第八十話 Ⅰ
1920年。
16年振りのレーゲンスブルグに到着する。
冬薔薇の咲き誇る古都の街並み。
恋人と語らい口づけしたあの池に降りる通りから懐かしくその場所を見下ろす。
そしてそのまま俺の短い青春の日々を刻んだ学び舎、ゼバスの校舎の方へと足を伸ばす。
時折ー、シスターリボンやネクタイを締め楽器ケースを背負った俺の後輩たちとすれ違う。
キラキラした瞳に屈託のない笑顔。
何とも眩しい気分で奴らを見ながらそのまま校舎の裏手へ回った。
ーー オルフェウスの窓!
柵越しにあの懐かしい塔の下に立つ。
少年の日俺が塔の窓から故郷の空を求めて彼方を眺めていたあの窓は、今も健在だった。
石造りの、幾分か朽ちたその窓は相変わらずこの学び舎の塔にあり、激動の人生への口を開き続けていた。
今でも鮮明に思い出す。
塔の窓を見上げた、あいつの輝く金の頭を。
ーー ふ…。らしくもねぇか。
ユリウスはもう三十路だ。…あの頃から随分と時間が流れて行った。
青春のひと時を美しい色で彩った俺の不滅の恋人の面影が瞼の奥に浮かぶ。
あの時のまま永遠に色褪せず少女のままの俺のエウリディケ。
俺は―
スヴェーチャに背中を押されてレーゲンスブルクまでやって来たというのに、まだ残酷な現実を突き付けられることを恐れて、あいつの実家―、アーレンスマイヤ家の前を逃げるように通り過ぎて、この場所に立っていた。
〜〜〜〜
あれから、ロシアも、そしてここドイツも色々なことがあった。
きっとこの街で生活していた沢山の人間がこの街を去り、あるいは人生を終えているのだろう。
俺が当時関わった教師、司祭、或いは学校関係者、或いは…今ではいい年の壮年となったであろう元同級生らとは一人も顔を合わせることはなかった。
それを寂しく感じる反面、少しほっとしている自分がいる。
ーー …やっぱり行こう。
もう一度校舎を振り返り目に焼き付けると、俺は元来た道を引き返そうとしたその時ー。
「…クラウス…か?クラウス・ゾンマーシュミットだろう!?」
聞き覚えのある声に恐る恐る振り返る。
ーー 出た!一人目!
懐かしいレーゲンスブルクでの邂逅第一号。
それはー
この学校のすぐそばにある楽器店の親父さんだった。
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「クラウス?クラウス・ゾンマーシュミットだろう?!ハッハー!一体何年振りだ?懐かしいなあ」
楽器屋の店主の親父さんが駆け寄り、肩と言わず背中と言わずバンバン俺の身体を叩く。
俺らが学生だった頃よりもめっきり老けて、おっさんだったのがすっかり爺さんだ。
幾分か小さくなって(俺がデカくなったのもあるが)頭髪もだいぶ薄くなり、顔には皺が目立っている。
「おっさん!老けたなぁ。まだ頑張ってたのかぁ!」
俺も負けずにおっさんの肩を背中を両手で叩きかえす。
「何がおっさんだ!何が!!お前も今じゃ立派なおっさんだ!老けたなぁ、クラウス。元気にしてたか?」
「うるせー!…まぁな。おっさんも…元気そうだな」
「あぁ。見ての通りすっかり老いぼれて…あちこちガタがきてるけどな。…来いよ。久々の再会を祝して茶でも淹れてやる」
おっさんが強引に俺の肩を抱くと、あの懐かしい楽器店へ俺を招き入れた。
〜〜〜〜
楽器店は俺がいた頃と殆ど変わらなかった。
所狭しと置かれた本棚や商品棚、インフォメーションに貼られたアンサンブルのメンバー募集や演奏会のお知らせの張り紙。そして大きなレジの置かれたカウンター。
熱心に楽譜を物色するゼバスの生徒たちも健在だ。
「…懐かしいな」
「…だろう?」
ーー 入れよ。
おっさんにバックヤードに招き入れられる。
「そこ座ってろ。すまねぇがそのテーブルの上のもの、その辺にどけてくれや」
そう言い置くとおっさんは奥の湯沸かしにケトルを掛けてお茶の準備を始めた。
二〜三人がけの小さな丸テーブルには、伝票や領収証その他諸々の書類が山積みに積まれていた。テーブルのみならず椅子の上にまでそれらがはみ出して小さな山を作っている。
「ひでぇな。こりゃ」
山を崩さないようそうっとそれらを傍の長椅子の上に移動させた。
「…俺はさ、楽器屋やってるけど音楽は門外漢で楽譜も読めねえし作曲家の事も分からねえ上に、近頃はなぁ…めっきり老眼も進んで来てこういうものの整理が昔以上にはかどらなくなってなあ…」
ヨイショッと…。
盆に湯気の立ったカップを二つ載せておっさんが俺の向かいに腰かけ、首から提げていた老眼鏡を鼻に引っかけヒョイと傍の伝票を一枚摘まみ上げる。
「誰も雇ってないのかよ」
確か俺がゼバスの学生だった頃は若い店員が一人いたはずだ。
「戦争でな…兵隊にとられて死んじまった。…以来俺一人で…たまーに学生のバイト雇いながら何とかやってるけどよ、ここの学生って基本みんなおぼっちゃまだからなぁ…。バイトする必要も大してないから、中々長続きしなくてな…」
そう言っておっさんは大きなため息をついた。
あ〜…。戦争ね。
なるほど…。
当時敵国として戦火を交えていた俺の心に苦いものがこみ上げてくる。
「そりゃ…悪かったな」
「…何謝ってんだ?変な奴だな」
何も知らないおっさんが思わず謝罪の言葉が出た俺に小さく笑う。
「お前さんこそ今まで何やってたんだよ。…急に学校やめてこの街出てって、俺もびっくりしたんだぞ?ホラ!あの時お前が注文していた楽譜、とうとう渡し損ねて…ずっと俺が預かってたんだ」
おっさんがバックヤードの本棚をゴソゴソ探り始め奥から茶封筒を引っ張り出して俺に差し出した。
「あ…」
それは、俺があいつと弾こうと思って注文したまま…受け取れずに帰国してしまった楽譜だった。
「何かなあ…。処分するのも仕切れなくて…何となくここに突っ込んだままになってたんだよ。よかったよ。お前に渡せて」
ーー注文してから手渡すまでに、15年以上もかかっちまったけどな。
そう言っておっさんはニカッと笑った。
「悪かったな…。支払いずいぶん遅くなっちまった…」
懐から財布を取り出そうとした俺を「あー!いいよいいよ!」とおっさんが制する。
「何でだよ。注文したもんは払うよ。16年経っても踏み倒すわけにゃいかないよ」
尚も支払おうとする俺の財布を無理やりしまわせると、おっさんは俺の傍の旅行カバンに目をやった。
「お前も藁にすがるような思いでダーヴィトを訪ねて来たんだろ?いいよ。それはまだツケにしといてやるよ」
思いがけず耳にしたダーヴィトの名前と、おっさんの暑苦しい同情の眼差しに今度は俺が面食らう。
訝しげな視線を向けた俺におっさんは「あー!言うな言うな。分かってるよ。…お前さんも大変だったんだろうよ。どこの戦場に飛ばされてた?よく生きてここへ来たな…。ウン。他の奴らもチラホラダーヴィトを頼ってここへやって来るがな…。いくらダーヴィトがここの教職に就いていてかつあのアーレンスマイヤ家の後ろ盾があったとしてもなぁ…。そうそう来る奴来る奴皆の望みは叶えてやれなくて心苦しい思いをしているようだが…、お前さんならな。何だって親友だったからな…」勝手な独り合点をして話をどんどん進めて行く。
ダーヴィト?
教職??
アーレンスマイヤ家の後ろ盾〜〜???
最早おっさんの独り合点について行けず鳩が豆鉄砲食らったようなツラ(をしていただろう)でおっさんを見つめていた俺に、やっとおっさんが状況を飲み込み「え?お前さん…ダーヴィトに会いに来たんじゃ…ないの??」と今度はおっさんが豆鉄砲を食らったような顔で俺に聞き返す。
「ダーヴィト、ここに…いるのか?」
「ああ。ウィーンの大学を出て…ここゼバスで文学の教師をしているよ」
「その…あの…だな、アーレンスマイヤ家の後ろ盾…っていうのは…?」
「ああ。奴さん、ここ卒業してすぐアーレンスマイヤ家の令嬢と結婚してあの家へ入ったからね。婿養子。…最初はまぁ、奴さんも酔狂なと思ったけど、その後アーレンスマイヤ家もすっかり持ち直して羽振りが良くなって最早《呪われたアーレンスマイヤ家》なんてのはすっかり過去の言葉さ。奴さんも奥方と仲睦まじくて可愛いお嬢様にも恵まれてな。あぁ、そういや、お前さんも昔アーレンスマイヤ家の…おい、クラウス?聴いてるか??」
おっさんの言葉が俺の耳を上滑りして行く。
結婚!
アーレンスマイヤ家の令嬢と!!
お嬢様!!!
衝撃的な事実に呆然としている俺に「おい!クラウス」とおっさんがやや苛立った大声で俺を呼び現実に呼び戻す。
「あ、あぁ。すまん…」
そう…だったのか。あいつの姓が変わってない理由は。
…しかも、ダーヴィト…か。ハハ…ハ…。
そ、そりゃあ、あの時レーゲンスブルグから去っていった俺が…あいつのその後の生き方にどうこう言える立場ではないし…、何よりダーヴィトはいい奴だ。伴侶としては申し分のない男な上に、実家もドイツきっての大実業家だから、アーレンスマイヤ家的にもベストな縁談だったのだろう…。
だけど…。
だけど…。
「俺…行くわ…」
ーー …見たくない。知りたくなかった。ダーヴィトとあいつが、仲睦まじい夫婦としてこの街で家族となっている様子を…。帰ろう。…これ以上誰にも会わないうちに。
悄然と立ち上がりその場を後にしようとした俺をおっさんの腕が引き留める。
「待てよ!おい!ダーヴィトに会わなくていいのか?もうすぐ午後の講義が終わる時間だぞ?」
俺を引き留めてくれたおっさんの手を力なく解き、「いや…。いいんだ。行くよ。お茶、ありがとな」と立ち去ろうとする俺に尚もおっさんが引き留める。
「あー!待て!待て待て待て!!じゃあ!これはどうだ?お前さん俺のこの店を手伝う!今仕事ないんだろう?困ってるんだろう?ならば、困ってる同士、俺を助けてくれよ〜!手伝いの奴もいなくなって専門的な知識はないし、歳もとって力仕事もままならないし、俺ももういっぱいいっぱいなんだよ〜〜!頼む!お前さんならゼバスの卒業生だから楽器の知識も音楽の知識もあるし、ガタイもいいから力仕事も大丈夫だろう?なぁ頼む!何ならお前さんが新しい仕事を見つけるその繋ぎでも構わない!住む場所がないならこの店の上に住んでくれても構わない。な?どうだ?」
おっさんが俺の腕をぎゅうと握ったまま拝み倒さんばかりに頼んで来る。
いや…俺、卒業してないんだけど…な。
そうこうしているうちに、店の方から客の声が聞こえてきた。
「すいませーん。ちょっと相談に乗って頂きたいんですが〜〜」
「あ、ホラ!俺が一番困るパターンだ!頼んだぞ!」
バックヤードから押し出されるようにカウンターに出てきた俺と、ヴァイオリンケースを持ったゼバスの学生の目が合う。
「いらっしゃい…」
見慣れないおっさんに迎えられたシスターリボンをキッチリ締め謹直そうな顔をしたヴァイオリン少年は、一瞬戸惑ったのちに、
「弓を新調したいのですが…」
と俺に用件を告げた。
「弓 な。ちょっと待っててくれな…。今いくつか持ってくるから。あ、そこ荷物置いて楽器出して待ってろよ」
俺は目で商談机を指し示すと、バックヤードに向かって、「おーい!弓の在庫ってここだけか?」と叫んだ。
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結局俺は、引き留める楽器屋のおっさんを振り切って、この街を、レーゲンスブルグを後にした。
思えば一体、ここへきて…今更のこのこレーゲンスブルグへやって来て俺は…何をするつもりだったのか。何を期待していたのか。
今更俺が現れたところで、誰も歓迎する人間などいないと(まあ…楽器屋のおやっさんは歓迎してくれたが…な)、よく考えれば分かるはずなのに。。。
自分の浅はかさと甘さが、苦い後味となって心に充満する。
―― あばよ…レーゲンスブルグ。俺の青春…。
この街に足を踏み入れて、おっさん以外の知己に会わなかったのは、むしろ幸いだったのかもしれない。俺は逃げるようにこの街から立ち去って行った。