第八十五話 Ⅱ
「ええ〜〜?!それじゃあ、せっかくイザークに会ったのにピアノのピの字も出なかったのぉ?」
いつものあいつの家での夕飯後ーー。
二人並んでキッチンに立ち、食器を洗っている俺に、隣でグリューワインを作っていたユリウスが不満気な声を上げる。
リビングからはエラール独特の澄んだ高音と、レナーテさんとヘルマン・ヴィルクリヒのクスクス笑いが漏れ聞こえてくる。
(レナーテさんは近頃ピアノを購入し、ヴィルクリヒに習い始めたらしい)
「面目ない…」
「んもう!」
「あいつに酒を勧めたのが敗因だったぜ…。まさかぶどう酒たった一杯であんなになるとは…」
ロシア人だったら子供でもまずありえないぜ…。
「まぁ…ね。弱いんだよね。でも…そんなに酔っ払うなんて、よほど再会が嬉しかったんだね…。出来たっと…」
ミルクパンを火からおろしてマグカップに注ぐ。湯気と一緒にスパイスやドライオレンジの香りが立ち上る。
「バルコニー出よ!」
湯気の立つグリューワインのカップを手に俺たちはバルコニーへ場所を移した。
「星…綺麗だね」
「だな」
温かなグリューワインを手に二人で星空を眺める幸せをひしひしと感じる。
ブランケットに二人でくるまる。
ユリウスがコツンと俺に頭をもたせかけた。
「アレクセイ…あったかい」
「お前は…柔らかいな」
ブランケットの中の華奢な身体を抱き寄せ、金の頭に頰をすり寄せる。
二人で感じる互いの体温。
ふと、昨日の夜の幼子のぬくぬくとした体温の記憶が蘇る。
「そういやさ、昨日イザークの奴家まで送り届けて…奴の妹と会ったんだ」
「フリデリーケ?」
ユリウスの言葉に頷いて続ける。
「相変わらず綺麗だったけど…昔と随分と雰囲気が変わってたから一瞬…イザークの新しいパートナーかと思ったよ。少し話をして…甥っ子を連れて帰るという彼女を家まで送ったんだ。坊主抱いてな。ユーベル?だっけ?…イザークに似てるな。フリデリーケのことを母親のように慕っていて微笑ましかったなあ」
「フリデリーケは生まれたばっかの時からずっとお母さんがわりでユーベルのことを育ててるんだもの。…あの子を生んで間もなく…あの子のお母さん…イザークの奥さんが亡くなってね。助産婦の仕事をしながらずっと母親がわりにフリデリーケがユーベルを育ててたんだ。そうそう!あの子を取り上げたのもフリデリーケだったんだよ」
「らしいな。なぁ、あんなに近くに住んでるんだったら…何で一緒に暮らさないんだろうな。一緒に住んだ方が家賃だってその分浮くし、近いとはいえフリデリーケもわざわざ移動の手間が省けるもんじゃあないか?」
俺の言葉にユリウスが神妙な顔になる。
「それも…そうなんだけど…ね。実は…」
ーーフリデリーケとイザークは…本当の…血の繋がった兄妹じゃないんだ。フリデリーケは養女で、その…。
その先を少しユリウスが言いづらそうに口淀む。
フリデリーケがイザークを見つめる眼差しと、二人が同じ屋根の下で暮らしていない理由を俺は大体察した。
「そか…。ずっと…そうだったのか?」
ユリウスが頷く。
「…つらいな」
ずっとイザークへの想いを胸に秘めながら、奴の淡い初恋や、亡くなった奥さんとの結婚生活をはたで見続けていたのか…。
報われない想いを胸に抱いて。
しんどいな…そりゃ。
独身なのは…そういうことか。
「ま、それはそうと。次の手も考えなきゃな…」
「そうだよ。期待してるんだからね!クラウス先輩」
「まっかせなさーい」
胸を一発ドンと叩いてユリウスの期待を請け負う。
ーーあ!梟!
ーーえっ?どこだ?…お前目がいいな。
ーーあそこ。あの木の枝が茂ってる所。満月の晩に、近くの森から飛んで来たのを見たんだ。この木がお気に入りみたいで、よく来るんだ。
ブランケットごとユリウスを懐にかき抱き直し、闇夜に響く梟の鳴き声に二人で耳を傾け続けた。
30年以上生きていて、生まれて初めて冬の寒さもオツなものだと心から思った。