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第八十五話 Ⅲ

イザークの休みの日を狙って夕刻アパートを訪れた。

「よお!」

「え?え?!なんで?」

奴は俺が休みの日を狙ってやって来たことに驚いているようだった。
あほたれが。
相手を攻略するのはまず外濠から固めるのは定石中の定石だ!
あれから何度となく酒場に通い親父さんや常連と懇意になった。
だけどなんだな。
親父さんの人柄もいいし、料理も美味い。常連の奴らも陽気な奴ばかりだ。おまけにアドルフ・レーマンのピアノまであるのには驚いた!
(ユリウスは出禁にされたというが)あそこはなかなかいい酒場だ。
今度ユリウスを連れて行って俺に免じて許してもらって出禁を解いてもらえたら…と思ってる。
そうだ!あのピアノでユリウスに何か一曲弾かせるのもいいな…。

「?何ニヤついてるんですか?」

つい想像を逞しくして知らんうちにニヤついていたらしい。
怪訝そうにイザークに指摘される。

「あ、イヤ。なんでもねえよ!今日は?あの坊主は?いないのか?」

「ユーベルはフリデリーケのところにいます。…僕よりも断然彼女に懐いてますから…」

少し寂しそうに笑いながら言う。

「おいおい…。しっかりしろよ!おとっつぁん。せめて休みの日ぐらいはちゃんと子供といてやれよ。彼女だって仕事あるんだし…」

「そうですよね…。僕は本当に情けない父親だ…」

やべ!落ち込ませちゃったか。

「ま、それは今はいい!でもちゃんと向き合ってやれよ?なんたって可愛いじゃないか!坊主。今日来たのはだな…」

「今日来たのは?」

「こないだはお前が潰れて殆ど話が出来なかったからな!今日はアルコールはなしで男同士ハダカの付き合いと行こうぜ」

戸惑うイザークを引きずるように俺らはアパートを後にした。

〜〜〜〜

俺が奴を引きずって向かった先は市内の公共浴場だった。

近年ヨーロッパ諸国とそれからアメリカ辺りで、公共衛生のために街に公共浴場が盛んに作られ始めていて、俺がここへ戻って来て以来愛用しているこの浴場もそういったものの一つだった。

街の名士らが中心となって建設するにあたり、あいつの父親も積極的に関わったらしい。
若い頃にロシアをはじめとする諸国を回ってきただけあり、おっさんの意見を取り入れて作ったその公共浴場には北ヨーロッパ風の蒸し風呂が設けられており、それは俺を狂喜させた。

慣れた様子の俺に対してイザークはここを訪れるのが始めてらしい。
キョロキョロと内部を見回している。

「なんだ、ここ初めてか?」

イザークがコクリと頷く。

「よーし!ならばこの俺様が、本場ロシア仕込みの、蒸し風呂の入り方を伝授してやる。ホレ、脱げ!」

俺はサッサと素っ裸になると、もうもうと上がる湯気の中に入って行った。

「ま、待ってくださいよ!」

背中に慌てたイザークの声と、俺の後を追う足音がした。

〜〜〜〜

「…傷跡…すごいですね」

「ん?あー、まあな」

イザークは俺の身体に無数に残る傷跡を目の当たりにし、暫し絶句していた。

「そう言えば…本当はクラウスではなく…ロシアの人だったの…ですよね。確かアレクセイ…」

ああ、共演したアナスタシアから聞いてたんだな。

「まあな。でも昔から俺を知る人間は昔通りクラウスと呼ぶぜ。だからお前もクラウスでいいよ。ゼバスの学生たちの間でも「楽器屋のゾンマーシュミットさん」で通ってるしな。それにお前の今の勤め先の酒場でも」

ニカッとイザークに笑って答える。

「驚いたな…。もうそんなにこの街に馴染んでるなんて。あなたは…やっぱり昔と全然変わらない。周りの人間を…惹きつけてやまない。僕の方が、いつまでもこの街に馴染めない…異邦人だ」

「そんなこたないだろう。…今でもお前さん、イザーク・ヴァイスハイトは、この街の誇りだ。それはお世辞でなく本当だぜ?」

確かにピアノから離れていてもイザークはこの街の人からまるで聖人のように敬愛されている。俺が接するゼバスの学生たちや酒場に来る奴ら皆そうだ。

「…」

俺の言葉に返す言葉もなくイザークが俯く。

まぁ…周りの大きすぎる思い入れって…たまに重いよな。

「ドミートリィ・ミハイロフの弟」の重圧をずっと背負っていた俺も、分からなくはないな。

「なあ。じゃあ、いっそのこと、その期待に、皆から注がれる重圧にこの際向き合ってみたらどうだ?」

「え?」

思いがけない言葉にイザークが顔を上げる。

「だってそうだろう?ずっと背を向け続けているから、それはどんどん重く感じてくるんだよ。お前の人生の色々、街の人の期待や、音楽のこと、それから家族のこと…息子やそれからフリデリーケのこと。いっぺんにたぁ言わないが、そろそろ顔を上げて、一つずつ向き合ってみたらどうだ?」
ーー及ばずながら、俺も、ユリウスも、それからアーレンスマイヤ家の人間たちも力になるぜ?もう大丈夫だ。お前の心の傷はとっくに癒えているんだよ。もう自分の殻から外へ出ても心は痛まないから、一歩踏み出してみろよ。

「僕は…大丈夫?」

「ああ。そうだ。焦らなくていい。少しずつでいい。だけど、もう止まり続けているのはダメだ。前へ進むんだ」

俺の激励にイザークはじっと俺の顔を見つめていた。そして徐に自分の両手に視線を落とし、じっと手を見つめている。

「なんだか…不思議ですね。あなたがそう言うと…本当に一歩踏み出せるような…そんな気になってくる。ハハ…やっぱあなたは…すごいや」
自分の両手を見つめながらそう言って笑ったイザークの笑いがやがて嗚咽になる。

「う…。くっ…」

俯いて肩を震わせるイザーク。

「これから…色々なもの…沢山の時間…一緒に取り戻して行こうぜ。お前さんも、それから俺も」

嗚咽を上げ、涙でくちゃくちゃになった顔を手の甲で拭いながら、俺の言葉にイザークが何度も頷いた。

〜〜〜〜

「おい!さっきから黙って聞いてりゃ何だ?!俺も?ユリウスも?アーレンスマイヤ家の人間たちも?!一番大事な人間を忘れてないか?アァン?」

いつのまに、湯気の幕の向こうから俺らの前にヘルマン・ヴィルクリヒが生まれたままの姿で仁王立ちしていた。

「…どうでもいいけど、そんなカッコで俺らの前に立ちはだかるな!…ちっとは慎みを持てよ」

「ハッハー!」
ーー横いいか?

強引に俺らのかけたベンチの横にヴィルクリヒがねじ込んできた。

「蒸し風呂サイコーだな。こんな身体の芯まで冷える冬の日にはこれに限るよ」

上機嫌にそう言って立ち上がると、白樺の枝で威勢良く身体を叩き始めた。

「よし!俺らもやろうぜ。おい、イザーク、叩いてやるから来い」

ヘルマン・ヴィルクリヒの隣で自分の身体を白樺の枝で叩きながらイザークの身体もバンバン叩いてやる。

「痛い!痛いですよ!」

「これが健康にいーんだよ!ほれ、隣のおっさん見てみろ!いい歳こいて血色も良いし肌も張り切ってるだろう?これぞ蒸し風呂効果ってもんだ」

「身体中の毛穴からこうやってニコチンとヤニを追い出すのさ。…タバコ臭いとレナーテが嫌な顔するからなぁ…」

「ンだよ。惚気かよ。チクショ!」

腹立ち紛れに白樺の枝で大きく仰いで奴に蒸気の熱風をお見舞いする。

「ゲホゲホっ!やめろ!」

「蒸気でヤニまみれの肺もくん蒸しとけよ」

「余計なお世話だ!私はもう行くぞ。…あ、イザーク、これからのことを私とも近いうちにじっくり話をしようじゃないか。また連絡をするから、そのつもりでいてくれな」
ーーじゃあ…。のぼせないうちに出ろよ。

そう言い置くと、ヘルマン・ヴィルクリヒは挨拶がわりに片手を上げて、踵を返し水風呂の部屋へと移って行った。

「クラウス…」

「ん?なんだ?」

「僕は…幸せ者ですね…」

「そうだよ。聖イザーク。神の祝福を受けたお前を…神が見放すことないと、俺は思うぜ?もう…試練の時はとうに終わっていたんだよ」

「ハハ…いつまでも、それに気付かずにずっと光の方から目を背け続けていたのは…僕自身だったって訳か…」

「ま、そういうことかもな。…よーし、俺らもクールダウンするか!」

ーーここ、中々快適だろ?奴もしょっちゅう来てて、よく鉢合わせるんだよ。ユリウスたちもたまに来るらしいぞ?「ここ広くて気持ちがいいから」って。これからお前も来いよ。

ーーそうですね。…そうします。今度は、ユーベル連れて行こうかな…。

ーーお!良いじゃないか。そうしてやれよ。

蒸し風呂で散々汗と涙を流し切った聖イザークは、澱を一気に落としたように澄んだ目をしていた。


 

〜〜おまけ〜〜

「しっかし…お前さんの身体。バッキバキだなぁ。歳、いくつだっけ?」

「34。まあな。革命家はヒットエンドラン、一撃離脱が身上なわけよ。軍や警察をまくだけの体力がないと生きてけねーからさ。おっさんもやべーんじゃねえのか?そろそろココ!まだ出ちゃいねーが、だいぶ緩んでるぞ。レナーテさんに幻滅される前に締め直しとけよ」

そう言って俺はヘルマン・ヴィルクリヒの腹をつまんだ。

「わはは。やめろ!馬鹿者!俺なんてこの歳にしたらまだ全然まともな方だぞ」

「アハハ…」

「おい、イザーク!お前もだ!今はまだいいけど、油断してると腹肉はどんどん増殖してすーぐあそこのマスターや常連みたいになるからな!」

傍らで他人事のように笑っているイザークの腹の皮もついでにつまみ上げておいた。

「…ハイ。気をつけます」

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