第八十一話
多少情けなくもないが、ユリウスと再びレーゲンスブルクに戻って来た俺は、結局楽器屋のおっさんに頭を下げ、住み込みで雇ってもらう事に決まった。
(ユリウスも一緒に頭を下げてくれた。おっさんは、「おまえさんが昔、アーレンスマイヤ家のお嬢さんと付き合っていたのは…まぁ、皆知ってたよ。…よかったな。お二人さん」と祝福の言葉と共に快く俺を受け入れてくれた)
楽器屋の二階にひとまず落ち着く。
僅かな手荷物を空け、ベッドにごろりと身を投げ出す。
―― は~。すさまじくドラマチックな…一日だったな。
偶然手にしたフィガロの記事にあいつを見つけた日から今日までの激動の日々を振り返る。
もう、無理だと思っていた。
手が届かない想いだと諦めていた。
この苦い痛みを一生胸に抱えて生きるのだと思っていた。
結末はそうではなかった。
諦めた俺の背中を、スヴェーチャが強く押し出してくれた。
早とちりして逃げ去るようにレーゲンスブルクを後にした俺を、ユリウスはなりふり構わず必死に追いかけてきてくれた。
そして今この瞬間がある。
深い充足感と共に身体の奥底から漲る昂り。
16年振りに触れたあいつ。
しなやかな身体つき。
滑らかで柔らかな髪と肌。
抜けるようなソプラノ。
甘い香り。
そして、16年の月日が齎した成熟した女性としての色香を伴った美しさ。
思わずベッドの上で年甲斐もなく身もだえする。
所構わず叫びたい衝動に駆られる。
―― 寝るか…。
必死でその衝動を抑え込み、大きく深呼吸し夜着に着替える。
寝具を引き被ろうとして、ふと思い立ち居住まいを正して、10数年ぶりぐらいに十字を切り真摯な祈りの言葉を口にした。
俺に代わってずっと祈りを捧げ続けていてくれたスヴェーチャ。
もう、俺のそばにあいつはいないから・・・・だからこれからは俺自身が、祈りを、生かされている「今」への感謝を、めぐり合った奇跡への感謝への祈りを捧げなければ…と思ったんだ。
―― 明日、ここに来るからね。
そう言ったあいつ。
昔のような別れ際の口づけ。
―― 明日…また会える。…明日が楽しみだ。
明日を待ち望むなんて、こんな想いは…もう何年振りだろう。
心からの充足に満たされ、俺の(恐らく)生涯で最もドラマチックな一日は幕を閉じた。
翌日――
―― 来ねえ!
「明日、ここに来るからね」というあいつの言葉に、浮足立って今日という日を迎えた俺を嘲うかのように、時が無常に過ぎていく。
まぁ…あいつも今は実業家として忙しく働く身だから…と、己を宥めつつ店の整理整頓をしたり、掃除したり、バックヤードに山と積もった伝票の整理をして過ごすうちに、あっという間に昼を回ってしまった。
ゼバスの学生たちの訪れる放課後の一番忙しい時間帯をやり過ごすと、もう日はかなり西に傾いていた。
スツールに掛けた俺の足がいらいらと貧乏ゆすりを始める。
そこへダーヴィトがひょっこり顔を出した。
思わずスツールから腰を浮かす。
「おう」
「おう」
短い挨拶を交わし、固く抱き合いお互いの背中を叩き合う。
「…何年振りだ?」
「…16年…かな」
「そうか…」
「ああ」
「お前…あまり変わらないな」
「お前も…な。あのロシアの激動の荒波にもまれて…もっと老け込んでるかと思ったよ。…昔通りの、お前で…なんだか安心したよ」
「そうか?…おっさんには、老けたなって言われたぜ?」
「そりゃ…。ゼバスにいた頃だから、あのときゃまだ10代だぜ?そりゃ多少は…な」
「だよなぁ」
アハハハ…。
かつての親友との、他愛もない会話が、心に沁みた。
こういう時を持てる幸せに身震いが起こる。
―― そうそう。聞いたよ。お前らのまるで映画のような再会劇の話。よかったな。…わざわざここに来たのはな、無論お前さんとの再会というのもあるけど…大事なことを知らせに来たんだ。ユリウス、昨晩から風邪ひいて熱出して…寝込んでるみたいなんだよ。お前さん、あいつのアパート、訪ねてやれよ。
そういうと、ダーヴィトが勝手知ったるカウンターにひょいと手を伸ばしその辺のメモ用紙を取るとスラスラとユリウスの住まいまでの地図を描いて寄越し、「じゃな」と昔と変わらない飄々とした様子で楽器屋を後にして行った。
途中市場に立ち寄って見舞いの品を買い求め、ダーヴィトの書いてくれた地図を頼りにあいつの住まいを訪ねる。
アーレンスマイヤ屋敷からそう離れていない瀟洒なメゾネットタイプのアパートだった。
メモに「向かって左がユリウスの部屋だ。隣はレナーテさんの住まい」と矢印が引っ張って注意書きが書かれていた。
左側の呼び鈴を鳴らす。
中から大型犬と思われる犬の野太い声と共に聞き覚えのある声で返事があった。
「はい」
出てきたのは、一頭のジャーマンシェパードと、俺がいた頃からユリウスに仕えていた女中だった。
当たり前だが相応に齢を重ね、昔はお仕着せにお下げ姿だったが、今はお団子頭で、白いブラウスに細身のスカート姿に糊の効いた白いエプロンをかけていた。
俺をみとめたその女中が(確か名前はゲルトルートだ!)、少し驚いたような顔になる。
「…ご無沙汰しております。クラウス…さん、でしたよね」
「…お久しぶりです」
ぎこちなく玄関で挨拶を交わす。
「どうぞ」
俺に向かって野太い声で吠え立て、ゲルトルートの足元をしきりに掘るような仕草を見せる犬に、「ヴィシュヌ、伏せ。ハウス」と指示を出すと、ゲルトルートはすんなりと俺を部屋へ入れてくれた。
「お嬢様、お嬢様がずーーっと気を揉んでらした方が…いらしてくれましたよ」
奥の方へ呼びかける。
「どうぞ…」
奥のドア越しから昨日のソプラノとは見る影も(聞く影も)ない掠れた鼻声がした。
「昨夜からお風邪を召されて…熱を出して臥せっておられたのですよ。…レナーテさんも今イースターのノベルティのデザインの追い込みなので…連絡を受けてわたくしが駆け付けた次第です」
「…母さんに…今伝染すわけには…いかないから。…ごめんね。ゲルトルート…」
「いいんですよ。あ!これ、クラウスさんがお見舞いに持ってきてくださったんですよ。ほら、リンゴ。これなら召し上がることが出来ますよね?剥いて持ってまいりましょう」
鼻まで寝具を引き被ったユリウスが嬉しそうに小さく頷いて見せた。
ゲルトルートが手渡した見舞いのリンゴをユリウスにかざしてみせて、リンゴの入った紙袋を抱えてキッチンへと下がって行った。
「ユリウス…」
―― ごめんな。昨日…コートも着ずに俺を追いかけたから…だよな?
ベッドの横に腰を下ろし、枕に広がるユリウスの金の髪を指で撫で梳く。
「ううん。…明日行く…って言ったのに…ごめんね」
かすれた声でユリウスが約束を守れなかったことを詫びた。
「気にすんな。…早く直せ」
昔のように滑らかな頬を軽く指でつまんだ。熱のせいか少し熱い。
大人になったユリウスの美しい顔に、少女の頃のような笑顔が弾けた。
―― アォ…
いつの間にか俺の足元に太い尾をピンと立てた灰色の猫がやって来て、俺に身体をすり寄せて来た。
「え?こいつ…」
「シベの…子供…かな?孫…かな?子孫…だよ。子猫の頃…あの場所で、カラスにいじめられてたところを…助けてね」
「そか…」
そういや昨日レーゲンスブルクへ戻る馬上で、ユリウスの1904年から今までの話を聞いていた時に言ってたっけ。何年か前に老衰で亡くなったシベリウスの亡骸を発見して銀梅花の木の根元に手厚く葬ってやったと。
「シベによく似てるな。さっきの犬といい、随分にぎやかなんだな」
「うん…。この子はゾッケン。…ほら、靴下…履いてるでしょ?…あの犬は…ヴィシュヌ。…アレクセイが…ロシアへ帰ってから…ね、秘密警察の人間が…うちの周りを嗅ぎまわってて…心配した父様が…、軍に頼んで…訓練されたジャーマンシェパードを…寄越して下さったの。…アーレンスマイヤ家と、うちと。…先代の子は…天に召されて…あの子は、二代目」
「そうか」
「ねえ…アレクセイの話を…聞かせて。あれから…昨日までの」
「ええ?俺か…。俺の話は…大して面白くもないぞ」
苦難と失意が半分以上の思えばウルトラビターな16年だな。
「それでも…いいから」
ユリウスの澄んだ碧の瞳に促され、あれから16年の俺の話をポツリポツリと語って聞かせる。
ユリウスと別れて帰国して一年後、モスクワ蜂起に参戦したものの鎮圧軍に敗れ、死刑宣告を受けるも、なぜか終身刑に減刑され、シベリアへ流され服役していたこと。
数年後に仲間の尽力で脱獄したが、その時に不運な火災が起き、受刑者が全員焼死した事。俺もその火災で亡くなったものとされた為に却ってそれが絶好の隠れ蓑となりサンクトペテルブルクへ帰還してからも革命運動に邁進していた事。
宿願かない1917年に革命が成し遂げられ、新政府の中枢に迎え入れられた事。
新政府を担う中心人物の一員として1918年のブレスト・リトフスク条約の会議に参加した事。
だけど…それが新政府の俺の最後の大きな仕事となった事。
その年に起きたレーニン暗殺未遂事件で、身に覚えのない嫌疑をかけられ不当逮捕され、処刑される寸前で昔の仲間に助けられた事。
その後幼馴染と命からがら国を脱出し、パリへ亡命した事。
そこで幼馴染と二年程暮らしていたが、ある日新聞でお前の記事を目にしたこと。なかなか煮え切らない俺に、幼馴染の彼女が背中を押してくれて思い切ってレーゲンスブルクを訪れた事…。
俺の苦難も栄光も挫折も、ユリウスは時折頷きながら静かに耳を傾けていてくれた。
離れ離れになっていた16年を埋めるように。
「アレクセイ…」
「うん?」
「ありがとう…。ぼくに会いに…レーゲンスブルクに来てくれて…。ありがとう…生きていてくれて…」
―― あのね…二年前の…レーニンのあの事件…新聞であなたが処刑されたと知って…世界が崩れ落ちていくような絶望を味わった。…生きていて…会えなくても生きていてくれるだけで…よかったのに…なんで?…って。
かすれた声でポツリポツリとあの時の気持ちを語るユリウスが当時を思い出したのだろう。碧の瞳から溢れた涙がこめかみを伝い、豊かな金の髪を濡らしていく。
「そうか…。ごめんな…悲しませちまったな」
涙を流すユリウスに、たまらない気持ちになり指で涙を拭ってやりながら、俺の唇が額に、涙の味のする瞼に、鼻先に頬に…そして唇へと移動してゆく。
あいつの唇に俺の唇が触れる瞬間、ユリウスが「だめ…うつっちゃう」と俺のキスを寸でで止めた。
「…人にうつすと治んだよ」
俺の唇を抑えた細い指先を優しくどけると、ユリウスの唇にそっと口づける。
そんな俺の口づけを―、ユリウスもなすがままに受け入れた。
― コトン…
微かな林檎の芳香と共に皿を置く音と…忍び足のゲルトルートの足音、そしてパタンとドアを閉める音を背中に聞きながら、おれは16年振りの恋人の甘い唇に溺れていた。