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​第七十七話 Ⅸ

いつもは夜更かしなどなさらず規則正しい生活を心掛けている侯の部屋のドアの下からずっと灯りが漏れ続けている。

ーーあり得ないが…灯りを消し忘れたか?

恐る恐るドアをノックすると、そうではないようで中から「入れ!」と返事があった。

言われるままに、ドアを開けると、侯は珍しく自室で小さなショットグラスを傾けていた。

ライティングビューローには銀のフラスクが置かれている。

「自室でお酒をお召し上がりになるなど…珍しいですね」

おずおずとそう言った私に、

「これが…飲まずにやってられるか」
ーーお前も飲め!

と苦々しげに私にも勧めてきた。

「はっ。ではお言葉に甘えて」

勧められるままに、ライティングビューローのガラス扉からショットグラスを取り出すと、銀のスキットルから透明の液体を注ぐ。

喉を通り胃の腑に心地よく落ちて行く無色透明のドライな故国の酒がなんとも懐かしい。

「美味いですね」

「…だな」

「ロストフスキー」

「は」

「オンナというものは…分からぬな」

そう言って侯は、ムシャクシャと頭を掻き毟ると、ショットグラスの中身の透明な液体をグイッと一気に飲み干した。

〜〜〜〜

屋敷に戻ってきたアデールは、ここ数日の苛立ちを嘘のようにどこかに置き去り、晴れ晴れとした顔をしていた。

余裕綽々で、先日私の不在時にすったもんだがあったらしいアンナの謝罪をいなす。

そして
あの爆弾宣言だ。

一体
何がどうなったら、あの境地に至るのだ?!

オンナの思考回路というのは、一体どういう構造になっているのだ?!

「詳しく…詳しく話を聞かせてくれ」

やっとの事でその一言を発した私に、アデールは満面の、まるで全能の女神のような笑みを向け、「ええ、わたくしも、あなたと色々話をしなければと思っていたところですわ。これからのこと、そして息子のこと」と答えた。

サロンで私とアデールの二人で向かい合う。

「一体…どういうことだ。ここに住まない…南仏へ移住するとは」

「言葉の通りですわ。わたくし、グラースへ移住致しますの。そこで香料のためのバラやオレンジやジャスミンの農場と、工場を買い取って、経営致します」

「な、な、何を、何を夢みたいなことを申しておるのだ!第一そんな農園経営など、ズブの素人のプリンセス育ちのそなたに務まるわけがなかろう!そもそも何故、よりにもよって農園を経営しようなどと思ったのだ!」

「ああ、それはね…」

アデールがその決断に至った経緯を語り出した。

〜〜〜〜

「高いわね…」

「…そうですわね」

ボーから渡された請求書に記された価格に、母もわたくしも思わずそう呟いた。

確かに
香水、バスオイル、ボディクリーム、石鹸等フルでオーダーしたが、しかしこの価格の高騰は…。

「ラレー社も、今やロシアの王室の後ろ盾を失って。色々大変で、やむなく価格の大幅見直しに踏み切ったわけです。それに…」

「それに?」

「原材料が高騰しているんです。私の作るフレグランスはね、ここカンヌから20キロほど内陸に行ったグラースという所で採れる最高級の花の香料を使用しているのです。バラも、ジャスミンも、ラベンダーも、オレンジフラワーも。しかし先の大戦などの影響もあって、そのグラースの香料産業もなかなか苦しい状況でね。他所の後発の安い香料に押されて苦戦を余儀なくされております」

「まぁ!」

ボーの話に母が同情のこもった声を上げる。

「クォリティで言うとグラースの香料は最高級です。そして私はクォリティを下げる気はさらさらない。だから、この対価を払っても求めてくれる方のみに、提供することに致しました」

「そうなの。ならば仕方がないわね」

納得したように母がバッグから小切手帳を取り出した。

「ご理解を賜り痛み入ります」

「安っぽい香りを纏うなんて、我慢がならないわ。貴女もそうよね?アデール」

「え、ええ。そうですわね」

わたくしもバッグから小切手帳を取り出し、小切手帳に金額を書き込もうしていた母を手で制すと、二人分の請求金額分の小切手を切りボーに手渡した。

「ありがとうございます。今後もご贔屓にお願い申し上げます」

恭しくわたくしから小切手を受け取ったボーが何かを思いついたようにわたくしのことをジッと見つめる。

「?何かしら?」

「プリンセスアデール様。貴女、いっそのこと、原材料…つまり農園と工場ごと買い取ってしまってはいかがですか?貴女が健全な経営をして香料を安定供給してくれれば、私どもも命綱の香料が手に入って貴女に常に安定したクォリティと価格で製品を提供することができる。貴女、相変わらず資産家でいらっしゃるのでしょう?ならば左前で廃業寸前の農園と工場を買収するなど…造作もないことではありませんか?」

ボーのとんでもない思いつきに、呆気にとられたわたくしに、母までも焚きつけてくる。

「あら!いいじゃない。貴女、離婚後から革命まで、立派に領地経営をしていたらしいじゃない?」

そんな馬鹿なこと…。

あゝ、でも。

馬鹿なこと と思いつつも、心の片隅でその話に湧き立つ自分がいる。

もう一度、自分の力で立って、自分の裁量で生きていく。

あの頃の、背筋の伸びるような全身が引き締まるような緊張感が蘇る。

わたくしは、封印していた扉を、再び開けてしまった。

苦しいことも多いけど、屋敷の奥で飾り物の奥様としてかしずかれ何をするわけではなく人生を無為に消費していた、「ユスーポフ侯爵夫人」だった頃には絶対に得ることのできなかった、「アデール」と言う名の冒険譚の新章の一ページに、わたしくしは手をかけてしまった。

〜〜〜〜

そんな口車に簡単に乗せられてしまうとは…。

上機嫌で事の経緯を語ったアデールに、思わず頭を抱える。

しかも、もう既にその農園と工場のオーナーと話を進めて、口約束を交わし、あろうことか今後の住居となる屋敷の内金まで払ってきたという。

「…無理だ。そんなに甘いものではない。今週末にでも、私も同伴してそのオーナーに頭を下げてやる。頭を冷やして考え直せ」

「イヤです!」

「アデール!」

「ロシアでも…ちゃんと領地経営を致しておりましたわ!農場経営だってやってみせます!」

「何を馬鹿な…。第一貴族に莫大な特権が与えられていたあの国で領地を治めるのとは全く訳が違うのだぞ?」

「そんなの分かってます!」

「分かっておらぬ!そなたは全然分かっておらぬ」
ーー一体…何が不満なのか。この英国の静かな屋敷でユスーポフ夫人として、私の妻として穏やかな人生を全うするのは、不満か?それとも…やはりアンナの言葉を…信じる…か?

「アンナ…アナスタシアとのことと、今回のことは、全く別問題ですわ。これはわたくし個人の問題です。アナスタシアも、そして彼女が言っていた…ドイツの女性とも…、一切無関係でございます」

「…復縁は、どうする。Jr.のことは?」

「わたくし、別居の申し出は致しましたが、何も復縁そのものを見合わせるなどとは、一言も申しておりませんわ。復縁は…致します。だってわたくしあなたのことを愛しているのですもの。Jr.は、グラースには連れて行きません。英国に残します。なので今後もこちらで養育下さいませ。あの子ももう来年は9つですわ。これからは、一人前の紳士になるべく教育とマナーと、これからの人生を左右する人脈を身につけて行かなくては。パブリックスクールに入るための全寮制の予備学校へ入れることを考えております。よろしいですわね?」

「あ?あ、ああ。それは、私もそのつもりでいたから、異論はないな。そろそろJr.も母親の心地の良い巣から飛び立つ時期だ。これからは厳しい規律の中で不屈の意志と精神を身につけていくべきだ」

「同感です」

「その…Jr.のことは解決ということで、私たちの復縁のことも含めて、…今少し私に考える時間をくれないか?今週末には結論を出すゆえ」

「ありがとうございます。急なことで驚かせてしまってごめんなさいね。あなた」

「いや…」

突如拓けた新しい未来に浮き立つアデールとは裏腹に、レオニードは、腰掛けた椅子にズブズブと沈み込んで行くような心持ちだった。

〜〜〜〜

一体、何が不満なのだ!?あれは…ああいう女だったのか?そもそも私が…アデールという女を全く理解していなかったということか?

「クソッ!」

一言毒づき乱暴に葉巻の吸い口を噛み切ったレオニードを、ロストフスキーが宥めに回る。

「ま、まぁ。…でも、アデール様のご決断は、そんなに無謀なものでしょうか?」

その言葉にレオニードがギロリと目を剥く。

「あ、いや…。でも、アーレンスマイヤ家のお二方…ユリウス様もマリア・バルバラ様も、ご婦人ながら立派に会社を経営されてるし」

「彼女たちとアデールは全然違う!」

「…そうは申しますが…一体では、どこがどう違うのでしょうか?」

「それは…アデールはプリンセス育ちだし」

「あのお二人だって、貴族のお姫様育ちでございます。規模こそ違うとはいえ、さして変わりはございません」

「学校にも行っておらぬし…」

「あの二人も学校へは通われていなかったかと」

「第一覚悟が違う!」

「…それは、どのようにでしょうか?アデール様のご覚悟は、ぶっちゃけアデール様にしかお分かりにならないのでは?」

何と!あろうことか、ロストフスキーまでが、アデールの肩を持ち始め、あれの無謀な試みの背中を押し始めた。

全く。クセニア様といいボーといい!
みんなどうかしている。
いや
どうかしているのは…私の方なのか?
そんなことはない。
断じてない。
やはり私の言っていることは、正しい…筈だ。

「冷静に考えて、やはりアデールには無理だ。事実ここ数年の社会の激変で…何百年も商売を続けてきた老舗も、次々と破産の憂き目に遭っているのだ。例えばユリウスの元婚家のサンデュ商会とか…」

ーーサンデュ商会!

そこまで言って、先日ユリウスが訪英した折に彼女が話していたことがレオニードの脳裏に蘇った。

〜〜〜〜

ーーサンデュ家の破産に際して、少しでも役に立てれば…と、あの家の系列の会社を一社買い取ったんだ。

ーーほう。相変わらず、こんなご時世にもかかわらず、増益を保っておるのだな。感心なものだ。業種はなんだ?

ーー製薬。サンデュ製薬を買い取った。ここは…後々アニエスに経営を譲るつもりでいる。

ーーそうか…。しかし、サンデュ製薬は、ここ数年は大した実績もなし、これと言って目玉となる製品もなし…。お前がなんの勝算もなしに、そんな会社を買い取るとは…。まさか単なる慈善というわけでもないのであろう?

ーー勿論!買ったからには、利益を上げるつもりでいるよ。アーレンスマイヤ商会は製薬を持っていなかったし。ぼくが医療と手を組んだ都市開発に携わっているのは知ってるよね?

ーーああ。ブレンネル女史の経営する大病院の…医療と提携した、斬新な計画だったな。そこに薬品を卸すのか?

ーーううん。それは考えていない。第一フランクフルトの工場の生産ラインは、設備も古くて…あれじゃあ他社と太刀打ち出来ないし、第一フランクフルトじゃ物理的に色々不便だ。あそこは上物ごと売却したよ。工場もラボも本社もレーゲンスブルクに移す。ぼくが…ぼくらがこれから参入としているのは…トイレタリー、化粧品だよ。

ーートイレタリー…か?!

ーーうん。イタリアの老舗に、サンタ・マリア・ノヴェッラというオーガニックのスキンケアのブランドがあるでしょう?価格は高いけど品質が良くてパッケージも美しく清潔で。ああいうのが、ドイツにもあったらなあと思って。まずは都市開発で作ったヴィラで暮らす富裕層の方々を顧客層に取り込むつもりでいる。

 

―― ほう…。

ーーただね、香料や有効成分の原料となる花やハーブの調達が中々難しくてね…。薔薇やジャスミンやラベンダーやオレンジフラワー…。それから基材となるオリーブやアーモンドのオイル…。ドイツは上質の水資源や鉱水には恵まれてるけど、これらの植物を自国生産で賄うのは…ちょっと難しくて。

〜〜〜〜

ーー破茶滅茶な成り行きだが…何というヒキと運の強さだ!これは或いは…。

「侯?あの…。火、消えてますよ?」

何かを思いついたように、葉巻を手にしたまま思案顔となっていたレオニードに、ロストフスキーが恐る恐る横から声をかけて、マッチの火を差し出した。

「ロストフスキー!」

「わっ!」

まるで昔の作戦を立案していた頃のように黒い瞳を爛々と輝かせ、自分の名を呼ばれたロストフスキーが思わずマッチを取り落とし、慌てて火をもみ消す。

「お前は、やっぱりできる部下だ!この話は、ひょっとすると大きなビジネスに化ける可能性があるぞ!」

「へ?」

「サンデュだよ!サンデュ製薬!ユリウスの…この間の話を、お前も聞いていただろう!…すぐ、今すぐ屋敷に電話を回せ!」

「今…ですか?」

「そうだ!アデールに繋げ」

「か、畏まりました」

「侯…」

ロストフスキーが恭しく受話器を手渡す。

「…アデールか?夜分すまぬ。私だ。急だが明日、すぐにロンドンに来い!ああ、そうだ。私のオフィスへ だ。駅に迎えを寄越す」

ーー私と、ビジネスの話をしようではないか。

©2018sukeki4

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