第八十五話Ⅰ
イザークが今厨房に入っているという酒場へ足を運んでみた。
よほどユリウスで懲りたのだろう。
酒場のマスターに、イザークに会いたいと申し出たところ、あからさまに警戒されてしまった。
仕方なしに、「クラウス・ゾンマーシュミットが会いに来た」と早々に切り札を出す。
渋々奥へ引っ込んで行ったマスターだったが、元パートナーで偉大な先輩のクラウス・ゾンマーシュミットの名の効果は絶大だった。
すぐにイザークが奥の厨房から前掛けで手を拭きながら飛び出してきた。
「クラウス!」
「よお」
奴を襲った様々な不遇の割には荒んだ雰囲気はなかった。
聖人君子オーラとでも言えばいのか?妙におっとりとした佇まいは健在だったが、目に当時の輝きを失っているのはやはり否めなく、それは俺を正直少し悲しくさせた。
「…飲めよ」
イザークの分のグラスを持って来させ、ぶどう酒を注ぐ。「お酒はあまり強くないんだ」と言いながらも嬉しそうにグラスをチビリチビリと舐めている。
「君の…君とユリウスのことは、僕の耳にも入ったよ。…驚いた。君とその…ユリウスがそういう関係だったなんて…」
「え?…てか、本当に知らなかった…のか?」
だって楽器屋の親父だって(実は)知ってたぐらいだぞ?
マジか?
俺の問いに憮然とした顔でイザークが頷く。
「ホントに…ちょっとも…?」
もう一度イザークが頷く。
「黙ってるなんて…ひどいじゃないか!あ!…もしかして、あの時の…ユリウスの誕生日の時のあのメンデルスゾーンだって…僕をダシに使ったってこと?」
今更かよ…。
てか、もうそれは時効だ。勘弁してくれ。
「あー…まぁな」
「あんまりだ!」
イザークが俺の両肩をガクガクと揺する。さすが元とは言えベートーベン弾きの握力はダテじゃねぇな。
って!痛ぇぞ!おい!?
ガクガクと身体を揺すられながら繁々とイザークの顔を見る。
目が座ってトロンとしている。
顔も赤い。
グラスを見ると、空になってる。
マジか?
グラス一杯の葡萄酒でこれか?
「あー、悪かった!この通り!謝ります。申し訳ありませんでした。若気の至りということでどうか勘弁して下さい。聖イザーク殿!」
詫びながら奴を拝み倒す。
「僕は…僕はいつも結局こんな役回りだ!自分一人で舞い上がって有頂天になって…結局いつも何かに…誰かの掌で踊らされてるだけなんだ!」
そう言ってイザークは、ワッとテーブルに突っ伏しさめざめと泣きだした。
「お…おい!」
辺り構わず男泣きに暮れるイザークを慌てて宥めようとして手を伸ばし、ふとその手を止める。
こいつも…こうして泣きたいのをずっと堪えて胸の内に溜めていたのかもな。
馬鹿げているかもしれないけど…やっぱりどんな奴にだって男の意地というのはあるものだ。
男たるものそうそう涙を、弱っている姿を人には見せるものではない。
たとえ必死の痩せ我慢でも…。
今日はやめだ。
説得は…また出直そう。
(ユリウスには不首尾に文句言われるかもだけどな)
今日はこいつを泣きたいだけ泣かせて、鬱憤を全部吐き出させよう。
16年前の詫びも兼ねて…。
「ん…。泣け泣け!泣いて全部心のモヤモヤ吐き出せ!涙は心の汗だ」
何だよ…俺、いいこと言うじゃないかよ…。
「ん…ムニャムニャ…」
「って?寝てる?!」
目の前から聞こえる聖イザークの気持ちの良さそうな寝息に思わず目を剥いた。
「おい!イザーク!!起きろ」
肩を揺するが「ん…クラウス…あそこのパート…ムニャムニャ」などと訳の分からん寝言で返された。
…夢で、あの頃に戻ってるんだな。
で…夢では、あの頃のように弾いてるんだな。俺も…お前も。
「ああ。あの曲も…まだ仕上げてなかったよな。すまん!途中でいなくなっちまって」
Zzzz …
気持ちよさそうに寝息を立てているイザークの腕の下に身体を入れ、立ち上がらせる。
「ホレ!送ってやるからちゃんと歩け!ばかたれ。家、昔と同じところか?」
「…」
だーめだ。
仕方なしに店のマスターに今のイザークの住まいを聞いて地図も書いてもらう。
ふむ…。
そんな遠くないな。
今日は特別サービスだ!
「よっと…」
イザークを背負い酒場を出た。
「クッソ…重いな。こんちきしょうめ…」
全身脱力して爆睡している酔っ払いは、当然ながら重い!
「おい!ちゃんとつかまってろ!落ちたらそこに置いてくからな!」
「う…ん」
俺の両肩に回したこいつの手を組み直させる。
昔と変わらない…節の高い大きな手。
昔のように動かなくなった奴の指…。
いや…
いやいや!
ユリウスの言う通り…まだこれから希望はあるはずだ!
まだ何も始めてないうちから切なくなってどうすんだ?俺!
「おい、イザーク。…お互い色々あったよな。…あったんだよ。俺にも。…なぁ、今度は酒の入ってない状態で色々話そうぜ。…てかお前さん弱すぎたよ!ぶどう酒一杯で…ユリウスよりも弱いぞ?俺ぁびっくりしたよ」
爆睡した背中の重みに一方的に話しかけながら、俺は懐かしいレーゲンスブルクの街を歩いた。
俺の肩を…奴の涙が微かに濡らしていた。
〜〜〜〜
地図を頼りにたどり着いたアパートの呼び鈴を鳴らす。
「はい」
中から出てきた大きな瞳の、今風のいでたちの美女は…かつて一度だけ会った…こいつの妹…でいいんだよな?
確か…フリデリーケ!
確かに昔の美少女の面影を色濃く残した美しい女性になってはいたが…何というか雰囲気が大きく変わっていて、きっと俺は怪訝な顔をしていたのだろう。
そんな俺に向こうの方から
「あの…一度昔ユリウス様のお屋敷でお会いした…?」
と切り出してくれた。
「あ!あぁ。そうです。クラウス…クラウス・ゾンマーシュミットです。あの…」
俺の背中で爆睡するイザークに、フリデリーケが状況を察したようだ。
「ま!ごめんなさい!!入ってください!」
誘われるままに部屋へ入りイザークをベッドに転がしといた。
「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
恐縮しきりのフリデリーケがお茶を出してくれた。
昔は折れそうに細くて青白い顔をしていたのに、今は細いながらも強靭なしなやかさとたくましさを感じる。目に力を失っていたイザークと対照的にこの妹は目に力があり、あの頃とは別種の魅力が備わっていた。
「なんか…昔と随分雰囲気変わりましたね。…一瞬、その…新しいパートナーと暮らしているのかと」
「新しい…パートナー…?」
俺の言葉に目を丸くしてフリデリーケが繰り返す。
「あ、いや…その。失礼。…あなただって旦那さんがおいでです…ね」
フリデリーケがあまりに思いがけないような顔をしたもので、俺は自分の悪気はなかった今の失言を詫びた。
そんな俺に
「あ、いえ…。違うんです。…私、独身ですのよ。ウィーンで学んで、今はこの近くで助産院をやっておりますの」
と今の自分の身の上を笑顔で語ってくれた。
その笑顔は、人生をしっかりと前を向いて歩いてきた人間特有の力強い生命力に溢れていた。
へえ…職業婦人…か。
16年前の、兄の背中に隠れるように俯きがちにしていた、あの儚げな美少女がねえ…。
これも時代ってやつかな。
でも、悪くないな。
「ユリウス様との…再会のロマンスは私の耳にも入ってますよ。ふふ…おめでとうございます。あなたがこの街を去ってから私は…あなたを想って涙を流すユリウス様を何度となく傍で見ておりましたので。本当に良かったです。…彼女を、幸せにしてあげてくださいね。それから…あなたも」
俺も…か。
「ありがとよ」
〜〜〜〜
「おばちゃん…おしっこ…」
イザークに面立ちのなんとなく似通った黒髪の坊主が寝ぼけ眼をこすりながらフリデリーケのエプロンを引っ張った。
「ちゃんとお知らせ出来て偉いね、ユーベル。おトイレ行こうね」
稚い甥っ子にフリデリーケが蕩けそうな笑顔を見せて、連れ立ってトイレへと立った。
イザークの奥さんの…忘れ形見って言ってたっけ…。
念願の楽壇デビューと世界を股にかけた活躍、そこからの指の故障、立ち行かない生活、伴侶の死と残された幼い子供…。
栄光の頂点からどん底に落とされ、未だ暗闇を模索している聖イザークの16年を思う。
用を足して再び眠りにおちた甥っ子を抱いたフリデリーケが戻ってきた。
「さて、行きましょうか」
「え?…ここに住んでいるんじゃ?」
俺の問いかけにフリデリーケが首を横にふる。
「いいえ。私は助産院の二階に住居を構えてますので…。このまま兄は朝までぐっすりだと思うので、この子は今日は連れて帰らないと…」
ヨイショっと…。
イザーク宛に置手紙を残し、毛織物のショールに甥を包み片手で抱いて、自分の荷物を取ろうとしたフリデリーケの手の中の幼子に手を伸ばす。
「俺が抱いて行きましょう」
「あら…。すみません。ではお願いしてよろしいですか?近頃急に重たくなってきて。でも…ふふ。今日は兄とユーベル、ヴァイスハイト家の男たちが揃ってあなたにおんぶに抱っこって…ウフフ…すみません」
可笑しそうに笑いながら部屋のライトを消すと、ドアに鍵を閉めた。
星の降るような冬の夜空をイザークの妹と歩いた。
抱き抱えた幼子の体温がほっこりと温かかった。
イザークとユーベルに向けるフリデリーケの眼差しは慈愛に溢れてその横顔は言いようもなく美しかったが…同時にどこか哀しげに見えたのは、俺の気のせいだったのだろうか。