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第八十三話
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「クラウス・ゾンマーシュミット、くたばらずに生きてたか!」

早速翌日の夕刻近くにヘルマン・ヴィルクリヒが楽器店にやって来た。

今は聖セバスチャンの校長になっているらしい。

店に来ていた生徒たちからも「校長先生」「校長先生」と声をかけられ中々慕われているようだ。
生徒たちに相談されるままに選曲やエチュード集のアドバイスなどしたりして、自ら接客を買って出て、閉店までの時間を過ごしていた。

「んじゃ、行くぞ」
シャッターを下ろし、二人連れだってあいつの住まいへと向かう。

「昔を思い出すな」

「あー、あいつの誕生日の」

あの時の俺は、まだ10代で、ゼバスの学生で…。
ストラディバリを手に、ダーヴィトとこいつと三人で、アーレンスマイヤ家の屋敷へ行ったんだっけ。

「ハハ…」

「何だよ?」

「いや…。随分と時間が経ったものだなあと思って」

「まぁなあ。言われてみりゃあの時の俺はちょうど今のお前さんぐらいだったからな」

しみじみそう言ったヴィルクリヒを見る。相応に歳を重ね、目の端には皺が刻まれ、髪にも白いものが混じり始めている。
だけど、それは奴が重ねて来た人生そのもので、生徒たちと話している時に目尻に寄る皺も、柔らかなウェーブヘアに混じる白いものも、長い指の硬いパイプだこも、奴の刻んだ人生そのもので、とても好ましいように思えた。

「そんな見んなよ。照れるだろ」

俺の視線にヴィルクリヒが少し決まり悪そうな顔を浮かべる。

「いや、あんたも老けたなぁと思ってさ」

「あぁん?」

ヴィルクリヒの俺の首にかけた手に力が入る。

「やめろ…やめろって…苦しい。あはは」

「当たり前だ!俺ぁな、堅実に着々と年齢とキャリアを重ね、今や校長先生だ!校長!どうだ?いい感じに渋みが出てきただろう?んー?」

同意を迫りヴィルクリヒの腕に力がこもる。

「イテテ…だから苦しいって!」

「渋くてカッコいいと言え!」

「わーかった、わかりました。渋く時を重ねたヘルマン・ヴィルクリヒ先生!俺もあなたのように歳を重ねていきたいです!これでいいか?」

「よーし!だろう?だろう〜?」

調子に乗り尚もヴィルクリヒが腕に力を入れ俺に同意を求める。イテテ…この馬鹿力め!

「だーかーらー、手を離せって!苦しいし気色悪いわ!いい歳こいたおっさん通し」

「んだよ。つれない奴だな。…ホラよ」

いきなりヴィルクリヒが力を込めてロックしていた手を離したものだから、思わず二、三歩よろめいてつんのめる。

「急に離すな!ばかたれが」

「何だよ。離せと言ったり離すなと言ったり。…お前リーザよりも面倒くさい男だな」

「思春期女子と一緒にするな!ってか、あいつの娘とも…仲いいんだな」

「そりゃそうさ。離婚して母娘して戻って来て…こんな小さな頃から見守ってるんだ。気持ちだけはおじいちゃんみたいなものだな」

リーザのことを語るヴィルクリヒの目が細くなり目尻に皺がよる。

「そうか…。幸せだな。あいつも…リーザも」

「ま、尤も。れっきとしたおじいちゃまは、矍鑠として健在だけどな」

「あいつから聞いたけど…すげえな。だって俺がいた頃は寝たきりだったぞ」

「その寝たきりだった数年を今になって取り戻してるかのようだよ。あの勢いじゃ…100まで行くな」

「ふうん…。また…会いたいな」

思わずその言葉が口をついて出た。
威圧感半端ねぇし、一緒にいて楽しい…というタイプでは決してないんだが、俺はあの人が嫌いじゃなかった。

「会ってやればいいさ。彼も喜ぶだろう」

そうこうしているうちにユリウスたちのアパートに到着した。

ヘルマンがレナーテさんの住まいの方の呼び鈴を鳴らす。

「いらっしゃい」

「やあ」

玄関でまるで夫婦のようにキスを交わし合う。

そんな二人の奥からリーザが出てきてひょっこり顔を出した。

「いらっしゃい、アレクセイ。さ、入って入って!ママも待ってるよ」

玄関先でいちゃつく二人を尻目に、リーザに手を引かれ室内にお邪魔する。

「いらっしゃい!アレクセイ。お仕事お疲れ様」

ユリウスがテーブルの支度をしていた。
長い髪をゆるい三つ編みにしてスカーフで覆い、エプロンを掛けたユリウスは、昔のお嬢様でも再会した時の(凄まじいことにはなってたが)ワーキングウーマンでもなく、なんというか…普通の奥さんみたいな寛いで肩の抜けた、うん、素のユリウスという感じがした。
顔色もいいし、声も元の綺麗なソプラノに戻っている。すっかり風邪からも回復しているようだ。
思わずじっと見とれている俺の視線に少しはにかみながら、「なぁに?アレクセイ」と小首を傾げて聞いてきたユリウスの腰を抱き寄せる。

「風邪よくなったんだな」

耳元で囁いてこめかみにキスをする。嬉しそうにユリウスが小さく頷いて口付けられたこめかみを俺の頰へすり寄せた。

「おかげさまで。あなたが風邪を引き受けてくれたおかげだね。さ、掛けて」

ユリウスに椅子を勧められた。

二つ並べたテーブルには大きな白いリネンが掛かっておりその上にはいい匂いを漂わせた料理の皿が並んでいた。
どれも家庭の気取らない温かなメニューで、それは俺の心もなんだかとてもほっこりとした気分にさせてくれた。

「ごめんな、手ぶらで来ちまった」

「いいよ。一昨日もらったリンゴもまだ沢山あるし。これからもそんな気使わないで手ぶらで来て」

「いーんだよ!その代わり時々女手では回らないことを手伝ってやれば」

玄関でいちゃついていたヴィルクリヒが(漸く)レナーテさんの腰を抱いて現れた。

「もう!おばあちゃまも先生も遅いよ!せっかく熱々だったのが冷めちゃう」

「ハハ…。悪い悪い。お!美味そうだなあ」

「頂きましょう。ヘルマン、祈りの言葉を」

銘々席に着き、ヴィルクリヒの祈りの言葉で祈りを捧げ、この温かな晩餐は始まった。

〜〜〜〜

「ねえ、美味しい?」

料理を頬張る俺の顔をユリウスが真剣な面持ちで眺める。

「うん…うん。美味いよ!」

学生の頃、ゼバスの学食で食べた懐かしい料理の数々(ただし、こっちの方が数段美味い)に、俺は舌鼓を打つ。

「よかったぁ!」

俺の言葉にユリウスの顔がほころんだ。

「今日のテーブルはね、アレクセイのためにぜーんぶママが用意したんだよ」

「随分張り切って…また熱がぶり返すんじゃないかと心配したわ」

母親と娘からやんやとからかわれて頰を赤らめながら、「今日は…病み上がりでお休みをもらっていたから」と言ってはにかんだ笑顔を浮かべるユリウスに改めて愛おしさがこみ上げてくる。

「料理とか…よくするのか?」

俺の質問にユリウスがコクリと頷く。

「忙しい時や、出張の時は、母さんやゲルトルートに助けてもらうけど」

「料理も掃除も洗濯も、きちんと仕込んでありますからね!」

「ウチは自分でやれることは皆んな自分でやるのよ。おばあちゃまもママも、私だって」

「リーザは学業成績も優秀だけど、家のことも完璧にこなせるんだ。この子はぼくと母さんの最高傑作だよ!」

「ピアノの腕も中々のものだしな。勉学や家のこととちゃんと両立していて、大した子だよ」

大人たちに手放しで褒められた嬉しさとこそばゆさに、リーザの年よりやや大人びた表情が年相応の笑顔になった。

「ママ、リーザの笑った顔大好き」
ユリウスが娘の滑らかな頰を指先でつついた。

「リーザも、ママの笑った顔大好き」
母親から優しく頰に触れられた娘の笑顔がますます弾ける。

この母娘は本当に仲が良い。
見ていて微笑ましくなる。

「何ニヤついてんだよ」

さぞかしヤニ下がったニヤケ面を下げてたのだろう。隣のヴィルクリヒがそう言って俺を肘でつついた。

「うるせえ!…お前もだろ」

「まぁな。…でも彼女らを見ていると…そういう顔になるよなあ」

同感だ。

彼女たちの築き上げてきた幸せに、俺も加わる。過分な幸福に思わず気後れすらしてくる。

〜〜〜〜

「…俺、いいのかな?」

「あ?何が」

食事が終わりデザートを用意する合間に、二人でベランダに出て一服する。

「その…彼女たちの中に、後からノコノコと…」

うまくその気持ちを口に出来ず口ごもりながらそう言った俺の脳天にヘルマンのパイプの一撃が降ってきた。

「痛え!」

「アホか!…お前がいて、いいに決まってるだろ!そんなことをわざわざ俺に言わすな。この馬鹿者が。ハー!やっぱお前リーザ並みにめんどくさいな」

「えー何何?リーザがどうしたの〜?」

俺たちの間に割って入ってきたリーザに、「んん?コイツの中身は思春期のまんまだって言ったのさ」とヴィルクリヒが答える。

「なにそれ〜。ま、いいや。今デザート用意してるから。今日のはね、リーザが腕を振るったのよ!」

「ほう。メニューは何だい?パティシエールリーザ」

戯けて聞いたヴィルクリヒに

「タルト・タタン!おばあちゃまの直伝よ」

と整った鼻をそびやかせてリーザが答える。

「ほう。大したもんだな。そんなものも作れるのか」

「アレクセイがお見舞いに持ってきてくれたリンゴで作ったのよ」

「アレクセイ〜、先生!デザートが用意出来たよ。あれ?アレクセイ頭が…」

俺たちを呼びにユリウスもベランダにやって来た。
先程ヴィルクリヒにパイプで叩かれて灰を被った俺の頭にユリウスの指が伸びる。

「ん?灰?」

「ああ。さっきコイツがしょーもないことゴニョゴニョ言ってたから、俺様が喝を入れてやったのさ」

シレッとヴィルクリヒが答える。

「えー?!痛そう。やだもう先生ったら野蛮!…アレクセイ火傷しなかった?髪焦げてない?」

ヴィルクリヒの手荒い喝にリーザが眉を潜める。

「ん。火傷はしてないよ。髪も焦げてないようだ」

「そう。よかった」

「オーバーだな、リーザは」

「オーバーなんかじゃありません!まさかゼバスの学生にもそんなことをしてないでしょうね?」

「さあな。…それよりリーザお前さんの今の口調、おばあちゃんにそっくりだぞ?」

「そりゃそうですよーだ。だって孫だもの。ねえ、それより!早く!コーヒー冷めちゃうよ」

「おいおい、年寄りを急かすなよ」

リーザがヴィルクリヒの腕を取ってダイニングへと引っ張って行った。

「ハハ…仲いいんだな」

「まぁね。小さい頃からそばにいるし。あの子にとってはおじいちゃんが二人いるようなものかな。あ!灰…」
ーーちょっと屈んで。ウン。

俺の頭の灰を丁寧に払ってくれた。
細い指の感触がこそばゆい。

「はい。綺麗になった。…アレクセイの髪、相変わらずサラサラで気持ちいい」

「お前の髪も、柔らかくていい匂いがして…大好きだ」

ユリウスの金色に輝くお下げを手に取り鼻先に持っていく。

「いい香りがする」

「え?…そう?」

「ほら、嗅いでみろ」

その毛先をユリウスの鼻先に持って行った。

「くすぐったいよ。…あ!」

鼻先に持って行った柔らかな髪の毛先にこそばゆそうにしていたユリウスが、ふと顔を上げた。

「ん?あ!」

冬の夜空に突如現れた一閃の流れ星。

それは長い尾を引いて、俺たちの頭上をゆっくりと流れていき、夜空へ消えて行った。

「…見た?」

「ああ」

「アレクセイ…何か願った?」

そう言ってユリウスが俺を見上げる。

「まぁな」

ユリウスの腰を両手で抱き寄せた俺が、見上げたあいつの碧の瞳に答える。

「何を願ったの?」

「内緒だ」

「ええ〜?!ケチ」

「じゃあお前は何を願ったんだよ」

「教えなーい」

ユリウスが少し爪先立ちになって俺の唇に口づけた。

ヒンヤリとした冬の大気に、口付けたあいつの唇だけがほんのりと温かい。

聞かなくても分かるさ。
きっと
俺の願ったことと、こいつの願ったことは、同じだった筈だから。

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©2018sukeki4

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