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第八十四話 Ⅱ

「はい。アレクセイ」

俺の手にストラディバリが帰って来た。

目の前のエウリディケの存在と同様、もう永遠に俺の手には戻って来ないものと諦めていただけに、なんとも言えない感慨が湧き起こる。

これからの、生かされた人生を丁寧に豊かに生きて行こう。この与えられた幸せへの感謝な気持ちを生涯忘れずに、恋人を、恋人の家族を、友人を、この街を、そして俺の人生を大切に生きて行こうと誓った。

「一年前、英国を訪れたユリウスがその楽器を手に戻ってきた。聞けば、アレクセイ・ミハイロフの形見のストラディバリを遺族である彼の祖母から譲り受けたと言う。…数奇な縁だと、思わず唸った。思えばもう半世紀近く前にその楽器がミハイロフ侯爵の手に渡ったその場に私はいたのだから。この楽器はミハイロフ家のみならず、アーレンスマイヤ家にも縁の深い楽器だ。だからこれは楽器の意思なのだと…楽器がこの娘の元に行きたいと望んだのだと私は思った。だから…今ここにこうして君の手に渡った奇跡は、必然なのだと私には思える。かつて私とミハイルを結びつけた縁が、強い思念で君をここへと導いたのだと…」

アーレンスマイヤ氏の口から語られる古い縁の話。

彼と父が旧知だったことは十六年前に知らされていたが、まさか、この楽器が父の手に渡るその現場にも立ち会っていたとは。

改めてこの楽器の繋いだ断ち難い絆を思った。

「縁…か。親父様らしいな。時を超えた壮大なロマンだね。…でもクラウス、楽器は弾くものでそうして感慨深げに眺めてるものではないんだぜ。…弾けないとは、言わせないぞ。凄腕の楽器屋の新しい店員の噂は、僕の耳にも入っているんだ」

「ハン!この言葉、そのまま返すぜ。チェロ、持ってこいよ。お前こそあれから腕を鈍らせてなどいないだろうな?」

「ぬかせ。…そうだな。ウン、ここにピアノ奏者もいるんだ。あれやろうぜ。メンデルスゾーン。ピアノ奏者を替えて、ゼバス三銃士16年ぶりの再結成だ。ユリウス、弾けるだろう?」

「もち!あの演奏を聴いてからずっとピアノパートを練習してたんだ」

ユリウスが口角をゆっくりと上げて勝気そうな笑顔を浮かべた。

「よーし!決定だ。姫に捧げるメンデルスゾーン改め、姫と奏でるメンデルスゾーンだ!楽器と楽譜取ってくるからお前ら指温めてろ」

そう言ってダーヴィトはサロンを後にして行った。

〜〜〜〜

チェロをスタンバイしたダーヴィトとユリウスが目で合図を交わし合う。

十六年ぶりのピアノトリオ、メンデルスゾーンの再演だ。

冒頭のチェロの主題にユリウスが寄り添うように伴奏を添える。

節度と詩情とのバランスのとれた歌わせ方は昔から変わらず健在だった。
音楽を通して奴の本質を感じ取る。
ダーヴィトから旋律を受け取る。
俺のストラディバリが歌う。
歌う俺のストラディバリにユリウスがどこまでも寄り添って音楽の高みへと駆け上がっていく。

ああ
かつて一度だけ、こんな体験をしたよな。
あの時はあれが最初で最後だった。
俺の脳裏に出会った頃から今に至るまでの思い出が走馬灯のように蘇って行く。

俺の手を離すな
ぼくの手を離さないで

俺のヴァイオリンとユリウスのピアノが対話する。

時を超えて互いをひたむきに求め合った運命。

その数奇な縁を、ストラドを歌わせながら俺は強く強く感じていた。

〜〜〜〜

「今回のメンデルスゾーンも、16年前と同様素晴らしかったわ」

「素敵!リーザもいつか室内楽やってみたいな」

賞賛の言葉と共に皆から惜しみのない拍手が贈られた。

「十六年前は、ベッドの中でサロンから漏れ聞こえてくる微かな音色を聞いていた。…こうして間近で聴くと中々の迫力だな」

そう言ったアーレンスマイヤ氏に

「ありがとう。…でも十六年前の、あのピアノをイザークが務めた演奏は本当に凄い演奏だったんだ。ぼくはそれに憧れてこの曲を練習し始めたんだけど…。あーあ、今でもあの時の…十代のイザークの足元にすら及ばないや」

ユリウスが大きなため息と共に肩を落とす。

「あまりピンと来ないのだけど…、ヴァイスハイトさんって…そんなにすごいピアニストだったの?」

イザークが活躍していた頃を知らないテレーゼが小首を傾げて父親に尋ねている。

仕方のないこととはいえ、一抹の寂しさを感じる。

「それはすごかった。ゼバス始まって以来の…不世出の天才だ。同じ時代にゼバスで学び、室内楽を組む栄誉に預かったのは、僕の一生の誉れだよ」

娘の疑問に優しくダーヴィトが答える。

「レコードが普及する少し前だったからな。奴の活躍していた頃は。もう少し後だったらレコードという形であいつの演奏は後世に残ったかもしれないのに」

「演奏の記録もほとんど無いから、今や伝説の天才ピアニスト…となりつつあるな」

サロンに漂い始めたしんみりとした空気をユリウスの勇ましい言葉が破る。

「ちょっと!今や とか、伝説の とか!イザークを終わってしまった人間みたいに言わないで!ぼくは…まだ諦めてないよ。これからいい治療法だってどんどん出てくるだろうし、…仮にやっぱりもうピアノは駄目でも…彼の才能を活かす道は沢山あるはずだよ!」

ユリウスがムキになって俺たちの言葉を否定してかかる。

「お前さん、故郷に帰って来たイザークのことずっとずっと説得し続けてるもんな」

へぇ。そうだったのか。
でもまぁ、こいつもイザークのピアノに(ピアノだけだぞ!断じて)心底惚れ込んでいたからなあ。

「うん。イザークの働いている酒場に乗り込んで行って口説いていたら…とうとうそこ出禁にされちゃった」

ユリウスが肩をすくめてみせる。

「だってママ、その酒場の常連さんやマスターの前で「いつまでこんなところでくすぶっているつもり?」って言ったらしいよ。その言葉に激昂した常連さんに絡まれそうになってイザークおじさん這々の体でママを送って来てくれて…。流石に「頼むからもうあそこへは来ないでくれ」って頭下げてたよね」

「だって…」

「もう、ビックしたわよ。頭からお酒かぶって全身お酒臭いユーリカをイザークが送って来た時は!」

「…ぼくの言葉に腹を立てた常連さんに、ぶどう酒をかけられちゃったんだ。どこの奥様だか知らねえがその失礼な口を慎め!…ってね。あの時は頭にカアッと血が上ってたから気づかなかったけど、随分と失礼なことを言ったな…って翌日お店が開く前にマスターに謝りに行ったよ。そしたらマスターに「あなたの気持ちは分かるし、イザークに関しては私も少なからずあなたと同じ気持ちだ。イザークはいつまでもこんな所で働いている人間ではない。だけど、今度もしまた常連とあなたの間に何かあった時に、私はあなたの身の安全の責任を持てないから、どうかもうここへは来ないでほしい」って逆に頭を下げられちゃった」
ーーあれからずっとイザークも、ぼくのこと避けてるし…。

ユリウスが二たび大きなため息をついて肩を落とした。

こいつはイザークのピアノに心酔していたからな。
こいつなりに必死でイザークに音楽の世界に戻ってもらおうと思っていたのだろう。

だけど…。そんなユリウスを避けるイザークの気持ちも分からなくはない。イザークは実はプライドの高い男だから。
今の自分を他の誰よりもユリウスには見られたくないのだろうな。

折を見て…あいつを訪ねてみるか。
人の一生は短いようで長い とさっきあのおっさんは言っていたけど、その逆も然りだ。イザークだって今のモラトリアムを終了させて、そろそろ人生の残り時間というものを考え始めてもいい頃だ。
様々な失意も挫折も経験した今の俺の言葉ならば、もしかしたらあいつにも刺さるものがあるかもしれないな。

©2018sukeki4

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