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第八十話 Ⅱ

「ユリアさん、電話です」

「はーい。どなたから?」

「ラッセン先生」

 

「ふぅん。なんだろ?…はい替わりました。…え?えぇ?!」

 

ユリウスの声が一オクターブ上がり、そして大きな碧の瞳は、ふた周りほど大きく見開かれた。

電話の向こうの義兄から知らされた事実は衝撃的なものだった。

ーー今しがた楽器屋の大将に会って、信じがたいことを聞いたんだ。何でも…ついさっき、クラウスがひょっこりと現れたというんだよ。で、懐かしさにかられて奴さん引き留めて暫く奴と茶を飲んで…、その時にやってきた客の対応なんかもさせつつ、暫く世間話に興じていたらしいんだが…。大将、これ幸いとこのまま暫くあそこで店番でもやってもらおうと思って話を切り出したものの、奴突然「帰る」とふらりとまた街を後にしたようで…。あ、あぁ。そうだな。僕と奴とはちょうど入れ違いだったようだから急げば…。

 

「行かなきゃ…。すいません。急用で早退します」

「え、お、おい!ちょっと?!」

 

ダーヴィトの話もそこそこに電話を切ったユリウスは、それだけ言い残すと、あっけにとられた社員たちを残し慌ただしくオフィスを駆け出して行った。

 

「おい!バッグ…!!」

 

慌てて駆け出して行ったユリウスのハンドバッグと、コートと帽子がオフィスに残された。

 

 

〜〜〜〜

 

ハァ…ハァ!

 

ーー何で?…でも、急がなきゃ…アレクセイ…アレクセイ!!

 

足の動く限りの全力で駅の方へ向かう。

途中で屋敷の厩に寄り、ヴァイオラに鞍をつける。

 

「あん…。スカートが…!いいや!」

 

ヴァイオラに跨ろうとし、タイトスカートに阻まれたユリウスが、スカートに手をかけ、思い切り引き裂いた。

 

「ヴァイオラ、お願い」

 

「ユリア様?え!?え〜?」

 

あっけにとられ口をあんぐり開けた馬丁の素っ頓狂な声を背中で聞きながら、ユリウスは愛馬を駅へと走らせた。

 

 

〜〜〜〜

 

「どっちだろう…」

 

駅の構内に着いたものの、一体レーゲンスブルグを後にしたアレクセイがどこへ行こうとしているのか見当もつかない。

構内で一瞬逡巡した後に、「ええい!こっちだ!」と運を天に任せミュンヘン行きのホームに入って行く。

 

発車間際の、ホームに停車している列車の窓を最後尾から順にのぞいて回る。

 

「アレクセイ…アレクセイ…!」

 

スカートは膝上まで破け、乱れた髪に靴は片方ヒールが折れかけたなりで男の名を呼びながら半狂乱で窓から車内を覗いて回るユリウスの姿に、ホームの人間が奇異の目を向ける。それにも構わずユリウスはアレクセイの名前を呼び続け、車内を覗いて回る。

いつしか碧の瞳から涙がこぼれ落ちているのも気づかずに…。

 

「アレクセイ!アレ…?!」

 

忘れもしない真っ直ぐの亜麻色の長い髪がユリウスの目に飛び込んできた。

 

「アレクセイ!!」

 

その人物はユリウスがいるホームとは反対側の少し離れた席に腰掛け窓の外を眺めていた。

 

「アレクセイ!!」
 

半狂乱で叫びながら窓を叩くものの、二人の間の微妙な距離に彼は振り返ることなく反対側の窓の外を眺め続けている。

ほんの僅かの距離を隔てたところで不滅の恋人が必死に自分の名を呼んでいる事にはつゆと気づかずに…。


ポーー!!

 

ユリウスの絶叫を残酷な汽笛の音がかき消した。

ゆっくりと発車する列車の窓を半狂乱で叩くものの、結局その亜麻色の髪の人物が振り返ることはなく、ユリウスの絶叫を残し、その列車はホームを出て行ってしまった。

 

「アレクセイ!」

 

ホームに残されたユリウスが屹と顔を上げて涙を拭う。

ーー絶対…絶対君に追いつく…!

 

駅のホームを走り出て再びヴァイオラに跨ると、今出たミュンヘン行きの列車をユリウスは猛然と追いかけ始めた。

 

 

〜〜〜〜

 

 

一方失意でレーゲンスブルグを後にしたアレクセイは、過ぎ去ってゆく懐かしいバイエルンの景色を感傷的な胸の痛みと共に車窓越しにぼうっと眺めていた。

 

ーーセイ…アレクセイ…。

 

思い入れのあるその光景が妄想をかき立てるのか、もう手の届かない永遠の想い人の声すら耳に蘇って来る。

 

「ふ…未練だな…」

痛む心に苦笑いし、独り言ちる。

 

―― アレクセイーーーー!アレクセイーーーーーー!!

 

「ん?」

幻聴ではない。断じて幻聴などではない。

今度は確信をもって、アレクセイが慌てて窓を押し上げる。

 

「!!」

 

「アレクセイーーーーー!!」

 

窓から顔を出したアレクセイの目に飛び込んできたのは―

 

一瞬も忘れることのなかった不滅の恋人の、馬を駆る姿だった。

 

「アレクセイーーーーー!…次の、次の駅で待っててーーーー!絶対…絶対だよ!!」

 

愛馬を必死に駆り立て、輝く金の髪を乱してそう叫ぶエウリディケが徐々に遠ざかってゆく。

 

その小さくなってゆくエウリディケに向かってアレクセイは声の限り叫んだ。

 

「分かった――――!次の駅で待ってるぞ!待ってるから…ムチャをするなーーーー!」

 

列車は馬上のエウリディケを残し、蒸気を吐きながらだんだん小さくなっていった。

©2018sukeki4

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