第七十九話 Ⅱ
それはほんの偶然だった。
アレクセイのタクシーに(彼は多くの亡命ロシア人がそうしていたように、タクシーの運転手の仕事に就いていた)客が忘れて行ったフィガロ紙を何の気なしにめくっていたところ、とある記事に思わず手が止まった。
文字通りその記事にー、その記事に添えられた写真にくぎ付けになる。
それは
16年前に別れた恋人の、大人になった美しい姿だった。
「女性の感性を生かし新事業。
グラースの花農園、ドイツの企業と業務提携しオーガニック化粧品のブランドを立ち上げる」
そう謳った見出しの横には、グラースの美しい薔薇をバックに、エレガントな大人の女性となったユリウスと、業務提携先の代表者なのだろう、同年代かもしくはやや年上の美しい女性と握手して微笑んでいる写真が載っていた。
写真の下には「ドイツレーゲンスブルグに本社を持つサンデュ製薬代表のユリア・フォン・アーレンスマイヤ女史と薔薇園の農園主アデール・ロマノヴァ女史」と二人の名前が記されていた。
アデール・ロマノヴァ。
この名前にも覚えがあった。
皇族ー、1918年に処刑されたロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ二世の姪で、革命前はアレクセイたち革命家の宿敵であった王党派の筆頭ユスーポフ侯爵の夫人だった女だ。
確か革命の起こる数年前に侯爵と離縁していた。皮肉なことに別れた夫の方は二月革命直後に早々に国を亡命したのに対し、離縁したがために彼女は他の皇室の人間同様クリミアのヤルタに幽閉の憂き目に遭っていた。
新聞記事のアデールの来歴に目を落とすと、昨年の英国王室が救助のために差し向けた軍艦でどうやら亡命を果たしたようだ。
その後革命前から親交のあった天才調香師エルネスト・ボーと邂逅し、その縁でグラースの農園を大規模に買い取り、そのまま彼の地に移り住み農園と工場の経営を始めたらしい。
元の夫の口利きと仲介で、この度ドイツの企業との業務提携にこぎ着けたのだという。
アデールの略歴の後に、ユリウスの略歴も紹介されていた。
ドイツバイエルン州で手広く事業を経営している旧家アーレンスマイヤ家の三女で、彼女自身も若い頃から複数の会社の経営に携わっているという。1918年に経営破綻したフランクフルトのサンデュ商会の持っていた製薬会社を買い取り、この度新たに化粧品事業に乗り出したと記されている。
「ユリウス…!」
思わず口に出したその名前が、アレクセイの抑えていた感情を思いがけず大きく揺さぶった。
〜〜〜〜
「アリョーシャ、この古新聞もう捨てるよ?」
「あ…!待ってくれ。すまん。これは…」
新聞を捨てようとしたスヴェーチャからそれを取り返す。
自分の手から古新聞を取り返し、それを手にしたままどこか心ここに在らず…という表情をしているアレクセイを、スヴェトラーナが怪訝そうに見つめていた。
アレクセイが最近変だ。
数日前に乗客が忘れていったという新聞を、日に何度も見てはここではないどこかへ想いを巡らせている。
おそらく偶然手にした新聞記事に、彼の心の平安を波立たせる何かが書かれていたのだろう。
ここパリに逃げてくるまではロシアの新政府の中枢にいた人間だ。大方その故郷ロシアの様子が記事になっていたのか?
スヴェトラーナはフランス語はおろか母語のロシア語も殆ど字は読めないから、その新聞に何が書かれているかは知る由もない。だからアレクセイの変化をそのように推測していた。
アレクセイが日に何度も目を落としている新聞の紙面を何気なくめくってみる。
主にイラストがたくさん載っている広告のページを眺めながらペラペラと紙面をめくっていたスヴェトラーナの紙面を繰る手が思わず止まった。
書かれた記事こそ読めないが、お堅い紙面に華を添えるような美しい女性たち二人が、咲き誇る薔薇を背景ににこやかに握手をしている写真に目を奪われる。
「上品で…綺麗な人たち…」
自分とおおよそ同年代ぐらいだろう。娼婦で学もなく、おまけに移民としてパリに命からがら逃れてきた自分と、この写真の女性たちの天と地、いやそれ以上の人生の違いに、詮無いことだがため息が出る。
その写真にポツリと感想を漏らすとスヴェトラーナはその新聞を閉じ、丁寧に畳んで元の位置に戻し…暫く逡巡した末、その新聞を手に取ると、部屋を後にした。
〜〜〜〜
「うーん…これと言ってロシア関連の記事はないけどなあ」
スヴェトラーナに新聞の内容を教えてくれと頼まれた、ベラルーシ出身の男が、差し出された新聞を繰っていく。
(この男は元々教師をしていたユダヤ系の男で、ロシア革命の混乱の余波を受け、パリに亡命してきたのだった。ロシア語とイディッシュ語に加えフランス語英語ドイツ語と外国語が堪能なので、この界隈のフランス語がまともに使えない移民たちの情報の窓口として、同じくマルチリンガルのアレクセイと共に何かと重宝されていた)
「そう…」
では、アレクセイは何故、一体何に心をとらわれていたのだろう?
「強いて言うなら…この記事…かな。ロシア関連というと」
その男が指差したのは、スヴェトラーナが思わずため息とともに感嘆の言葉を漏らしたあの写真の記事だった。
「ほら、この女性」
その男がアデールを指差す。
「彼女は元皇族ー、ニコライ二世の姪に当たる女性だよ。…去年のマールバラ、イギリスのジョージ5世がロシアに差し向けた軍艦で亡命出来たんだな。ホラ、スヴェーチャも覚えてない?革命の前年に暗殺された怪僧ラスプーチン。あの化け物を暗殺したユスーポフ侯爵の元妻だった人だよ」
「この人が…一体何故新聞に載っているの?」
「ああ…。それはね」
記事に細かく目を通したその男が優しく内容を噛み砕いてスヴェトラーナに説明する。
ーーこの人、プリンセス・アデールがね、フランスのグラースという所へ移住して、自分が所持している莫大な資産で農園と工場を買い取ったらしいんだ。このグラースという街は、古くから香料の原料となる花の栽培と加工が盛んな場所なんだ。近年は戦争の痛手と他の産地に押されて左前になったこのグラースの香料産業を、丸ごと居抜きで買い取ったらしいんだ。で、生産された花とそれらを加工して作った香料を、ドイツの製薬会社と共同で、上質で香りの良い化粧品を作る事業を立ち上げたのだって。ドイツ側の代表者も女性だから、ちょっと話題になったのだね。アデール姫と握手をしているこの女性が、そのドイツの製薬会社の社長さんみたいだね。バイエルンのレーゲンスブルクにある製薬会社らしいよ」
「バイエルン…」
「ドイツの南の方だね。南ドイツは森林の豊かな土地だからそれらの森林が蓄えている良質な水資源と、バーデンの鉱水も手に入りやすい。最高級のグラース産の香料とドイツの森が育んだ良質な水を利用した興味深い事業だね」
そう言えば、アリョーシャが昔亡命していた場所は…バイエルンと言っていなかっただろうか。
スヴェトラーナの女の勘がこのバイエルンの女性にチクリと反応した。
「ねぇ、この人の名前も…書いてるのでしょう?この人はなんという名前なの?」
その質問に
「えーっと…。ユリア、ユリア・フォン・アーレンスマイヤさんだって。ドイツバイエルンの古都レーゲンスブルクの古い家柄の貴族、アーレンスマイヤ家のお嬢さんらしいよ。彼女もアデール姫と同様相当お血筋がいいみたいだ」
ーーハイ。
そう答えてその男は、新聞を丁寧に畳むと、それをスヴェトラーナに返した。
ーーユリア…。
多分、間違いない。
いつかのやりとりが、アリョーシャが語った亡命先での恋人の話が、脳裏に鮮明に蘇る。
ーーその人、なんというの?
ーーえ?あ、名前ね。…ユリウスって言うんだ。
ーーユリウス?…なんか男みたいな名前だね?ドイツは女の人にもユリウスってつけるの?
ーーえ?ああ…そっか。ハハ…。これは愛称だな。本名はユリア。ユリア・フォン・アーレンスマイヤ。ユリウスってさ、ラテン語で「光り輝くもの」って意味があるんだ。で、こっちの方がなんだかあいつらしいな…と思って。野を跳ねる鹿のように闊達で、キラキラと陽光に透けるように煌めく金髪の、輝くような女の子だったんだ…。
ーーハイハイ。…ご馳走さま。
アレクセイは今になって、ロシアから遠く離れたここパリで、自分がかつて断腸の思いで振りきった過去と、思いがけない形で遭遇してしまったんだ。
〜〜〜〜
「なぁ、スヴェーチャ。俺の…」
「…探してるのはこれでしょ?ハイ」
珍しく狼狽えて声をかけてきたアレクセイに、彼が探していた(であろう)それを渡す。
「おい!勝手に…」
「ごめんなさい。…気になって…あなたが執心しているその新聞に何が書かれているのか気になって…先生に聞いたの。あたし字が読めないから…。その新聞に何が書いてあるのか…もしかしたら故郷の…ロシアの記事が載っていたのかって…」
「スヴェーチャ…」
「答えは…あたしの予想外だった。その新聞には、ロシアの記事は載っていなかった。ただ…」
呆然とスヴェーチャの話に耳を傾けているアレクセイの手からもう一度その新聞を取ると、あの記事の紙面を開いて見せた。
「これ。この記事。ロシアを亡命してフランスに移住した元皇族のお姫様と…ドイツの女性実業家が共同事業を興したんだってね。ドイツバイエルン…レーゲンスブルクの、ユリア・フォン・アーレンスマイヤさん…という名前だって、先生が記事を読んでくれた。レーゲンスブルクのユリアさんて…アレクセイが以前話してくれた…」
「ああ、そうだよ。恋人だよ」
ーー正確に言うと…元、だけどな。
そう言うとアレクセイはスヴェーチャから新聞を奪い返し、元の通り小さく畳むとそれを内ポケットにしまい込んだ。
「…本当は元…だなんて思っていないんでしょう?あの、ね」
ーーちょっと気になって、先生に聞いたんだ。彼女の名前、旧姓…だよね。ドイツでは、嫁いでも元の姓を名乗るものなのか…って。そうしたら、嫁いでも嫁ぎ先の姓に旧姓を繋げて名乗ることはあるけれども、旧姓のみを名乗っているのは、結婚前からビジネスをしていたから旧姓の方が通りがいいからか…もしくは、なんらかの形で夫と離別…死別か離婚かを経たのか、そもそも結婚をしていないか…じゃないかって言ってた。彼女、まだ独身でいる可能性高いんじゃ…」
「だから?だから何だと言うんだ?!今更俺があいつの前に姿を現して、どうなるって言うんだ?!」
思わずアレクセイが声を荒げた。
「だって…別れたくて…お互い別れたくて別れたんじゃないんでしょ?…」
「もう、15年以上も昔の話だ!あいつにも…それに俺にだってその後の人生というものが、積み上げてきた人生があるんだよ!一度途切れた時間は、道は、元の通りになんてならないんだよ!」
「じゃあ聞くけど、あんたの人生って何よ!?結局人生を費やした祖国の改革の夢は、新しい政府にお払い箱にされて、処刑寸前のとこを名前もキャリアも捨てて、命からがら逃げてきて…今ここにいるんじゃない!は?人生?笑わせないでよ!あんたはもう何も持ってない!…何も持ってないから…あんたは自由なんだよ?使命やしがらみから解放されて…これからいくらだって新しい人生をスタート出来るんだよ?それがさ…自分が自分を縛りつけて…どうするんだよ?」
ーー自分の心に正直に、一度手放したもう一つの人生を…掴みに行きなよ。
「でも…お前どうすんだよ?…俺がいないと…フランス語だってロクに…」
バシッ!
「って〜〜〜!!」
「は?あたし?あたしに託けて自分が行動できない理由にすんな!あんたがいなくたってここでなら…十分生きてけるよ!フランス語はカタコトでも、ここじゃみんなそうなんだからさ。皆と助け合って…なんとか生きてけるからさ。あたしのことは…一切考えないでいいよ」
「スヴェーチャ…」
「もし…もしも、だよ?そのレーゲンスブルクへ行って…当たって…砕けちゃったら…さ、その時は帰っといでよ。だーいじょうぶ!身体の傷がいつか癒えるように、心の傷だって時間かけりゃいつか癒えるんだから。…心の傷で命取られることなんて…滅多にないからさ。時間かかるかもしれないけど、あんたが立ち直るまで…あたしがそばにいてあげるから、さ。だから、行きなよ。レーゲンスブルク。人生に後悔を残しちゃ、ダメだよ」
「スヴェーチャ…」
「ホンットに世話がやけるなあ。…ここまで言われなきゃ…こんなに尻叩かれなきゃ…動き出せないなんて」
「すまない…」
「いいよ。貸しにしとくよ」
「ああ…。ありがとうな…」
「いいって!」
俯いたアレクセイの亜麻色の頭を、まるで小さな弟にするようにスヴェーチャが乱暴にクシャクシャと撫でた。
俯いたままスヴェーチャにされるままに頭を撫でられていたアレクセイの足元に涙の雫がポタリと落ちた。
〜〜〜〜
「じゃあ…行くわ」
「うん…」
固く抱きしめ合って、幼馴染同士が別れを惜しむ。
「どうか、神様。あたしの世話の焼けるアリョーシャをお護りください。この頼りないアリョーシャにお力をお貸しください。…アリョーシャのこれからが幸多き人生でありますように」
真摯な表情で祈りを捧げるスヴェーチャに、「おい、俺は…」と信仰を捨てたアレクセイがそれを止めさせようとする。
「うるさい!お祈りの途中なんだ!言っとくけどね、あんたの悪運が尽きなかったのも、信仰を捨てたあんたの代わりに、あたしが代わりに祈ってやってたからなんだよ!」
ーー黙ってあたしのお祈りをそこで聞いてな!
「そっか…。ありがとう。ありがとうな、スヴェーチャ」
「さ、行っておいでよ。…もう、帰ってくるなよ。…でも、辛かったら、いつでも帰っておいで」
「ハハ…。どっちなんだよ?」
「うるっさい!行け!」
「ああ」
「あたしは…ここで見送るよ。じゃあね」
「じゃあな」
最後に固い握手を交わす。
アレクセイが出て行き、二年程を過ごした寝ぐらの部屋のドアがパタンと閉まった。