第七十九話 Ⅰ
「アレックス、お疲れさん。景気はどうだ?」
「まあまあ…ってとこだな」
「なんだよ…シケてんなぁ。そんなんじゃ奥さんにアパート叩き出されっぞ」
「だからこれから夜の部のお勤めさ。ナイトクラブ…。貧乏暇なしよ。ってか、あいつかみさんじゃねえぞ。妹だ!い、も、お、と」
「え?そうなの。全然似てねえけどなぁ」
「あいつは母ちゃん似なの。美人の母ちゃんに!」
ーーんじゃな!
1920年
パリ、ベルヴィル地区。
とりわけ移民の多いこの地区で、いつものやりとりが交わされる。
アレックスと呼ばれた、仕事帰りの長身の男が与太話を切り上げると、古びた雑居ビルのうちの1つに入って行った。
男は数分後にまたその雑居ビルから出てきて、夜の仕事のために、歓楽街の方向へと向かって行く。長い亜麻色の髪は綺麗に櫛目を入れて撫で付けている。
本人はアレックスと名乗り、アメリカ人と言っているが、彼自身の持つ雰囲気が新大陸の人間とは大きく異なることからアメリカ人ではなく、彼の同居人が片言のフランス語と専らロシア語を喋っていたから、おそらく数年前の革命を逃れてロシアあたりからやって来た移民、それも物腰や流ちょうなフランス語から革命前にはかなり高い階級に属していた人間ではないかといのが、住民たちの見解だった。
とは言え、昨今のパリのこの界隈には、大戦とロシア革命前後から混乱を避けて続々とやってきた東ヨーロッパやバルト海沿岸諸国の人間、そしてフランスが長く統治し続けている北アフリカ、そして世界中あらゆるところにコミュニティを作っている華僑…。様々な人種、信条、宗教の人間が雑多に集まっていた。
そんなわけでお互いがとりわけてそれぞれのバックグラウンドに対しての詮索をすることはほとんどなかったわけだが…。
〜〜〜〜
日付が変わり、夜明けの直前に、その男は戻ってきた。
行きは一人だったが、今は女との二人連れである。
派手な装いと濃い化粧から、この女もまたパリの夜のネオンの下に咲く類の生業の女なのであろう。
女が傍の男の腕に自分の腕を絡めて、口を開く。
「アリョーシャ、あたしはマルシェに寄るから…あんた先帰って少し寝なよ。昼の仕事、つらいよ」
女の口から出た言葉は、ロシア語だった。
その言葉に、男もまたロシア語で返す。
「サンキュー。んじゃ先戻るわ、スヴェーチャ」
組んでいた腕を解き二手に分かれと、男は昨晩の寝ぐらへ、女は開き始めたばかりのマルシェの方へ歩いて行った。
〜〜〜〜
移民たちが手を加え住居に改造した古びた雑居ビルの一室に入り、スプリングの壊れかけたベッドに身を沈める。
ーーふう…
その一息は、昨夜の労働を終えた後の安堵の一息だったのか、それとも自分の人生の来し方と未来に対するため息だったのか…。
アレックス…
アレクセイ・ミハイロフはその嘆息を打ち消すように、大きく寝返りを打つと、鳶色の瞳を閉じた。
ロシアを逃れてパリへ来てから、彼は一切夢を見なくなっていた。ただただ身体が欲求するままに深い眠りの海に沈むだけ…。
かつての英雄としての栄光も挫折も、クラウスと名乗っていた短い少年時代の燦めくような日々の思い出も…全てを遮るように、いつものように彼は泥のような深い眠りへと落ちて行った。
1918年夏
レーニンを襲った三発の銃声が、アレクセイの人生を決定的に変えた。
敵対勢力の行動は早かった。
襲撃事件の翌日ー
「アレクセイ・ミハイロフ。逮捕する」
有無を言わさずルビャンカに連行され、拷問を受けた。
瀕死になって朦朧としているアレクセイの耳が、「…処刑…」「銃殺隊…」という言葉を拾った。遠ざかる意識の中で、自分命運がとうとう尽きたことを悟った。
〜〜〜〜
「…同志アレクセイ・ミハイロフ」
ーーいよいよ、最期の時か…。
アレクセイに苛烈な尋問を加えた男たちと入れ替わりに一人の男が部屋に入ってきた。
「…ふん…、なにが…同志…だよ…。わらわ…せる…ぜ」
「減らず口は健在か。…おい、立てるか?」
「…処刑室が…遠く…なけりゃ、な」
机にグッタリと突っ伏していたアレクセイが、ゆっくりと上体を持ち上げ、その声の主と対峙した。
「!!…お、まえ…!」
「ふん。やっと気づいたか。…久しいな。アレクセイ・ミハイロフ」
「…驚いた…な。チェーカーにいたとは…」
「まあな。…おい、立てるか?」
その男ー
革命前にユージンと名乗っていた彼は、アレクセイの腕の下に自分の自分の体を入れ立たせ椅子に座りなおさせた。
「ちょっとしみるが…、これで腫れは引くだろう。…肋の骨折は…今は耐えろ。後で布でも巻いて固定しておけ」
ユージンが血まみれのアレクセイのシャツを脱がすと傷だらけの身体に軟膏を塗りたくった。薬草のツンと鼻につく匂いが血の匂いのこびりついた鼻腔の奥をつく。
「…イテテ…。だいぶ…じゃねえぞ。かなり!だ」
「うるさい。黙ってろ。…これから頭と心臓撃ち抜かれるのと比べれば…こんなの撫でる程度だ」
「…?!…俺…を…どうするんだ?」
「察しの悪い男だな…。お前を逃す。すぐにモスクワを…この国を出ろ。リトアニアの方面へ行け。国境の村に、逃し屋の同志がいる。そいつを頼れ」
「…大丈夫…なの…か?」
「…働きがいいからな。…管理職なんだ。おまけに有能なんで下への統率も取れている。処刑の後でお前に年恰好の似た死体を替え玉にして書類をあげるさ。大丈夫だ。どうせ拷問と銃殺で、写真を撮ったところで顔なんて大して見分けがつかん。何とでもいいわけがつく」
「…なぜ…俺を…助ける…?」
その言葉にユージンの身体がピクリと反応する。
「なぜだ?…俺と…お前は…命を救われるほどの…接点など…」
「アナスタシアだ」
「!!」
ユージンが続ける。
「アナスタシアが…人生を賭けて救おうとした男だからだ。こんなことで命を落としたら…アナスタシアが悲しむ」
「ユージン…」
「行け!…身体は…動くな?いや、動けないのならば、シナリオ通り、この場で射殺するだけだ。捕まったら…後々面倒だからな。…夜明けまでにモスクワを出ろ!早く行け」
そういうとユージンはアレクセイに新しいシャツを手渡した。
「部屋を出て左に行き突き当たりの階段を一階下まで降りるとダストシュートがある。底にクッションがあるからまあ怪我はせんだろうが…底に棄てられた…そのクッションの正体は知らない方がいいな。鼻もつまんでおけ」
「…分かった。恩にきる。…なぁ…ユージン。お前も…一緒に…来ないか?」
「俺が?」
「ああ」
相変わらずの無表情で暫くの沈黙の後、ユージンが口を開く。
「…バカ言え。俺はここで…これからも成果を挙げて…出世してやるさ。行け!もう二度と会うこともないと思うが…お前の悪運が尽きないよう祈ってるよ」
ニヒルな笑みを浮かべたユージンに背を向け、アレクセイが絶体絶命の死地を脱した。
〜〜〜〜
ーードサ!
「ウッ!」
鼻をつく強烈な腐臭。
真っ暗闇の中でダッシュボードの底でクッションになったものの正体を悟り、その胸糞悪さにさしもの鋼の男も吐き気が喉元まで込み上がってくる。
必死で吐き気に耐えながらユージンの言われた手筈で収監された建物を脱出する。
傷の痛みに耐えながら自宅アパートに戻った。
ーーあれだけは…あれだけはせめて!
危険を冒してアレクセイが取りに戻ったのは、激動の10余年の最中にもこれだけは散逸しないよう保管していたかつての恋人がくれた恋の形見だった。
引き出しから一葉の封筒を取り出し、中身を検める。
プレゼントされた時は瑞々しいブーケの中の一本だったそれは、すっかり萎れ色褪せていた。
そしてカードと共に添えられた輝く金の髪の束。
それらを検めもう一度丁寧に封筒に戻し、懐にしまい込む。
アレクセイの傷だらけの肌にその封筒が触れる、
その瞬間に、瞼の奥に今も鮮明に焼きついた不滅の恋人の声が「生きて!アレクセイ」と、彼の魂に火をつけた。
ーー俺は生きる!
アレクセイはアパートの部屋を後にすると、再び闇に覆われた深夜の街に消えて行った。
〜〜〜〜
一刻も早く、日が昇る前に必ずモスクワを出ろ。
危険を承知で自分を逃したユージンの立場の為にも一刻も早くモスクワを離れたかったが、アレクセイにはどうしても見捨てる訳に行かない人間がこのモスクワにいた。
クリミア、ヤルタにいる祖母たちのことも気がかりだったが、ここでクリミアまで移動して欲をかくことは破滅に繋がる。
断腸の思いで祖母のことを断念した。
ーーすまない…。お祖母様。オークネフ…。
アレクセイが向かった先は市内でも場末の娼婦たちの住む一角だった。
人目を避けるように一室のドアを小さくノックする。
返事はない。
「スヴェーチャ…」
室内に入る。
暗さにすっかり目の慣れたアレクセイが、予測はしていたが酷く荒らされた室内に目を瞠る。
ーースヴェーチャ!スヴェーチャ?!
声を落として室内に声をかける。
アレクセイの呼びかけに、微かな呻き声がする。
呻き声の方にアレクセイが駆け寄った。
「スヴェーチャ!」
「あ…アレク…」
「大丈夫か?身体、起こせるか?」
アレクセイの懸念通り、革命前からの古い馴染みであったスヴェトラーナの元へもチェーカーの手が及んでいたらしい。
部屋と彼女の身体に残る凄まじい暴力の跡に、アレクセイの胸が締め付けられた。
「すまなかった…俺のせいだ」
「だい…じょう…ぶ。から…だ…は、丈夫に、出来てるん…だ」
「喋るな。ちょっといいか?ごめん」
アレクセイがスヴェーチャの衣服を脱がせて身体の傷に先ほどユージンから貰った薬を塗り込んでいく。
「骨折は…ないみたいだな。スヴェーチャ、俺と逃げよう。お前を迎えに来たんだ。…今すぐここを、モスクワを離れて…リトアニアまで行く。そこから…フランスを目指す」
「ふ…ランス?」
「そうだ。お前が憧れてた花の都パリだ。身体、キツイだろうが、少し我慢出来るか?」
スヴェトラーナがその問いにコクリと頷いた。
「よし。行くぞ。俺たちは…生きるんだ」
自らも怪我を負いながらも、必死でスヴトラーナを庇いながら、アレクセイはモスクワの街を後にし、国境を目指した。
ーー捕まって…たまるものか!俺は…死なん!!
数日後ー
《革命の英雄アレクセイ・ミハイロフ、レーニン暗殺未遂の容疑で処刑執行》 と新聞が大々的に報じた。
その新聞記事を国境沿いの小さな村で、他ならぬアレクセイ・ミハイロフ自身が目にしていた。
〜〜〜〜
リトアニアとの国境沿いの小さな村で、ユージンが言っていた逃し屋の元に飛び込んだ。
そこで偽の旅券と身分の手配をしてもらった。
ーーアレックス・スミス。
アメリカ人の(自称)フリージャーナリスト。
それがアレクセイの新しい身分だった。
(ちなみにアレクセイについて来たスヴェトラーナは、アレックス・スミスの現地妻ということになった)
何はともあれ、国境を超えたアレクセイとスヴェトラーナは、その新しい身分と旅券を携え、リトアニアからバルト海そして北海へと抜け、ベルギーに上陸すると、そこから陸路でフランスはパリへと辿り着いたのだった。