスから公現祭までは、英国ですよ。あちらにね、旦那様のユスーポフ侯爵のお屋敷がありますのでね。わたくしも亡命してから数ヶ月はそちらでお世話になっていたのですよ。今頃は寄宿舎から可愛いレオニードも戻ってきて、家族水入らずといったところでしょう」
あいつから聞いてはいたが…ユスーポフ侯爵…とはな。
1905年のモスクワで完膚なきまでに俺たちボリシェヴィキを叩きのめした男。
俺の助命嘆願をした男。
そして
俺がレーゲンスブルクを去ってから…恐らく最もユリウスの心の近いところにいた男。
「お前とはちょっと歳が離れていたけれども、侯爵とは面識があったかえ?」
「…一度。一度だけ、対面したことがあります。尤も…一瞬でしたが」
「…そうですか」
俺の苦いものを飲み込んだような様子に、お祖母様も何かを察したようで、それ以上は何も聞いてこなかった。
「侯爵も…夫人も、きっと俺の顔など見たくもないでしょうね」
なんと言っても彼らを追い出した側の中心にいた人間だ。
俺の言葉に、お祖母様は少し驚いたように目を瞠り、そして言った。
「何を言ってるのですか。馬鹿馬鹿しい。わたくしのたった一人の身内が生きて…ドイツに辿り着いたという報せを聞いて、アデールさんも侯爵も…それはそれは喜んでくれましたよ?「本当に良かったですね」と。ここには…王党派もボリシェヴィキもありませんよ!ただ家族を、友人を、同胞を愛し思いやる人たちだけがここに存在しているのです。…分かりますね?アレクセイ」
…参ったな。
俺は…全部捨てて来たようで、まだまだ全然囚われて、固執しているんだな。
「俺は…バカですね」
「本当に。…でも馬鹿な子ほど、可愛いものです」
お祖母様が満面の笑みを俺に向けてくれた。
「あ!そうそう。ユリウスからお土産を託かってたんですよ」
ガサゴソと鞄の底からユリウスに託されたプレゼントを引っ張り出す。
「ドイツのクリスマス菓子です。娘と母親とで、沢山拵えてました。「皆に配るんだ」ってね」
ユリウスから託された包みを受け取ったお祖母様の顔が輝く。
「まぁ!嬉しい。ユリウスは元気にしておいでかえ?」
「ええ。元気です。一緒にここへ来られないのを残念がっておりましたが…あいつもあいつの家族がいるので…」
「そうですよね。…ええ。それが良いと思います。アレクセイ、明日は買い物に付き合って頂戴。街で手に入れたいものが沢山ありますしね。それに、このツリーに飾り付けもしてもらわなければ」
「ハイハイ。…かしこまりました。仰せのままに」
「ホホ…奥様、もう今日はそのぐらいになさって。坊っちゃま、お部屋を設えておりますので、そちらでお夕食まで少しお休みになられて長旅の疲れを癒してはいかがですか?」
「ありがとう、リザ。…ではお祖母様、荷物を置いてまいります」
「はいはい。では夕食に」
元気で幸せそうにしている祖母とオークネフたち。
ここにユリウスがいないのは残念ではあるが、俺は、遥か遠くなった幼い日に、母さんと二人で過ごしていた時以来の、心の底から満ち足りて穏やかな気持ちでクリスマスを迎えていた。