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第七十七話 intermezzo トーストと紅茶と貴方

英国へ移住してから、侯は職住をお分けになられて、二重生活を始められた。

レーゲンスブルクにいた頃は逗留していたアーレンスマイヤ屋敷から歩いて程ない場所のオフィスまで通勤していたが、人口過密地帯のここロンドンでは、アーレンスマイヤ家のような広く快適な屋敷を求めることは困難…というより最早不可能である。

そこで侯はこの際職と住を、つまりオンとオフをきっちり分けてしまわれることに決めたようだ。

ロンドンから自動車で1〜2時間程の静かな郊外に求めた屋敷は、英国最古と言われる大学都市でもあるためか学生が多く治安が良い。普段はご家族ー、妹御のヴェーラ様と新たに養子縁組をされて晴れて侯のお嬢様となられたアンナ様、と離れてロンドンでお暮らしになる侯も、ここならばまあ安全に快適に暮らすことが出来るだろうとのご判断だった。
テムズ川が流れ、古い司教座でもあるこの街は、ドイツのあの古い街にも少し雰囲気が似ているように思える。
ヴェーラ様もアンナ様もロンドンより断然こちらの地をお気に召されたようだ。

一方で侯と私は、ロンドンのオフィス近くに部屋を借りて月曜から金曜までをここロンドンで暮らしている。

古めかしい石造りのアパルトマンで、侯と私は一室を借りて平日の住居としていたのだった。

〜〜〜〜

侯の朝は早い。

季節によってはまだ日の昇る前の淡い月と明けの明星の輝く時間には起床し、そしてご自分がお使いになられたベッドは完璧に整えられている。
(軍隊で叩き込まれた習慣が骨の髄まで染み込んでいるのだろう。)

そう広くはない侯の書斎兼寝室にライトの点る音がする。
サモワールに火を入れ濃いめの起き抜けの一杯を嗜みながら、ここから夜明けまでは侯の短いプライベートタイムである。
(大抵は読書をされているか、日の出の早くなる時期はアパートを出て朝の街を散歩されているようである)

朝食は七時と決まっている。
ここで私は漸く侯と顔を合わせる。

「おはようございます」
「うむ。おはよう」

紳士たるもの、また元ではあるが軍人として教育を受けた者、侯も私もこの時には身だしなみは完璧に整えられている。

普段の家のことは通いの家政婦さんが入って執り行ってくれているが、朝食だけは私が用意をすることになっている。

とは言ってもペテルブルクやレーゲンスブルク、そして週末を過ごす屋敷のように給仕がつくような類のものではない。

トーストと紅茶。
ロンドンでの朝食は以上。
これだけである。

侯曰く「昔のように軍務に就いているわけでもなし、豪勢な食事は腹の奢り。却って肥満の元になる。これで充分である。お前も気兼ねなどせずさっさとそこに掛けて食ってしまえ!」との事で…。

以前では(戦地などの特殊な状況を除き)侯とこの私が、一つの食卓に差し向かいで朝食を摂るなど…!
考えられない勿体無き事に、当初は恐縮至極だったが、今では私も「平日のみの至福」と割り切り、この勿体無き栄誉と喜びを享受している。

とは言っても元々寡黙な質の侯、差し向かいで朝食を摂っていても余計な無駄話は殆どなさらない。
早起きの侯は朝食までには大抵新聞に目を通されているので、新聞を読みながら朝食を摂るなどという行儀の悪いこともなさらない。近頃放送の始まったラジオから流れるニュースに耳を傾けながら、時折時事の話を交わす程度である。

侯は、トーストにバター(この国のバターはとても美味である)とマーマイトなる妙な味わいの塩辛いペーストを、そして私は同じくトーストにバターとマーマレード(この国のマーマレードは至極美味である)をたっぷり塗って頂くのが常である。

そして紅茶。

簡素な朝食はあっという間に終了する。

この後私たちが部屋を出た後に通いの家政婦さんが片付けてくれるので、テーブルはこのままにしておき、出かける支度をする。

侯の靴をご用意し(侯の靴と、お召しもののメンテナンスだけは、家政婦任せにせず私が責任を持ってやらせていただいている)、今一度埃を払い、手にとって状態を確認し、侯の前に恭しく揃え、真鍮の靴ベラを手渡す。

侯の室内ばきを揃え、靴ベラを受け取り、帽子をお手渡しする。

施錠をし、侯と私は連れ立ってオフィスに出勤する。

格子戸のついたエレベーターを呼び(ガタガタと凄まじい音がするが、これが意外と頑丈に出来ているようで、全く不具合に遭遇したことがなかった)、通りに出る。

ロンドンの不安定な天候は、結構な割合で通りに出ると雨模様ということも少なくなかったが、ここロンドンでは何故だか雨でも誰一人傘を差さない。
侯も「郷にいれば郷に従え」とばかりに、帽子を目深にかぶり直し、早足でオフィスへ向かうのだった。

レーゲンスブルから英国へ移転したオフィスは、マネージャーのシフ以下顔ぶれは殆ど変わらない。
ここ現地で雇った事務員の顔ぶれと、交わされる会話がドイツ語から英語になったこと、そして窓の外の景色が静かで落ち着いた古都の街並みから、大都会の喧騒に変わったこと…ぐらいだろうか。

ロシア時代とドイツの亡命時は昼食を摂っていたが、ここ英国では昼食の代わりに午後の早めの時間にティータイムを挟み(侯は意外にもこの国のアフタヌーンティの習慣を気に入っているようだった)、夕方まで仕事に励む。
が、ロシアにいた頃のような無茶な仕事ぶりではもはや無い。

夕方には仕事を切り上げ、帰宅…の前に。

〜〜〜〜

仕事と帰宅の間の侯の欠かせない習慣。
それは自己鍛錬である。

ある時は市内にやたらある広大な公園内を走る走る黙々と走る。

ある時は温水プールを黙々と泳ぐ泳ぐひたすらに泳ぎ続ける。

仕事の終わる夕暮れ時からは、人生の前半の軍務で作り上げた強靭な肉体を維持するべく侯はひたすらストイックに鍛錬にお励みになる。

勿論私もそれに付き従う。

侯についてひたすら走る。
ひたすら泳ぐ。

時には「こういうものはやらぬとどんどん勘が鈍るからな」という侯におつき合いし、射撃場で的を撃ち、フェンシングの剣を合わせ、拳闘のリングで拳を交える。

あぁ、素敵です。
そのストイックな眼差し…、、

「セリョージャ、真面目にやれ!」

「は!」

鍛錬で散々肉体を苛めた後は、近隣のパブで軽い軽食を摂る。
まぁ、普段はこれが夕食を兼ねる。

そして1日の終わりの至福の一杯。

本気で飲めば底なしの侯ではあるが、最早分別のついた良い大人であるので、そんな馬鹿なお酒の嗜み方はなさらない。
平日はここでビールとスコッチを一杯。
これでご満足される。
(侯はアパートでも一切飲酒はなさらない。故郷を偲ぶウォッカは週末のみの愉しみということにしてオンとオフを切り替えているようだ)

そして日もどっぷり暮れた頃、我々はようやくアパートに戻る。

格子戸のついたゴトゴト煩いエレベーターで部屋のフロアまで上がり、真鍮の鍵を開けてライトを点ける。

よし。
今日も家政婦さんがいい仕事をしてくれていたお陰で、部屋はチリ一つなくピカピカ、台所もすっかり片付けられ気持ちがいい。

侯に外套をお脱ぎ頂き、帽子を受け取り、室内ばきをご用意する。

外套にブラシを掛け、靴を磨き、帽子の形を整え帽子掛に掛けておく。

アパートに戻った侯はダラダラと夜更かしをなさらない。

サッサとバスルームへ入ると1日の汗を流し、あっという間に自室に籠るとライトの消える音がする。

私も、1日の汗を流して、ベッドに入ろう。

明日もまた今日のような良き日でありますように。
侯が心安らかにお過ごしできますように。

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