第八十二話
翌日の午後、レナーテさんがユリウスの娘と連れ立って楽器屋にやって来た。
「昨日はごめんなさい。大騒ぎしてしまって…」
「いや…こちらこそ…だな。あられもないところを…」
互いにヘゴモゴと謝り合ってるユリウスの娘と俺に、レナーテさんがおかしくてたまらないというようにクスクスと笑ってる。
「二人とも…とんだ初対面だったわね…ホホ…」
なんだかなぁ…。
〜〜〜〜
昨日ーー
「ただいま〜。ママ、具合どう?」
ベッドに臥せったユリウスに俺が覆いかぶさるように口づけしていたところに、なんとバルコニーから娘が入って来た。
(後で知ったが、ユリウスの部屋とレナーテさんの部屋はバルコニーから出入りが出来るらしい)
いきなり視界に入って来た母親に覆いかぶさった見ず知らずの男を、この娘は当たり前だが母親を襲った不法侵入者だと思ったらしい。
ユリウスと瓜二つの顔が凍りつき、母親譲りの碧の瞳が驚愕に見開かれ、その一瞬後に、「ママ…え?…キャーーー!誰か!!おばあちゃま!」 と絹を引き裂くような悲鳴と共に隣室へ走り去って行った。
…取り込んで両手に抱えていた洗濯物がベランダに散乱している。
「おい、ちょ…!」
慌てて俺が娘が出て行ったベランダの方へ歩み寄ると、顔面蒼白で顔を引きつらせ、それぞれ手に箒とフライパンを構えたレナーテさんと娘に鉢合わせた。
二人が手にした得物を振りかぶったのと、「わー!待て!俺だ!クラウスだ」と俺が叫んだのと「母さんリーザストップ!」とユリウスがかすれ声で叫んだのは同時だった。
〜〜〜〜
「よくよく考えてみれば…ヴィシュヌも大人しくしているし、よーく顔を見たら…ママがずっと心に秘めていた好い人だって…分かったのにね。ごめんなさい、早とちりしちゃって」
決まり悪そうにユリウスの娘が俺にペコリと頭を下げた。
「いや…あの反応は…当然だ。俺こそすまん」
「それにしても驚いたわ。私はね、あなたが死んでしまったとばかり思っていたから…もう驚いたの何のって。ユーリカったら…こんな大事なこと秘密にしてるなんて」
「おばあちゃまはずっとデザイン入稿で缶詰めになっていたからでしょう?…リーザは知ってたよ。ママと見知らぬハンサムとの白昼の再会のロマンス!もう学校中の噂だもの!ママ本人の口から話してくれるまであれこれ聞くのは我慢してたら…こんな対面になっちゃった。改めて初めまして。…ユリウスの娘のエリーザベトです。リーザって呼んで下さいね」
ユリウスの娘が名乗って俺に人なつこい笑みを向け、握手の手を差し出した。
「あ、ああ。初めまして。クラウス・ゾンマーシュミット…いや、アレクセイ・ミハイロフだ。よろしく」
俺も名乗り差し出された手を握り返す。
最初の結婚で授かった娘だというが、見た目はまるで生き写したかのようにユリウスと、そして傍らの祖母であるレナーテさんと瓜二つだ。
「そっくりでしょう?」
俺の心中を見透かしたようにレナーテさんがそう言って孫の頭を優しく抱き寄せた。
「…ですね」
「うちはみーんな、この顔なの。髪はブロンドで瞳はブルー。ユーリカも、リーザも、それから私の母だった女性もね」
もし…俺とユリウスの間に…娘が出来たら…、その娘も同じ顔に、なるのかな。
「あ!今ミハイロフさん自分とママとの間に出来た娘を想像したでしょう?」
ドンピシャの所をリーザに指摘される。
う!…勘のいい娘だぜ。
「あなたとの間に娘ができてもきっと同じ顔よ。ホホホ」
レナーテさんまで孫の際どい発言に呑気に笑ってる。
…そこ笑うとこじゃないだろう。
なんだかなぁ…。調子狂うぜ。
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「…そういやリーザは…さっきよくよく見れば…と、俺の顔を知っている風なことを言ってたな?」
気まずさを誤魔化すように話題を変えた。俺とユリウスは写真の類は一切残していなかった。そんな俺に、リーザがこともなげに答える。
「ああ、それはね」
〜〜〜〜
1918年―
「ねえ、おばあちゃま。これ、なんだろう?」
リーザが一枚の新聞の切り抜きをレナーテに差し出した。
それは、先日新生ロシアとドイツの間で締結されたブレスト・リトフスク条約の新聞記事の写真の部分を切り取ったものだった。
「あら…!リーザ、これどこで見つけたの?」
「スプリングソナタの楽譜に挟まってた。これ、ママが挟んだのかな?」
「そうね」
「…ブックマークがわりかな」
「違うわ、リーザ。この条約メンバーの中にね、あなたのママの…昔の恋人がいるのよ。ユーリカが今のあなたよりもうちょっとお姉さんだった頃にね、おつきあいしていた好い人がいるの」
「えー?!ホント?…ねえ、どの人?どの人?」
「ドイツ側のメンバーではないわ。…ロシアの方よ」
そう言ってレナーテがその写真の中でも一際若く背の高い一人の男性の凛々しい横顔を指差した。
「えー?!やだカッコいい!ママ面食いだったんだね。…でもなんでロシア側?」
訝しげに首を傾げたリーザに
「彼はね、クラウス・ゾンマーシュミットという偽名で…当時ロシアを追われてここレーゲンスブルクに亡命していた革命家だったの。名前を変え、素性を隠し聖セバスチャンのヴァイオリン科に在籍していてね、それでユーリカと出会ったの」
と懐かしそうに当時を回顧しながら孫に語って聞かせる。
「ママ…本当は、この人と一緒になりたかったんだよ…ね」
じっとレナーテの話に耳を傾けていたリーザが、神妙な顔で切り抜きの写真に視線を落としてぽつりと言う。
「そうね…。そうだったかも。でも、二人とも…いつか別れて互いの道を進んでいくと納得した上で付き合っていたみたい。…切ないわね。あとね、言っとくけど、リーザ。ユーリカはあなたのお父様のことも本心からお慕いしていたのよ。それは…そばでずっとあの子を見ていたおばあちゃまが保証するわ」
「うん…。分かってる。ありがと、おばあちゃま」
ーーこれ、やっぱりここにそのまま挟んでおいた方がいいよね。
ーーそうね。そうしてあげて。あ、ちなみにね、ユーリカが面食いと言うよりも、この彼の方がユーリカにベタ惚れだったのよ。あの頃のあの子、本当に愛らしくて綺麗な女の子だったから。
〜〜〜〜
「ってね。ねぇミハイロフさん、ママに一目惚れだったのでしょう?」
「あー、アレクセイでいいぜ。ま…な。少女の頃のあいつは、ホンットお前さんによく似てるよ。…なんだか感慨無量だな。そりゃ俺も歳とるわけだな」
こんなに大きな娘がいるほど、時が経ったということだ。
俺にも。
あいつにも。
「え〜?アレクセイそんなおじさんじゃないよ。若いよ。それにハンサムだし。ママとお似合いだよ」
「…大人をからかうんじゃない」
なんだか…照れるな。
「ホントだよ。…お父様よりも、よっぽどお似合い。やっぱりこれが正解だったんだよ。…ママの横に並ぶべき人は…アレクセイだったんだよ」
「リーザ…」
返す言葉もなく思わずレナーテさんと顔を見合わせてしまった。
概ね好意的に迎えられてはいるものの…、リーザにとっちゃ俺はやっぱ微妙な存在…だよな。
「…お前の母さんは、優しくていい人だったと、彼との出会いには心から感謝しているって…言ってたぞ」
これは本当だ。昨日レーゲンスブルクへ戻る道すがら、あれから16年間にあったことを話してくれたユリウスが、別れた夫に対して語っていたことそのままだ。
少し考えるような面持ちになってリーザが話し出す。
「うん。まあその通り。優しくて、いい人。だけどそれだけ。育ちが良くて大事に育てられたからかな、甘ったれたところがあって…それでいろんなものを壊して失った。ママと私との家庭や、ママの信頼や代々続けていた事業や家も…。会社も潰して家も破産して…今は新しい家族…今の奥さんとその間に出来た息子さんと、親類を頼ってスイスで暮らしてるよ。私はお父様達がスイスへ移住して以来会ってない。…悪い人じゃないけど、結局あの人みたいな器の小さい人には、ママは手に余ったってことね」
ユリウスが、この娘が幼い時に夫の結婚前からの愛人と隠し子の存在を知ることとなり、離婚したと聞いていたが…、なだけにさすがに手厳しい評価だな。
「…でも、彼の血を引く子供たちは、皆賢くて優しくて…素晴らしい子だわ。あなたも、それからアニエスも」
孫娘の父親に対する憤懣を和らげるようにレナーテさんがそう言ってリーザの頭を抱き寄せ、宥めるように頰を優しく撫でた。
「アニエス?」
「私の異母姉。お父様がママとの結婚前に今の奥様との間に作った子供。…色々すったもんだの末に数年前からアーレンスマイヤ家の書生としてあの屋敷で暮らしていて、そのままこちらで女学校を出て会計士の資格を取って、アーレンスマイヤ商会で働いてる。優しくて親切で頭も良くて…お父様のママへの裏切りは…許し難いけど、でも私の腹違いのお姉さんがアニエスで良かったと、それは心から思ってる」
女性の書生とは、また珍しいな。てか、なさぬ仲の娘を書生として預かるとは…まあ、あいつ以下アーレンマイヤ家の人間も…相変わらずお人好しというか桁外れに器がデカイと言うか…。
「そか。女性で会計士なんて、頭いいんだな」
「そうね。アニエスも、それからリーザもね。リーザも女学校では成績は常にトップクラスなのよ。おばあちゃまも、お母さんも、鼻が高いわ。…きっとあなた方のお父様の、サンデュ家の優秀な血筋のお陰ね」
「私はそうは思わないけど…」
納得いきかねるというふうに口を尖らせているが、俺の前で祖母におおっぴらに優秀であることを褒められたリーザは満更悪い気もしないようだ。
「もう、やめよ!この話は終わり!!そんなことより若かった頃のアレクセイとママの話が聞きたいな!ねえ、アレクセイとママ、付き合っていた時はどんなデートしてたの?やっぱり交際は秘密だったんだよね?」
「まぁな。ユリウスは縁談を募っている身だったから。さしずめ俺は美しい花につく悪い虫ってとこだな」
「ふふ。虫も寄らないような花なんて花とは言えないわ。おばあちゃまはね、そんな二人の甘酸っぱ〜い交際の手助けを陰に日向にしてたのよ」
「…その節は世話になりました」
「どういたしまして。ふふ…」
「えー?どんな?どんな手助け?それ聞きたーい」
さすが年頃の娘と言うか…自分の母親の若かりし頃のロマンスに興味深々で食いついてくる。
「ホホ…。お忍びデートの既成事実作りとか。ユーリカと一緒に屋敷を出てね、隣駅で別れるの。ユーリカはそのまま列車でクラウスと待ち合わせて、遠出のデートよ。二人の間のメッセンジャーも散々やったわね。懐かしいわぁ」
レナーテさんの碧の瞳が往時を思い出しながら遠くを見つめる。
「そのお忍びデートにかこつけて…ちゃっかり自分もデートしてたじゃないですか」
「あら?知ってたの?イヤね、おしゃべりは一体どっち?」
「両方からですよ!」
「え?それってヴィルクリヒ先生?」
「そうよ。他に誰かいて?」
シレッと孫に答えるあたり…。
「まだ続いてんだな」
「あら、随分ね。ええ、よく夕ご飯を食べに来るわ。私とヘルマンとユーリカとリーザの四人で食卓を囲むの。ヘルマンには、会った?」
「いえ…まだです」
「あら、そうなの。この街で再会したのは、ユーリカとダーヴィトと楽器屋のご主人と私たち…だけ?」
「ええまぁ。まだ来て3日なんで」
「それもそうね。そうだ!ユーリカの風邪が治ったら夕ご飯食べにいらっしゃいな。ヘルマンに誘わせるわ。楽器屋さんにいるのよね」
「ええまぁ」
「わぁ!楽しみ!テーブル、足りないね。ウチから運んでくるよ。二つ合わせよう」
「そうね。あの無駄に大きなテーブルクロス、何枚かは切らずにそのまま残しといて良かったわね」
「アレクセイ、何かリクエストある?好きなものとか、嫌いなものとか」
「いや…特に」
「楽しみだなぁ。こうなったら何としてでもママには早く風邪治して貰わないと」
「それは大丈夫よね。…リーザの話によるとどうやらあの子の風邪はあなたが引き受けてたというし」
そう言ってレナーテさんがあいつそっくりの整った顔に意味深な笑いを浮かべた。
おい!年頃の娘の前だそ!
…なーんだか、調子狂うんだよなぁ。
ま、いいや。
「すいませーん。ちょっといいですか」
ゼバスの学生で混み出した店内から声がかかる。
「あら、ごめんなさいね。長居しちゃって。お邪魔しました。帰りましょ、リーザ」
「そうだね。ママも目覚ましたかも」
そう言って接客にかかる俺に小さく手を振ると、このそっくりな祖母と孫は連れ立って楽器屋を後にして行った。