第八十話 Ⅲ
言われるままに次の停車駅であたふたと列車を降りたアレクセイは、ざわつき混乱する心を必死で鎮めながら、恋人の到着を構内のベンチで待ちわびていた。
―― あいつ…。なんで!なんでだ!…なぜおれを追うんだ…。おれは…一体あいつと再会して…永遠に手の届かない存在になっちまったあいつに会って…一体どうしようというんだ!
―― あいつと再会した俺は…自分を抑えられるのだろうか。…いや、断じて…ダーヴィトを裏切る事は出来ない!でも…。いっそのこと、このままあいつに会わずにこのまま去るか…。そうだ…その方が…いいんだ。俺はあいつを…ダーヴィトを裏切る事など出来ないし…それに、あいつにもダーヴィトを、夫を裏切らせることなどさせたくない。…そうだ。そうしよう…!
逡巡の末再びボストンバッグを手にし、ベンチから立ち上がる。駅のホームに入ろうとしたアレクセイの背中に、懐かしいソプラノの声が突き刺さる。
「なにしてるの!どこいくの?」
少し怒りの色を含ませたそのソプラノの声に抗えず、アレクセイの足が止まる。
「何で行こうとするの!?待っててッて…待っててッて言ったじゃん!!」
涙声の叫びになったそのソプラノに、思わず振り返る。
ああ…。幾度夢に見たろう・・・・。
幾度その面影を心に思い描いたろう・・・・。
忘れもしない、不滅の恋人の姿。
その恋人は、肩で荒い呼吸をしながら仁王立ちし、宝石のような大きな碧の瞳に涙をいっぱいに溜め、アレクセイを睨んでいた。
必死でアレクセイを追って来たのだろう、コートも着ずに、結った髪は乱れ、鮮やかな金髪がほつれて木枯らしに舞っている。しなやかな白い足が破れた膝丈のタイトスカートからすんなりと伸びている。
「…なんで…なんで…黙って行っちゃうのよ?…バカ!」
「…それは・・・・」
涙をポロポロ零しながら自分を睨みつけるユリウスに、断腸の思いを口に仕掛けたその時―。
「う…うぅ…うわぁ~~ん」
とうとうユリウスの感情と涙の堤防が派手に決壊した。
子供のように泣きじゃくるユリウスに、慌てて弁明する。
「…お前を…お前とダーヴィトとの間に波風を立たせたくなかったんだ。…お前たち夫婦の前に今更ノコノコ現れて…お前たちに迷惑をかけたくなかったから・・・・」
「へ?」
その言葉に思わずユリウスの涙が引っ込む。呆気にとられた面もちでアレクセイの顔をまじまじ見つめる。
「誰と…誰が…夫婦?」
「だからお前と…」
「ぼくと?」
「…言わすなよ!お前とダーヴィトが夫婦で…二人の間に子供も…娘もいるって、俺は楽器屋のおっさんから聞いたんだよ!!」
あっ!
そこまで言ったところで、アレクセイはさっきの楽器屋の店主の言葉をもう一度正確に脳内で繰り返した。
― アーレンスマイヤ家の令嬢と結婚してあの家へ入ったからね。婿養子。
―― そうだ!よくよく考えたら、あのおっさんは…アーレンスマイヤ家の令嬢とダーヴィトが結婚した と言ったが、ユリウスとダーヴィトが結婚したとは一言も言ってなかった!!
アレクセイの心の内を見透かしたようにユリウスが言う。
「ダーヴィトが結婚したのは、ぼくではなくてぼくの姉様…マリア・バルバラ姉様だよ。確かに楽器屋のおじさんの言う通り、二人は仲のいい夫婦で、可愛い女の子にも恵まれて幸せに暮らしているよ。…アレクセイ、もしかしてぼくとダー…!!」
「言うな…!言うな…それ以上…。会いたかった。…ずっと…狂おしい程…お前に会いたかった!!」
ユリウスの言葉をアレクセイの固い抱擁が遮った。固く抱きしめユリウスの耳元で囁く。
彼女の白いこめかみに…抱きしめたアレクセイの熱い涙が伝った。
固く固く抱きしめられたユリウスの両手がアレクセイの背中にそっと回る。
「ずっと…会いたかった。あなたをずっと想ってた…。その気持ちは…昔も今も、永遠に変わらない。…アレクセイ、愛してる」
運命の恋人たちの唇が、16年の時を経て、再び重ね合わされた。
パチ…パチ…。
この白昼に繰り広げられたまるで映画のような再会のロマンスに、二人の周りに出来た人だかりから徐々に拍手が上がる。拍手はこのロマンスの舞台となった駅構内全体に広がり、やがてこの駅舎を揺るがすような大きな拍手となり二人を包み込んだ。
「ヒュ~~~!こんな絶世の美女に後を追わすなんざ、憎いね!この色男」
「このべっぴんさん、大切にしてやれよ」
「もう二度と手を離すなよ。お二人さん」
「お幸せに」
二人を祝福し、構内に轟く拍手と歓声と口笛と祝福の言葉に、漸く二人が我に返り気まずそうに顔を見合わせ、小さく微笑み合うと、再び固く抱き合い、長い口づけを交わした。